昨年11月下旬、夜10時過ぎ、北京に到着したばかりの台湾の作家、劉墉と劉軒の親子は、ホテルで大陸の中央電視台の番組「聊天(おしゃべり)」のスタッフ3人と打ち合わせをしていた。これは大陸全土で2000万人が見ている番組である。同番組司会者のュル萍氏は、10年連続して大晦日や中秋節の特別番組の司会もしており、何回も江沢民氏とともにステージに立ったこともある、大陸では非常に有名な司会者だ。「聊天」はそのュル萍氏によるインタビュー番組である。
最大範囲の宣伝活動
作家の劉墉が息子とともに大陸に進出する以前から、大陸で劉墉のマネージャーとしてプロモーションを担当してきた曲小侠さんは、彼のために大陸での取材や公演、宣伝活動などのスケジュールを手配してきた。発行部数130万部という「北京晩報」紙のインタビューや、大陸で二番目の人気を誇るウェブサイト捜狐ネットでのオンライン対談なども実現させた。
劉墉が宣伝のために大陸に来ている時期以外にも、曲小侠さんは若い読者をターゲットとした雑誌に、劉墉のコラムを掲載することを中心に活動している。曲さんの働きかけで、発行部数300万部という「女友雑誌」や、30万部の「中外少年雑誌」「中学生雑誌」など、中高生の間で最も人気のある雑誌のほとんどに劉墉はコラムを書いている。「私は毎月、劉先生に大陸での原稿執筆依頼を出しています。北京だけでなく、重慶、太原、広州など、掲載地域は全国各地におよびます」と曲小侠さんは言う。彼女は毎日、中国大陸全土の新聞や雑誌、テレビに目を通し、各省で影響力のあるメディアを調べ、それらのメディアの属性に合わせて、作家を売り込む方法を考えるのである。
現在、大陸でのプロモーションを彼女に依頼している台湾の作家は、劉墉の他にも林清玄、簡媜がいて、それに台湾で英語の先生として人気がある徐薇も、彼女に大陸での宣伝活動を依頼している。
大陸各地を隅々まで歩く
曲小侠さんの書斎の壁には、彼女自身が撮影した写真作品がたくさん貼られている。寧夏の壁画や黄河などの写真だ。1957年生まれの曲さんは、幼い頃から、民族演劇学者だった父、曲乙四氏が各地で民間歌謡を採集するのについて歩いていた。以前は大陸の新聞出版署(中華民国の新聞局に当る)に勤務していた彼女だが、公務員は給料も少なく、時間も自由にならないので、自分で文化ワークショップを設立した。実は彼女は、時間をかけて各地を歩き、各地の風習を観察したり、写真を撮ったりするのが何より好きなのだと言う。
そして1995年、曲さんは劉墉と正式に協力関係を結び、彼女は中国大陸における劉墉の作品のプロモーターとなった。まだ個人による講演会などが少なかった当時、台湾の作家が大勢の聴衆の前で講演をする場を設けるには、多くの政府部門の許可が必要だった。しかし曲さんにはそれまでに築いた人脈があったため、多くの部門が彼女への信頼からこの難しい申請を許可してくれたのである。今や劉墉も林清玄も、大陸で数十回に上る講演会を開いているが、それはすべて曲小侠さんが計画し、さまざまな手続きを経て実現させたものだ。作家との事前の打ち合わせから講演の内容、観客からの質問の選別まで、すべてを彼女が担当し、問題となりうるあらゆる敏感な話題を避けるよう作家に促している。
しかし、いくら事前に準備していても、会場では突発的な問題が生じるものである。例えば、講演会の聴衆から台湾と大陸との文学の違いを問われた劉墉が、台湾の作品の方が「やや気軽で自由だ」と答えると、すぐに客席から「では大陸の文学は自由ではないと言うのか」という質問が返ってきたこともある。また林清玄が長沙で講演した時には、ちょうど中秋節だったため、林清玄が感情を込めて「これは私にとって初めて『国外』で過ごす中秋です」と言ったところ、会場はざわめき立ち、観客から抗議のメモが次々と提出された。その時、曲さんは傍らから作家にメモを渡し、説明と修正を求めなければならなかった。
海賊版裁判で初の勝利
大陸に進出する話題になると、どの作家も海賊版には極めて神経質だ。1999年の冬、零下18度という東北の瀋陽で、曲小侠さんは劉墉作品の海賊版裁判に勝訴した。これは、台湾の作家にとって、大陸の海賊版裁判での初めての勝利だった。
