台北の歴史
18世紀中頃、福建省泉州の三邑(晋江、南安、惠安)から渡ってきた人々が淡水河河岸の艋;舺;に定住した。艋;舺;の語源は平埔族の言葉で「小船」を意味する。200年の後、同名の映画でこの街は再び大きく注目されることとなった。
福建省三邑の人々は海を渡る時に晋江の安海龍山寺から観音菩薩をお連れし、資金を集めて艋;舺;に龍山寺を建立した。1738年に落成した龍山寺はこの土地の宗教と貿易の中心地となった。
地盤と商業利益をめぐって、三邑出身者は隣接する泉州同安出身者との間で、後に「頂下郊拚;」と呼ばれる闘争を繰り広げる。この戦いに負けた同安出身者は彼らの信仰する神とともに北の大稲埕;に移り、霞海城隍;廟を建てたのである。
艋;舺;は淡水河に隣接することから、台北の商業の中心地となったが、後に河川の土砂が堆積し、繁栄はしだいに大稲埕;へと移っていく。
西区の歴史は古い建築物と昔の生活の跡に見ることができる。例えば艋;舺;の剥皮寮(地名)は、かつて三邑出身者と同安出身者の集落が隣接していた地域で、「樹皮を剥ぐ」場所だったことから「剥皮寮」と名付けられた。艋;舺;がかつて輸入建材の集散地だったことがわかる。
剥皮寮には台北で最も古い清代の街並みが残っており、2003〜2007年に修復されて本来の姿が留められている。この修復に携わった若き古跡専門家の林大緯によると、剥皮寮に並ぶ家々は華やかではないが、庶民の生活がうかがえると言う。
現在の広州街と康定街が交わるあたりには、かつて石炭を販売する店が集まっていた。三輪車の車夫はここを「土炭市」と呼び、ここに集まって世間話をしたり、休憩を取ったりしていた。喉が乾けば近くの秀英茶室で冷たい茶を飲んだ。
古い町並みが修復された剥皮寮の一部は郷土学習エリアとなり、展覧会場もあって休日には特に若者が好んで訪れる場となった。だが、地域住民の生活とはやや離れてしまったようでもある。
「ちょっとトーンが違うんですよ」と艋;舺;で育ち、今は大龍峒;で古跡解説ボランティアをしている郭先生は言う。「新しい」剥皮寮は艋;舺;の古い住宅地の中で、浮いた存在になっていると言う。
地元の歴史文化研究者、高伝棋によると、剥皮寮が歴史文化パークとして保存されたことで艋;舺;の知名度は高まり、地元の人々に自信を取り戻させたが、デザイン重視の古い町並みは実際の庶民の生活を再現できていないと言う。ここに青草茶やマッサージなど地元の産業を導入して、生活の匂いを高めた方がいいのではないかと提案する。
中山北路沿いにある台北故事館の前身は1914年に完成した円山別荘。イギリスのチューダー様式と19世紀末の新古典主義様式を融合させた台北で最も歴史ある邸宅の一つで、家主は大稲埕の豪商・陳朝駿だった。