
台北駅前の館前路、南陽街一帯は俗に予備校街と言われて、夕方になると各種国家試験を受けるサラリーマンや失業者、あるいは制服の高校生であふれ、歩道は前に進むだけの、ぶらくことのできない戦場となる。見上げると「公職を保証、公務員試験合格多数、法政の権威」といった看板が並ぶ。それは受験生を見守りながら、しかも空中に浮かぶ手の届かない欲望のようでもある。
ビル内の教室に入るには、我慢強くエレベーターから外まで続く10数メートルの行列に並ばなければならない。受験生の用語で「列に並ぶ」とは、一度受験を申し込んだら諦めるな、今回合格しなくとも少なくとも経験になり、いずれチャンスは巡ってくるという意味である。この競争は、能力に加え忍耐力を試すものなのである。
台湾の国家試験というと、公務員試験から各種資格試験まで、年間を通じて100種以上が行われ、2008年の受験者は58万人を超えたが、合格者は僅か5万1000人余りである。そこに身を置く受験生の気持ち、そして個人から集団まで、この制度の利害得失をどう考えていけばいいのだろうか。
38歳の林思嘉(仮名)は1年3ヶ月にわたって毎晩予備校に通い、100人以上の大教室で3時間の授業を受けてきた。まるで模擬試験会場である。商業専科高校電子科から大学に編入した彼女は、民間の社団法人で事務兼ウェブサイト管理をこなしていた。その後、契約職員として政府の情報部門で企画を担当するようになり、自分を公務員とは思っていなかったが、政府機関に5年も勤務していた。上司から見ると我慢強く使いやすい職員だが、本人は次第にお役所の凝り固まった気風に嫌気がさしてきた。
1年半前、情報スタッフを募集する民間企業に何回か履歴書を送ったが、最終面接で断られた。その理由を考えると「年齢も高く、給料の要求は新卒より高いし、公務員の経歴もプラスになりません」と言う。そこで考えたのが、公務員試験を受けて正式に役人になることである。「独身を通すつもりなので後半生の安定を考えました。契約職員は保障もないし、昇進もありません。いずれは決定権を握り、やりたいことをやりたいのです」と言う。
家族の賛成もあって仕事をやめたが、去年7月には5日にわたる公務員試験に失敗し、12月の北区地方公務員三等特別試験(6年以内は他地域への転勤不可)に方針転換した。今年3月初めの合格発表で採用基準を4点上回る成績で合格したが、今年も上級公務員試験を目指す予定だ。「安定した将来に向け、気を緩める時ではありません」と話す。
同じ頃、林さんとネットで読書会を開催していた受験仲間は次々と落第の憂き目に遭い、落胆していた。一人は成績が予想を遥かに下回り、今年雪辱を果せなければ自信が持てなくなると話し、一人は試験に何年も費やし、人生の元手も使い果したので、アルバイトしなければと言う。さらには文昌帝君に次回の幸運をお参りに行こうと言う人もいる。

入試の時期になると、親は子供の受験票を携え、「合格」と似た発音のチマキや「聡明勤勉」と似た発音のネギやセロリをお供えし、文昌帝君に参詣する。これが国家試験ともなると、何年もかけてようやく合格する人が多いため、神頼みの気持ちも強くなることだろう。
誰でも受験する時代
政府考選部の統計によると、2008年度の初級公務員試験の受験者は過去最多を記録し、応募者数38万5806人、受験者数26万2174人で受験率は67.95%、採用1万5127人で、平均合格率は5.77%であった。
受験者の激増で、マスコミは「国に頼って長期安定」「不景気で人気の職業選択」「また合格率最低を更新」などと話題に取り上げ、応募者の心を煽った。予備校の裏技コース、直前コースなどが人気となり、考選部でも去年12月に初めて公務員上級、中級試験の計126種別のトップ合格者を集め、その合格の秘訣を『状元経、及第情』(考選部のホームページを参照)にまとめ、受験生の参考に提供している。
参加した115名のトップ合格者の半数は、公務員試験を2回から6回まで受験しており、20回以上の人も5人いる。しかし最初の受験で合格した人も15人いて、最年少は台湾大学卒業の22歳、最年長は44歳、平均29歳である。
33歳、世新大学法律学研究所修了の江亮頡は8年間、29回の試験を受てきた。手当り次第の受験から、合格率は低いが専門知識で勝負できる上級3級「知的財産行政類科」に狙いを定め、ようやく成功したと話す。彼にとって試験は修練で、他人の冷たい反応に影響されないためにも、受験生には損切ポイントの設定を勧める。1〜2年で結果が出ないなら職を探し、働いて経験を積みながら勉強するもので、さもなければ賭けが大きすぎると言う。