劉墉の作品の海賊版は、大陸では70種類以上出ており、「それだけで展覧会が開けるでしょう」と曲さんは笑う。海賊版問題の処理において、彼女はまず、新聞出版署から公文書の発行を受けることに成功した。この、赤い国の紋章の印が押してある文書をもって、彼女は全国に取締りの強化を要求した。そして、海賊版の発行者の追及は難しいため、劉墉の提案によって海賊版を販売した書店を訴えるようにしたところ、最終的に勝訴できただけでなく、4万人民元の賠償金を得ることもできたのである。この他に現在、彼女は台湾の旅行作家・関孫知の海賊版訴訟もサポートしている。
かつて大陸の出版社と言えば、すべて国営事業で、書籍は「商品」としてではなく、精神の糧として扱われてきた。そうした中で、劉墉を一つのブランドに育て上げ、書籍を商品として扱うようにしたという点で、曲小侠さんは大陸の出版業界に新しい世界を切り開いたと言える。劉墉は、曲さんと協力関係を結ぶ前に、ある出版社と5年の契約を結んだが、本の売上は1万部に満たなかった。それが今では大陸全土の中高生に大人気の「特級ベストセラー作家」とまで言われるようになったのである。
劉墉のプロモーションに成功した曲小侠さんは、台湾の作家は大陸で一度に複数の出版社と契約するべきではないと注意する。幾つもの出版社と契約すると、どの会社も他社の利益につながることを恐れて、その作家のために宣伝費をかけようとしないし、どこも海賊版の問題に真剣に取り組もうとせず、結局は逆効果になってしまうからだ。
今日、劉墉の作品は正規版と海賊版を合わせると1000万部以上売れている。「劉先生には先見の明があると思います。先生はこの市場の潜在力を見抜き、その開拓に全力で取り組んできたからです」と語る曲さんは、大陸市場に進出したいと思っている作家の多くには、このような決意が欠けていると指摘する。劉墉は、台湾の金石堂書店で10年連続してベストセラー作家とされてきたが、大陸では敢えてゼロからスタートし、印税を引き上げることもせず、大陸市場の開拓に取り組んできた。しかも初めの3年間の印税は、すべて大陸市場での宣伝費に当てたのである。
だが、曲小侠さんが代理する、あるいはプロモーションを手がける台湾の作家が、すべて成功しているわけではない。彼女は以前、台湾のシェークスピア絵本を代理したことがあるが、これで彼女は30万人民元余り損失を出した。また、純文学に属する簡媜の作品にも苦戦している。ただ、曲さん自身は簡媜の作品にほれ込んでいて、そのプロモーションには価値があると考えている。「読者の質を高めるには、大陸と台湾の心ある人々の努力が必要です」と言う。
気ままな一人旅が好きな彼女は、自分のオフィスを持って、ようやく時間が自由に使えるようになった。昨年の夏には、林清玄とともに大陸の茶の里を10ヶ所訪れ、杭州では龍井茶を、洞庭湖の心君山島で「君山銀針」を味わった。1月には山東省栄城県の白鳥の生息地を訪れたし、旧正月には陜北県に伝統芸能を見に行く。彼女の文化の領域はますます広がっていくようだ。
統一戦線の時代
今日では台湾の作家が次々と大陸に進出しているが、台湾海峡両岸の文化交流がまだ盛んではなかった頃、大陸では非常に力のある三聯書局が香港や台湾の作家を大陸に紹介する役割を果たしていた。当時、三聯書局の総経理を務めていた沈昌文さんと言えば、世界各地の華人作家で知らない人はほとんどいない。
1978年11月、共産党の11期3中全会で鄧小平氏の路線が確定し、大陸の文化事業も新しい時代を迎えた。その翌年4月に、後に大陸の出版業界で大きな影響力を持つようになる「読書雑誌」が創刊され、1980年、ベテラン編集者だった沈昌文さんがその編集長になった。沈さんはその編集長の仕事を1995年まで務めた。
一方、三聯書局というのは、もとは共産党の重要なプロパガンダ機関だったが、さまざまな要因から1951年代に一度閉鎖された。出版社の看板だけは残されたが、実際の組織はなくなったのである。それが1986年1月1日に再び業務を開始し、大陸では最も遅くに復活した出版社となった。そして「読書雑誌」の編集長を務めていた沈昌文さんが、その総経理として迎えられたのである。
