
創設28年になる台南人劇団では、5人の新鋭監督が台湾の演劇に新たな世界を開いている。
連続6時間にわたって続く演劇。台湾語で演じられる「マクベス」。会場の5カ所に設けられた舞台で同時に演技が繰り広げられ、観客は自由に空間を移動して観賞する……
昨今、演劇界で大きな話題を呼んでいる台南人劇団は、台南聖心堂の神父・紀寒竹と、中文学科や外国語学科、それに鉄工職人などを背景とした台南の若者が創設した。
当時、紀寒竹は布教のために、自分の専門分野である映像芸術を活かして「華灯芸術センター」を設立し、写真や映像からインデペンデント映画の上映など、半年ごとにさまざまなグループを結成して文化活動を行なっていた。このグループに加わった20代の李維睦が後に台南人劇団の団長を務めることとなり、華灯芸術センターとともに成長してきた。
結局、メンバーの誰もカトリック教徒にはならなかったが、芸術活動の少なかった時代、華灯芸術センターは彼らの生活の潤いだった。
1987年、台湾では実験演劇がブームになったが、リソースが北部に集中する中、紀寒竹は「華灯劇団」を結成。本格的な演劇教育を受けたことのない李維睦ら十数人が、仕事の後に教会に集まり、『セールスマンの死』など名作の練習を始めた。だが、台湾語では西洋の演劇の雰囲気が出せなかった。当時、表演工作坊が相声(中国伝統の話芸)を取り入れた『這一夜我們説相声』が評判だったことから、彼らは台南人の結婚の風習をテーマに『台語相声:世俗人生』を打ち出し、台北の国家戯劇院実験劇場での公演に招かれた。

台南人劇団の『K24』は6時間にわたる芝居で、7回の公演ではすべて結末が異なり、ファンは幾度でも楽しめる。
こうして初めて本格的な舞台に上がって自分たちの力不足を感じ、本気で取り組み始めたと李維睦は言う。そこで、淡江大学中文学科出身、以前は蘭陵劇団で役者をしていた許瑞芳が、台北芸術大学演劇大学院で脚本創作を学ぶことになった。彼女は演劇理論や舞台技術などの専門知識を持ち帰り、また同大学の教師を招いて講座を開き、劇団員たちは専門知識を身につけていった。
彼らの活動が増えて聖心堂の他の活動に影響するようになり、紀寒竹は台南友愛路にある「聖波尼法教堂(教会)」への移転を命じた。こうして天井の高い教会が彼ら専用の稽古場となった。李維睦たちはここに80席の舞台空間を設け、さまざまな実験を行ない、北部の劇団も招いて交流し、知名度を高めていった。
1992年、華灯劇団は文化建設委員会コミュニティ劇場プランの補助金を受け、正式な編成を持つプロの劇団へと向かい始める。そして1997年に「台南人劇団」へと名称を変えた。
李維睦によると、この劇団名の誕生にはおもしろいエピソードがある。当初、劇団名を選ぶ投票をしたところ、教会名をもじった「聖包你発(絶対儲かる)」という名称がトップだったが、紀寒竹はそれでは不真面目すぎるとし、2位の「人劇団」に決まった。だが、まだ知名度が低かったので、電話を受ける時に「台南、人劇団です」と言っていたところ、そのまま「台南人劇団」で定着してしまったのだという。

台南人劇団はスタイルの異なるさまざまな演劇を打ち出し、新世代のエネルギーを見せつけている。写真は『Re/turn』。
この名称ができたことで、華灯劇団は教会の演劇クラブではなく、正式の劇団としての道を歩み始めることとなった。
『台語相声:世俗人生』で台湾語演劇のスタイルを確立した後も、台南の物語を題材に、人間関係や家族などを扱った『鳳凰花開』など多数の演劇を上演し、標準中国語が主流の演劇界に新たな形をもたらした。台湾語で演じることで大きな差別化ができ、台湾語に対するステレオタイプのイメージも変えたと李維睦は言う。
2000年には、西洋の古典的名作を得意とする呂柏伸と協力したことで、台南人劇団は大きく前進した。戯曲を専門とする汪其楣・教授が仲を取り持ち、呂柏伸と台南人劇団は、ギリシアの古典『アンティゴネ』を台湾語で演じたのである。
李維睦によると、思いがけないことに台湾語の音韻はギリシア演劇のそれに合致するところがあり、高い効果を上げることができた。同じ頃に台湾で同じ演目を上演した日本の劇団に比べても、台南人劇団の台湾語による解釈の方が優れている点が多く、演劇界で高く評価された。
全台湾での巡回公演の後、呂柏伸が劇団の芸術監督を引き受け、西洋古典の台湾語上演計画を開始、シェイクスピアの『マクベス』やサミュエル・ベケットの『勝負の終わり』などが同劇団の人気シリーズとなった。
呂柏伸の参加で、台南を本拠地とする台南人劇団の「北伐」が始まった。呂柏伸は、劇団は台南にだけとどまっていてはならないと考え、どの芝居も台南と台北で上演するようになった。こうして彼らは地方劇団から全国的な劇団へと変わり、国家戯劇院からは、日本統治時代の名作『閹鶏』の上演を依頼されたのである。
「国家戯劇院の舞台に上がったことで、台南人劇団はさらに一歩前進しました」と李維睦は言う。台湾の多数の劇団の中で、同劇団の規模で国家戯劇院で公演することは容易ではない。しかも、国家戯劇院から制作上演の依頼を受けたというのは高い評価の証である。
呂柏伸に続き、蔡柏璋、廖若涵、黄丞渝、鍾翰の4人の新鋭監督が加わったことで、30年近い歴史を持つ台南人劇団は常に新しい創作エネルギーをみなぎらせてきた。