「試験」は憧れの人生への扉であり、社会と集団が築いた垣根でもある。受験するしないに関わらず、国家試験が集団の価値を生み出し、人々の生活に影響を及ぼしていることは確かだ。
自発的な臣従
同じく考試院が統一して行うエンジニアや船員向けの「専門職業及び技術人員試験」(以下資格試験と略す)は、業務内容が公共の利益や一般の生命財産の安全に関るため、ライセンスがなければ業務を実施できず、受験生のキャリアに決定的な影響を及ぼす。
去年の資格試験の応募者数は19万4660人、受験者数は14万8996人であった。項目別の合格率は大きく異なり、医師国家試験が7割を超えるのに、弁護士試験では8%、ソーシャルワーカーは1〜10%の間を行き来している。試験対象となる職業は60種まで増加し、今後も増える予定である。
資格試験の性質は公務員試験と異なり、業務実施の資格で身分を示すものだが、職を保証するものではない。すべては市場のメカニズムと、その業種の環境によって決まる。
ただ、これまで考試院は合格者数を制限して水準を維持する方針で、論文問題で専門知識をテストし、受験生は法規を暗記し既出問題の練習に力を注いでいた。しかし現実を見ると、薬剤師や建築士など職業によってはライセンスが貸し出され、あるいはライセンスがあっても開業できない現象が見られる。前者は運転免許を借りて運転、後者は運転免許があっても運転しないのと同じで、どちらも試験と実務がかみ合わなくなっている現実を示す。
建築士の試験を見ると、建築学科の卒業生でも勤務10年後に僅かに10分の1が建築士の資格を有するに過ぎない。数年前には700人余りが受験したのに合格はわずか1人ということもあった。2002年、考試院はついに建築士試験を一発勝負から、専門科目6科目を3年以内に通過という方法に変えたが、それでも6年の平均合格率は7%を下回る。
淡江大学建築学科大学院を卒業した陳俊亨は、4年前に卒業した時に建築家としての誇りから試験勉強をしなかった。その結果、驚くべき低い点数を取ってしまい、ようやく試験は制度に臣従しなければならないゲームのルールだと気づいた。そこで会社を辞め、予備校に1年通いつめ、既出問題を練習した結果、最初に4科目合格、3年目にようやくライセンスを取ることができた。「試験の最高の境地とは、勉強する過程を楽しみ、予備校で詰め込む理論と実務とをリンクさせるコツを覚えることです」と彼は言う。

私たちは一生の間にどれだけの試験を受けるのだろう。試験は退屈で暗記重視だと嘆く前に、この社会が評価基準として「筆記試験」を過度に信仰していないか考えてみる必要がある。
改革の呼び声
これに比べると、国際的なコンペに勝ち抜き、アメリカの建築士資格をもつ建築家林洲民はそんな運に恵まれず、台湾の資格を持っていない。しかし、彼は確かに試験に物申す資格がある。「台湾の試験は暗記重視で知性の無駄使い、創造性や実務的統合能力とは関係のない科挙試験です」として、自分を含めた多くの建築事務所は、年末になるとスタッフが数ヶ月の試験休暇を取ってしまい、混乱すると言う。これでは創造性ある産業が国際的に競争力をつけられないのである。
2006年、林洲民など、台湾大地震の学校再建工事に参加した建築家が集まり、熱い血を滾らせ「建築文化提唱、業務環境改善、建築教育向上」を目指し、建築改革社を設立した。
建築改革社の学術組代表、交通大学建築研究所の張基義所長は感慨を込めて、自分と同年代の50歳前後の建築家は、台湾の建築士試験が難しすぎるため、留学して外国で働くことを選んだが、帰国してみると、相変わらずの試験制度で、若い青年の芽を摘んでいると嘆く。
建築改革社は、まず試験改革を主要目標とし、座談会やアンケート調査の結果、3項目の提言を行った。その1は試験の目的は受験生を圧倒するのではなく、専門能力を試すものとする。その2は問題のデータベースを確立し、選択問題の比率を高める。その3は合格率を合理的に向上させる(日本は10-20%、アメリカは50%以上)というものだ。
たまたまと言うか、考試院が提言を評価していた時、2007年の試験が始まった。初日の構造科目の論文問題のテーマが極めて偏っており、しかも計算問題が複雑に過ぎ、受験生の抗議を招いた。翌日、会場で風刺漫画が配られ、ネット上で署名運動が始まり、10%以上の新卒受験生が呼応した。その年度に対応策はとられなかったが(この年の構造科目の合格率は1%未満)、翌年の試験から選択問題の比率が高まり、試験問題も改善された。