「この言葉は、あなたがたの方では良くない意味のようですが、こちらでは良い意味なんですよ。『統一戦線』です」とユーモラスな沈昌文さんは言う。当初、三聯書局は、統一戦線において功績をあげたいと考えた。このような政治的目的を持ち、また香港にも支社(その規模は本社よりずっと大きい)を持っていたため、三聯書局は海外の作家の窓口となった。こうして三聯書局は、主に香港や台湾、アメリカなどに暮らす華人作家の作品を扱うようになったのである。
当時三聯書局が大陸に紹介したのは、李黎、於梨華、聶華苓、陳映真、席慕蓉、余光中などの作家、そして文化学者や社会学者の作品などだ。例えば、台湾からアメリカに渡った杜維明、杭之(陳忠信)、傅偉勲、林毓生、高希均、それにかつてブラックリストに入れられたために台湾に戻れず、北京大学で十数年にわたって教鞭をとった陳鼓応など、いずれも沈昌文さんとは深い交友関係がある。高希均は、かつて3年に渡って「読書雑誌」を毎号1000部も購入し、北京大学の学生に無料で提供していた。「黄仁宇の作品のために、わざわざニューヨークまで行き、ハドソン川の河畔で一緒にコーヒーを飲んだこともありますよ。それは、頑張ったものです」と語る沈昌文さんはすでに71歳だが、まるで子供のような表情を見せる。
リタイア後も多忙な毎日
退職し、すでに職場を離れた沈さんだが、内外の出版業界に精通し、多くの作家とも親しいため、しばしば友人に請われて顔を出し、台湾海峡両岸の出版業界のために陰で大きな影響力を発揮している。彼が連絡の労を取り、力のある出版社に於梨華、余光中、席慕蓉の全集を出版させ、また若い作家も大陸に紹介している。
「もうすぐ新しいスターが登場します。まだ機密ですがね」と沈昌文さんは言う。別にもったいぶっているわけではない。その日の午後、友人に頼まれて、台湾の挿絵画家「幾米」のプロモーション方法を話し合うことになっていたのである。すでに大陸で大人気の蔡志忠や朱徳庸などの漫画家も、大陸に進出した当初は、沈さんが重要な役割を果たした。
1994年に台湾を訪れたことのある沈さんは、大陸の若い編集者にも、台北に行ってみるよう勧めている。「大陸には豊かな文化資源がありますが、台湾は出版業の面で大陸より5から10年先を行っています」と言う沈さんは、退職した後も、両岸の資源を結びつけることに役立ちたいと考えている。
沈昌文さんが大陸に紹介してきた作品は、文学、社会論、漫画と、広い分野におよんでいるが、その背後には彼の深い思いがある。台湾の作品を大陸に紹介することに、彼は一種の極端な考えを持っているという。それは「自由主義寄りで、なおかつ自由主義を鼓吹するものは、大陸にとって有益なはずだ」という考えだ。昨年末、沈昌文さんは企業に寄付を募り、胡適に関するシンポジウムを開いた。「かつて大陸では胡適は魯迅より劣ると見られていましたが、今では多くの学者が、胡適の自由と包容力こそ、今の大陸に必要なものだと考えるようになっています。私は、この見方に賛成です」と沈さんは言う。
沈さんの箴言
編集のプロとして、また美食家としても知られている沈昌文さんのPDAには北京の各種レストランのリストがつまっている。自ら、あちこちで「おせっかいを焼いている」と言う彼は、最後に台湾海峡両岸の文化交流の「仲人」として戒めの言葉を伝授してくれた。――毎日、作家たちと心を交わして「恋を語り合う」ために、まず第一歩として相手の胃を攻め落とす。その後、杯を交わしながら相手の最近の考えや新刊の情報について「窃盗」を試み、続いてこちらの「情報を売り」、出版計画をもって相手の財物を「巻き上げ」、最後は「寝ながら金の入るのを待つ」というものだ。
大陸で沈昌文さんと「恋を語り合って」みたいと思う作家は、まず北京のうまい店の情報を探して、彼の胃袋を攻め落とすことから始めてみてはいかがだろうか。
劉親子が北京の人民大学で行なった講演会は立錐の余地もないほど混雑し、窓の外にぶら下がって聞く人までいた。
劉親子が北京の人民大学で行なった講演会は立錐の余地もないほど混雑し、窓の外にぶら下がって聞く人までいた。
劉親子が北京の人民大学で行なった講演会は立錐の余地もないほど混雑し、窓の外にぶら下がって聞く人までいた。
上品で知的で仕事のできる曲小侠さんは、若い世代を代表する出版プロモーターだ。彼女は、劉や林清玄などの台湾の作家を大陸のベストセラー作家に押し上げた。