血だまりに倒れた筆耕者
「原郷人の血は、原郷へと流れ返って、はじめて沸騰を止める」 ――鍾理和「原郷人」
高雄市美濃の笠山に立ち、故郷の山並みを見下ろす鍾理和の孫娘・鍾舜文の心は、穏やかに静まり返っている。
そこは彼女の祖父・鍾理和の「原郷」だ。鍾理和は18歳を過ぎてから、家族とともに屏東の大路関から美濃に移り住み、笠山山麓で文筆生活を開始した。その生涯は紆余曲折に満ち、肺に持病を持っていた。1960年8月4日、鍾理和は過労から肺病を再発し、デスクに鮮血を吐いて倒れ、そのため「血だまりの中の筆耕者」とも呼ばれる。
鍾舜文は、鍾理和が吐血した当時のデスクは文学記念館の1階にあるという。鍾理和が用いた文具や手書きの原稿はすべて大切に保存されており、半世紀前の情景がそのまま再現されている。彼女は幼い頃から、父親と祖母が祖父のことを語るのを聞いて育った。鍾理和は生涯小説を書き続けたが、当時はそれを発表する場に恵まれなかった。後にようやく『聯合報』文芸欄に投稿したところ、主編・林海音がこれを高く評価し、小説家の夢をかなえることができたのである。
同じ志を持つ文学界の友人たちが、鍾理和の文学記念館を設立する際も、事は順調には運ばなかった。戒厳令が敷かれていた時代のこと、鍾理和は初めて記念館が設立された台湾出身作家であり、これが大きく注目されることとなった。運命か、何か目に見えない力が働いたのだろうか。1976年に、遠景出版社が台湾で初めての作家全集『鍾理和全集』を出版し、これも大きな話題となったのである。
その後、映画監督の李行が鍾理和の伝記をもとに、映画『原郷人』を制作した。スター俳優の秦漢が鍾理和を、林鳳嬌が鍾平妹を演じた作品は観客の心を揺さぶり、鍾理和文学ブームが巻き起こった。この時期に記念館設立の構想もしだいに形になり、さらに多くの人が鍾理和の生涯を知ることとなる。
1979年6月、台湾各地の著名作家——鍾肇政、葉石濤、林海音、鄭清文、李喬、張良沢の6人が、資金を集めて、鍾理和の作品『笠山農場』の背景となった場所に「鍾理和文学記念館」を設立する計画を立てた。美濃出身の多くの知識人も続々とこの列に加わり、1986年に記念館は無事竣工、台湾初の民間資金による文学館が誕生したのである。
鍾理和文教基金会で事務局長を務める王雅珊によると、鍾理和記念館の展示空間は2013年にプランが立てなおされ、鍾理和の手書き原稿や作品、そして客家文化の特色を中心として展示することとなったという。また、台湾人作家の手書き原稿や作品は同館のコレクションとしていく。基金会では毎年「笠山文学キャンプ」を催して文学創作と読書を推進しており、この活動は2016年にはすでに20年目を迎えた。
孫娘の鍾舜文は、子供の頃からいつも近くにあった笠山を振り返り、祖父・鍾理和と亡くなって5年になる父の鍾鉄民を思い出す。彼女の愛する家族は、文学のために生き、今は自身が愛してやまなかった大地に抱かれて、永遠の命を生きているのである。
午後の優しい風が吹き、今は亡き作家の記念館に静かな時が流れる。
台南市はかつての山林事務所を「葉石濤文学記念館」に改修した。
館内の2階には葉石濤の住まいが再現されている。高雄左営の家から運んできたベッド。
館内の2階には葉石濤の住まいが再現されている。小説を執筆した書斎のデスクもある。(郭漢辰撮影)
葉石濤が暮らした高雄左営の家に近い蓮池潭には記念碑が立てられ、台湾文学への期待の言葉が刻まれている。
葉石濤が暮らした高雄左営の家に近い蓮池潭には記念碑が立てられ、台湾文学への期待の言葉が刻まれている。
鍾理和文学記念館の外観(左)。記念館に近い台湾文学大道には、鍾理和の彫像とその文字を刻んだ碑があり、文学の生命が今も生きていることが感じられる。(鍾理和文学記念館提供)
孫娘の鍾舜文は館内でしばしば鍾理和の生涯と記念館設立の経緯を説明している。(鍾理和文学記念館提供)
「鍾理和」と名付けられた小惑星の説明。 (鍾理和文学記念館提供)
記念館1階に再現された鍾理和の書斎に立つ息子の鍾鉄民。 (鍾理和文学記念館提供)