映画との縁
1986年、香港の映画雑誌で写真を担当していた葉錦添は、ツイ・ハークの推薦があって、ジョン・ウーの「男たちの挽歌」の美術を担当し、ここから映画との縁が始まった。翌年はスタンリー・クワン監督の「ルージュ」で、1930年代香港の華やかで浮かれた花街を再現し、古典文化と芸術に強い興味を抱くようになる。
当時は香港映画の黄金期で、年間300本を超える新作が上映されていた。そこで映画の仕事が舞い込んだが、商業志向の映画は繊細さに欠けると、いつも断っていたと言う。
その後1992年に「誘僧」で、劇団「当代伝奇劇場」を設立した台湾の京劇俳優呉興国と知り合った。二人は意気投合し、葉錦添はトランクを片手に二人の助手を連れて台湾にやってきて、呉興国と舞踏家の林秀偉夫妻が住む20坪のアパートに転がり込んだ。呉夫妻一家4人と、ここで3ヶ月も生活を共にしたのである。
舞台衣装を手がけたことがなかった葉錦添だったが、怖いもの知らずの自由自在で舞台「楼蘭女」を手がけた。温和で端正なイメージで知られる京劇女優魏海敏に、ルネサンス時代のフレーム付下着で膨らんだスカートに、翻すと舞台一杯に広がる中国式の袖付の衣装を着させて、高くそびえる鳳冠をかぶらせた。豪華壮麗なデザインと、鮮やかな隈取で、ギリシャ悲劇メディアを改編し、夫への報復に子供を殺したヒロインの狂気と悲嘆を表現した。
「あの頃の台湾は面白くて、呉興国などの狂気の連中は飲まず食わずで必死に京劇の世界にのめりこんでいました」と、葉錦添は純粋で活力に溢れていた90年代の集団狂気を思い起こす。
彼にとってその頃の台湾は文化の息吹に溢れ、人材の集まる芸術の森だった。映画では侯孝賢や楊徳昌、パフォーマンス芸術では絶頂期の林懐民と雲門舞集がいて、新聞を開くと白先勇や李敖、柏楊が健筆を揮い、誠品書店で最新の外国雑誌を開けば、文化的荒地の故郷香港では得られなかった満足感を感じ取れた。
狂気の呉興国も、香港から来た葉錦添の創作への情熱に驚かされた。布切れ1枚、飾り1つでも自ら生地服飾店の集まる永楽市場に買出しに出かけ「コーヒーを飲む金がなくても、本を買う金は出しました。しかも自分を充実させ、完璧にしようという努力を放棄したことはなかったのです。どのようなメディアであろうと、大量の本を抱え、厳しい表情で自分の考え方を語り、努力を続けていました」と語る。
1993年、「楼蘭女」の初演は大方を驚かせ、葉錦添はここから台湾の演劇界に7年近くを過ごして、漢唐楽府、雲門舞集、優劇場、無垢劇場など多くの舞台と衣装設計を手がけていった。
中国古代は衣冠王国と呼ばれていたが、文化の伝承や歴史記述の誤りから、中国唐代の美学が日本のものと誤解されていると言う。唐代の服飾は精神美を重んじながらも官能的な効果を強調し、大胆に肉体を露出するが、これは美への自信と豪奢な表現の現れである。これに反して、日本の大和文化は含羞の美を重んじ、女性は衣服にくるまれて、男性社会が主導する謹厳な礼節を表す。「二つの民族は異なる精神文化をそれぞれ表現しています」と、服飾考証学を確立してきた彼は分析する。
無垢劇場の舞台「醮;」において、重さ40キロに及ぶ幾層も重なる媽祖の荘厳な衣装をデザインし、またオーストリアのオペラ劇場で、林懐民が演出する「羅生門」に京劇と歌舞伎を組合わせたデザインを見せた。こうして新しい舞台を共に作る仲間として「台湾の芸術家の誰とも知り合いになりました」と得意そうに語る。
しかし、2000年に呉興国と「リア王ここにあり」を上演してから、葉錦添は次第に台湾の演劇に失望していく。市場が狭すぎて専門の人材を養えず、洗練された舞台を支えられないのである。「資金不足で夢幻の舞台を作ろうとしても、気力を使い果たすだけだ」と、舞台を離れて映画に戻ることにし、李安(アン・リ−)監督の「グリーン・デスティニー」の美術を担当した。ここからレトロながら前衛的なオリエンタルモードで世界を征服する。仲でも「グリーン・デスティニー」後の中国語映画は時代物武侠映画がブームとなり、資金をかけた大規模な映画制作が続いた。「PROMISE 無極」「夜宴」「レッドクリフ」など、300人を超える美術スタッフを動員する映画に葉錦添は欠かせない存在となり、中華の美を強く打ち出した。
写真と絵画は葉錦添が初めて世界を見た目である。写真は創作ではなく、内在と外在を洞察するものだと考えている。写真はその作品。