陽明山の文化大学を囲む山仔后地域には、別荘風の旧米軍宿舎が建ち並んでいる。かつての台湾とアメリカの軍事防衛の証人であり、50数年の歴史をもつ地域だが、最近になって所有権者の台湾銀行がすべて競売にかける計画であることが分った。それが現地の住民と文化団体の反発を買い、米軍宿舎の存亡が、世論の焦点となっている。
山仔后とは山の後ろという意味である。かつて、士林からこの地に行き来するには、徒歩で大崙尾を越さなければならなかったのでこの名がついたと言う。1960年に中国文化大学が設立され、仰徳大道が拡張されたため、地勢が比較的平坦なこの土地が、陽明山では人の集まる集落となり、休日には行き交う人や車で賑わう。しかし、この山仔后地域の開発が、もともと最大の面積を占める米軍宿舎と密接な関係があったことは、あまり知られていない。
地域内のいたるところに西洋風の装飾品が見られる。
歴史の足跡
1949年、国共内戦が激化し、敗戦続きで砲火に追われた国府が台湾に移ってきたが、政権は危機に瀕していた。それが1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、内戦不介入の態度を取ってきたアメリカも、共産党勢力のアジア拡張を防ぐため、大軍を台湾に進駐させ、経済援助を開始した。危急存亡の時にあった国府は、アメリカの援助を受けて台湾に生き残ることができた。
台湾に駐留する軍人とその家族の生活のために、米軍は国府と話し合って宿舎の建設を始めた。1951年、米軍顧問団の建設担当チームが建築家の沈祖海と政府官僚とともにヘリコプターに乗り、台北市地図を持って空中を回って米軍宿舎に適した場所を探した。最終的に、陽明山山仔后と天母が建設予定地に選ばれた。これを受けて政府は台湾銀行に土地接収と建設を命じたのである。
当時、一面の畑だった山仔后は奥まって静かな環境が米軍の目に留まり、217棟という台湾最大の規模で建設され、階級の高い軍人の宿舎となった。米軍が台湾を撤退して30年になるが、4.2万坪の土地に今も150棟が残され、台湾でも一番保存状態のよい旧米軍宿舎である。
米軍宿舎の所有権を持つ台湾銀行は、一部の宿舎を国民に賃貸してきた。住民が手入れをしながら暮らしてきた古い宿舎は、田園の静かな雰囲気をただよわせる。
洋風建築
米軍宿舎の建設方法としては、アメリカ側が設計図と区画プランを提供し、台湾がそれに沿って建設した。そこでは台湾側に設計変更の権限はなく、その建築スタイルは1950年代のアメリカ住宅そのものであった。アメリカ人は故郷をそのまま陽明山に移して来たことになり、そのため山仔后の米軍宿舎を、建築学者は租界式の植民地建築と呼んだ。
台湾の住宅が通常狭く立て込んでいるのに対し、米軍宿舎はアメリカのカントリースタイルそのままに、多くは平屋で、一戸当りの建坪は少なくとも80坪以上になる。これに広い芝生の庭がついて、家と家の間に10から15メートル距離をとり、採光もよくプライバシーも守れる。
宿舎の間には通常垣根や塀を設けず、芝生は隣家と共用で使って子供の遊び場となり、健康的でリクリエーションが可能な公共空間となる。
米軍宿舎の最大の特徴は全て煙突があり、屋内に防寒設備が設けられているところである。台湾は亜熱帯気候なので、普通は煙突や暖炉の必要はないが、アメリカ人にとって実用性はなくとも、故郷の暖かい記憶を呼び起こす必需品だったのである。
米軍の駐留期間中、安全とプライバシーを守り、地域住民との衝突を防ぐため、地域の出入り口は米軍の憲兵が監視し、軍関係者以外の出入りは禁止されていた。あたかも治外法権の世界、国の中の国であった。
外の世界と隔絶した米軍宿舎でも、台湾を震撼させた事件が起きたことがある。1957年、陽明山の革命実践研究院の職員だった劉自然が、当時の駐留軍のレイノルド軍曹に自宅の前で射殺されたのである。原因は米軍内だけで販売される外国煙草や洋酒などの規制品を、軍曹が劉自然に横流しして外で販売させ、暴利を得ていたことにある。2人はその分け前からトラブルになり、軍曹が劉自然を射殺したのであった。しかし、事後に軍曹は軍事法廷で劉自然など知らない、宿舎の中で妻の入浴を覗き見していたから自衛のために射殺したと証言した。
この事件の審理を担当した軍事法廷も内情を深く追及せず、証拠不十分で無罪放免にし、直ちに軍曹をアメリカに送還した。これがマスコミに報道され、台湾で大規模な反米デモが起った。これが劉自然事件である。
このように衝突と隔離はあったが、山仔后近辺の住民は、米軍家庭を対象とする家政婦やサービス提供で稼ぐようになった。アメリカの家庭生活を代表するスーツやコーラ、サンドイッチ、バスケットボールなどの文化が、次第に付近の地域に広まっていき、質朴で質素な伝統的農村の山仔后が、次第に洋風の商業的な町に変わっていった。1962年に中国文化大学が創設されると、現地の人口はさらに増加する。
