芸術の角笛を吹き鳴らせ
台湾での多目的空間の始まりは、1989年の政治的な戒厳令解除前後で、株式市場にホットマネーが流れ込み、美術品投資のブームが巻き起こったが、当時の市場に好まれたのは伝統的な水墨画と、戦前からの台湾の写実派油絵であった。一方では海外に留学し、多様な媒体表現に長けた芸術家が次々に帰国してきたが、作品のテーマや表現手法は新しすぎ(政治的タブーへの挑戦や観念的に過ぎるなどの傾向が見られた)、美術館や画商に受け入れられるには至らなかった。そのため芸術家は自分で展示空間を探し出すしかなかった。中でもよく知られているのが台北市和平東路の2号アパート、伊通街の伊通公園、台南市の辺陲文化、高雄の阿普画廊である。
伊通公園の初期メンバーで台南芸術大学造形芸術研究所の所長でもある顧世勇教授は当時を回顧し、青年期だった前衛芸術家たちが志を一つにし、一つの目標に向っていったと言う。その目標は経済的利益を考えずに、台湾の美術と美術界を世界につなげることであった。そこから現代美術を背負って立つ中堅世代が大きく育っていき、また美術館やアカデミーを刺激し、開放へと向わせた。1991年、設立して8年経った台北市美術館が、地下1階のB04を前衛芸術展示スペースに設定したが、これも運動の成果である。
設立して20年の伊通公園を例に取ると、最初は友人数人がカメラマン劉慶堂のアトリエを借り互いに切磋する空間としていたものであった。それが1990年には隣のスペースを借りて、正式にギャラリーとしてオープンした。最初の10年は劉慶堂の商業写真の利益で維持されていたが、1年24回と回転の速い展示を運営し、内外の芸術家や文化関係者の交流拠点として知られてきた。さらには新鋭芸術家が美術館や国際展にデビューする足掛りの場に発展していった。現代美術の新人開拓への貢献は、高い評価を受けている。
時代が2000年に入ると、前衛芸術に対する一般の受容度が高まってきた。政治的にも政権交代があって政府の文化部門との協力モデルが確立され、遊休化した工場や古い軍人住宅、鉄道倉庫などが展示空間に開放され、新しい世代の芸術家にとって、これまでよりも発表の舞台を容易に見つけられるようになった。
その一方で、多目的空間の性質も変化していく。美術館や画商に対するチャレンジの意識がなお残っていたが、前世代よりもずっと芸術コミュニティの確立や市民意識が積極的に意識されるようになってきた。
1995年設立の竹圍工作室を例に取ると、その場所は地下鉄の竹圍駅に程近い淡水河の川辺の廃棄された養鶏場であった。この工作室は、華山芸文特区運動(台北の中心部に位置する古い工場の芸術地域としての保存運動)に参加した芸術家蕭麗虹と陶芸家二人が設立したもので、当初は国際的な芸術家との交流と研究を目的としていた。2006年にはに地域との協力関係を求める運動に展開していった。たとえば芸術家を学校に紹介し創作や交流を行ったり、また淡水河環状道路の建設に反対する地域の運動を支援してきたのである。
この数年、ソフトとハードの両面を充実してきた竹圍工作室は長期的な欠損から抜け出し、文化建設委員会と国家文化芸術基金会の補助を受けられるようになった。進出する芸術家からは賃料(20坪の地鶏小屋であれば月7,000元、学割もある)を受け取るが、周辺の緑で中心を囲むという理念は変らない。
忠信市場に「写真シェア・プラットホーム」を開いた阿徳は、リアルの空間においてのみ、人は心を落ちつけて写真の中の光を感じられ、人と人も実際に相対してこそ心を通わせられると考えている。