若者は就職難、中高年はリストラの時代、合格すれば職が保障される公務員試験の受験者が急増している。だが「公僕」の意義と価値についてよく考える必要があるだろう。写真は、大学卒業前に開かれる就職博覧会の様子。
ライセンス化は専門化か
資格試験にはそれぞれ問題がつきまとう。それでもエリート三士と呼ばれる弁護士、建築士、会計士に合格すれば、その後の成功は約束されたようなものである。これに対し、草の根の性格が濃厚なソーシャルワーカーやカウンセラーは、90年代末にようやくソーシャルワーカー法とカウンセラー法が成立したが、これが逆に専門性と社会的位置づけに不安と困惑を招くことになる。
ソーシャルワークとカウンセリング実務の両方に詳しい東呉大学社会福祉学科の王行准教授は、二法を推進する役割を果したが、その後、ライセンス制度反対に立場を変えた。
「国家試験の資格によって能力や位置づけを区分するのは、主体性を求める専門職には暴力の象徴と映る」と王准教授は心理学専門誌「心理心」にその不満を書く。ライセンス化は専門化なのかと疑問をぶつけ、カウンセラー法観察・行動チームを結成し、ウェブサイトを設置し、フォーラムを開設し、影響力を強めている。さらに地方自治体の社会局や大学の心理指導センターに出向いて、人員採用時にカウンセラー法の規制を受けないよう説得している。
「私たちの活動は予備校のコースほど魅力はないし、議論も実際的ではないのですが、一連の行動により私自身の専門キャリアやソーシャルワーク教育の理念も変化してきました」と王准教授は語る。

「試験」は憧れの人生への扉であり、社会と集団が築いた垣根でもある。受験するしないに関わらず、国家試験が集団の価値を生み出し、人々の生活に影響を及ぼしていることは確かだ。
アイデンティティの確立
もう一人、カウンセラーとして経験豊富な王理書は、2年をかけて自分史を書き上げ、自分にとっての試験の意味を明らかにしてきた。
物語療法とグループカウンセリングで10年の実務経験を持つ王理書は、彰化県員林鎮の歯科医であった父に遡る。1975年当時、医師法が実施されたため、威風堂々とした先耶(台湾語の医師の意味)は、医師法違反を恐れる偽医者となった。そこから自分の専門信仰と成長をたどっていく。
自分史を書いていた期間中、最初のカウンセラー試験の日時を無意識的に忘れ、二回目の試験では受験資格証明を失くし、急いで提出したが勉強する気になれず、そして自分を見つめて勉強し直し、ついに合格の自信を見出した。
そんな自信から、もう一度カウンセラー法を読み直し、資格をとってから心理療法機関の中で規律ある定型化したカウンセリングを行うといった生活スタイルを想像してみた。「突然、よそよそしい感じがし、それは自分の将来ではないと思った」と王理書は語る。
自己認識の過程を通じ、王理書は資格を取らずに生きる道を選んだ。そこには父の無念の消化と、自分の将来の人生への願いもこめられている。「私は精神的な自由の中で、より多くの力を講演や物語形式、著作に注げるようになり、もう一つのカウンセリング方法を開発していけるのです」と語る。
資格を取るか取らないかの選択は、他者と優劣を競う現実との力比べでもあり、自分の一生を決定する心の綱引きでもある。受験生は、全力をあげて狭き門を目指すもよし、頭を上げて窓の外の別世界を望むもよし、悔いのない人生の道を選択してほしいと思う。

清朝の殿試(皇帝自らが出題する最終試験)の結果発表である大金榜。「進士は五十歳でも若い」と言われたことからも、金榜に名を連ねることがいかに難しかったかがわかる。

合格発表は悲喜こもごもだが、受験生は「人事を尽くす」という気持ちを保ち、試験の結果が自分の価値を決定するものではないと考えれば、より貴重な人生の贈り物が得られるかも知れない。

受験勉強にはさまざまな方法がある。ネットで仲間と情報交換する人もいれば、会社や学校を休んで予備校に通う人もおり、気分転換に場所を変えて勉強する人もいる。いずれにしても、生活のすべてが試験に縛られてしまう。