1978年、アメリカは国府と国交を断絶し米軍も撤退した。それまで出入りが管理されて租界のようだった米軍宿舎も、家主の台湾銀行が台湾人に賃貸するようになった。政界の大老・林洋港氏や劇作家の頼声川氏なども、ここに住んでいたことがある。
1978年の国交断絶で米軍は台湾から撤退し、住む人のいなくなった一部の宿舎はそのまま放置されてきた。
ボイス・オブ・アメリカ
台湾駐留米軍は軍事と経済援助のほかに、アメリカの文化をももたらした。そんな中、米軍宿舎と台湾とのもっとも密接な関連は、近隣住民との行き来ではなく、実は現地で放送されていた駐留米軍ラジオだった。
英語で欧米のポップミュージックを流す米軍ラジオ局は、もともとは台湾駐留の米軍向けだったのだが、毎週最新のヒットランキングが流されるなど、手に入る情報が限られていた戒厳令の時代に、多くの台湾の若者にとっては欧米のポップスに触れられる唯一の場だったのである。
アメリカとの国交が断絶し、ラジオ局も一緒に撤退するはずだったのだが、台湾在住外国人の要求もあって、米軍ラジオ局は財団法人に組織変更された。こうして、台北国際コミュニティラジオ、つまり一般に知られるICRTとして台湾に残された。1980年代がICRTの全盛期で、FM100.7のチャンネルと中庸二路8-1号というかつての所在地は、多くの若者にとってアメリカンドリームそのものだった。
2000年になり、ICRTも陽明山を下りて松江路にオフィスを構えるようになり、かつてのラジオ局は取壊されて、豪華な別荘風の住宅に生まれ変わった。これまでは外国人が多く住んでいた山仔后も、今では少数の住宅にアメリカ在台協会の職員が住んでいるだけであるが、その警備は相変わらず厳しい。土地建物の所有権を持つ台湾銀行の計画では、この150戸余りの米軍宿舎を取り壊して、土地をデベロッパーに売却し、新しい高層住宅に開発するというものである。
古びて取り壊しの運命にさらされる歴史的建築物が、文化遺産保存の呼びかけによって生命を取り戻せるかどうか、まだ先は見えていない。
地元の暮らしを守る
陽明山では最も早くから賑わっていた地域の山仔后には、今では8000人余りの文化大学の学生や教員が住んでいる。台湾銀行の計画通りに、4.2万坪の土地が競売にかけられれば、今でも交通渋滞が起きる地域にさらに1万人を超える住民が入ってきて、生活の質がどうなるか、予測はつくだろう。そこで現地住民は、こう主張する。米軍宿舎は冷戦時代の台湾とアメリカの軍事協力という歴史を象徴するもので、建物には文化的特色があるため、台湾全体の歴史資産である。台湾銀行は自己の利益のためにデベロッパーに売却するべきではないし、集落として150戸すべてを保存し、4.2万坪全域を地域の歴史的景観として守っていかなければならない、というのである。
しかし、台北市文化局が今までに審議した結果は、二つの地域とその地域にある22棟のみの保存に同意するというものだ。その保存面積は3.75ヘクタール、わずかに約1.1万坪に過ぎない。これでは地域住民の全面的保存の主張とは、開きがありすぎる。
その将来はまだ見えてこないが、広大な面積を持つ山仔后の米軍宿舎群は、台北盆地の上の縁に位置して、台湾の半世紀を静かに見守ってきた。宿舎の中には、住人が手入れしているおかげで今もきれいな外観を維持し、外国風の面影を残しているものもある。しかし、中には多年にわたって放置され、雑然とした廃墟になっているものもある。しかも閑静な山の住宅地なのに、あちらこちらに台湾銀行の冷たい掲示板が立ち「関係者以外は勝手に出入できない」と警告を発している。
山仔后の将来を考えると、どうすれば地域の発展と古い建築物の保存を両立できるのであろうか。日本時代の旧宿舎はすでに古跡としての保存価値を認められているが、陽明山の米軍宿舎も同じような待遇を受けられるのであろうか。山の上の平屋群は黙して語らず、人間の最終的な歴史の裁定を待っている。
建設時期:1950年代
建設地域:凱旋路、国泰街、光華路、愛富一路、愛富二路、愛富三路、格致路、建業路、中庸一路、中庸二路
総面積:約4.2万坪
現存する建物:約150棟
交通:台北MRT「剣潭駅」から303または紅5の路線バスに乗り換え「山仔后派出所」または「文化大学」で下車。
1960年代に建てられた宿舎は広々としていて、当時は非常に珍しかった輸入乗用車が停まっているのが見える。
米軍宿舎はカントリースタイルの建築で、広い庭がとってある。昔はここで子供たちが遊んでいた。