台南人劇団の前身である華灯劇団の頃からのメンバーで今は団長の李維睦。芝居に関わって30年、多数の演劇人材を世に送り出してきた。
台湾大学演劇学科卒業で、脚本、監督、演出を行なう蔡柏璋は、李国修と頼声川に続く演劇界の鬼才として大きく期待されている。アメリカのドラマからインスパイアされて創作した6時間におよぶ『K24』や、愛情の悲喜こもごもを描く『Re/turn』などが若い演劇ファンに人気がある。李維睦によると「都会的でファッショナブルな愛」というスタイルである。
李維睦は、劇団の若い世代に手本を示した呂柏伸を「頂真」(真面目)と形容する。英米留学で身につけた理論を背景に、次々と西洋の古典を舞台に載せてきた。実験性の高い舞台を演出する廖若涵は、あらゆる現実と物質を打破しようと試み、そのため彼女の作る舞台には何も置かれない。黄丞渝は常に鬼(幽霊)と関わるテーマを扱い、呂柏伸に師事する鍾翰の作品は「流浪の人生」といった味わいを持つ。
5人の監督がそれぞれのスタイルで芝居を作るため、台南人劇団の性格は定義しにくい。「屏風と言えば李国修、表演工作坊と言えば頼声川というイメージが確立しているのと比べると、台南人劇団は大きなプラットフォームに似ています」と李維睦は言う。華灯劇団の頃から参加している李維睦は劇団の家長のような存在で、若い団員の育成に忙しい。
李維睦は子供の頃から美術が好きだったが、当時の社会ではそうした興味は重視されなかった。職業高校を出て鉄工職人となり、抑え込んでいたアートへの情熱と天賦の才能が、演劇の舞台に立ってようやく溢れ出てきたのである。
劇団創設以来、舞台の道具などは金属加工ができる彼が作り、傍らから助けてきた。そして常に新しい創作を劇団に受け入れてきたのである。

台南人劇団の監督の一人、黄丞渝が既存の空間を舞台として創作した『你所不知道的台南小吃』。複数の舞台で演劇が同時進行し、観客は自由に動いて観賞することができる。
2014年、台南人劇団では台北と台南を往復する交通費を節約するために、活動の中心を台北に移したが、李維睦は台南に残った。そして昨年、劇団は台南の321巷アートビレッジに移り、そこに舞台空間を作ることとなった。
321巷には日本統治時代の歩兵工場の宿舎が8棟残っており、台南人劇団はその一つに入居した。宿舎の所有権は国防部から台南市文化局に移転したが、予算がなく、そのまま放置されていた。昨年劇団事務所の賃貸契約が切れたのを機に、文化局に招かれてここへ入居したのである。
新しいオフィスは、庭のある日本時代の宿舎の構造をそのまま利用しており、あらゆる場所が舞台となる。舞台と観客席という固定された空間ではないため、これが既存の概念を打破する最良の環境劇場となった。
昨年、監督の一人である黄丞渝が創作した『你所不知道的台南小吃』は従来の舞台の概念を打ち破った。宿舎内の5カ所を舞台として5つの芝居を同時に上演し、観客は空間を自由に動き回って観賞する。そして最後は物語の流れに従って観客も中央に集まっていく。最初、この構想を聞いたときは不思議に感じた李維睦も、実際のパフォーマンスに感動し、さまざまな空間利用を考えるようになったという。
2014年7月、台南人劇団は「那個劇団」「影響・新劇団」とともに7日にわたって「321小芸フェスティバル」を開催し、観客数を99人に制限して20分の舞台作品を3つ発表した。路地の中の特別な空間で、観客は芝居を見てから宿舎集落の歴史と暮らしに触れることもできる。
今年5月、台南人劇団は再び「321小芸フェスティバル《走X戯・交換記憶》」を開催する。今回は4劇団が参加し、規模も拡大して「劇場夜市」というコンセプトを取り入れる。夜市を訪れて、食べ物ではなく演劇を買うのだと李維睦は説明する。
「空間の運営を通して、時間をかけて力を蓄積していきたいのです」と言う通り、台南人劇団は華灯芸術センターの時代から今日まで、台南にさまざまな演劇環境をもたらしてきた。
「華灯劇団は台南の蘭陵劇坊とも言えます。ここが多くの演劇人を育ててきたのです」と李維睦は言う。かつての華灯劇団の初代メンバーはそれぞれに自分の世界を開いてきた。児童劇団「洗把顔」や実験的な「那個劇団」、そして50歳以上に限定した全国初の高齢者劇団「魅登峰」などは、いずれも台南人劇団のメンバーが創設したものなのである。
台南の演劇観客は30年前は20~30人しかいなかったが、今は毎年1200人以上が演劇を観賞している。台北の1万2000人とは比較にならないものの、人口180万人で、文化的資源の乏しい台南において着実に演劇ファンが育っている。
「遊びから本気へ」と台北芸術大学の朱宗慶・元学長は台南人劇団を形容する。28年来、今もその本気が続いているのである。