黄金時代
教義上は「修行と生産を両立させる」としていて、信者はみなそれぞれ仕事を持っているが、だからといって修行がおろそかになるわけではない。審査に合格して入居した後は、新たな段階の修行が始まるのである。
ここでは、自分の親子の時間を除くと、あらゆるレジャーは修行仲間と一緒である。散歩やハイキング、食事会などの時にも、仏法を忘れることはない。さらに、すべてのメンバーは小さいグループに属することになっており、毎週そのメンバーの家で正式な集団修行を行ない、教義について議論し、真心を探求する。2003年に李元松が47歳で病気のために逝去した後は、念仏堂では朝昼晩の3回念仏会を行なうようになり、常に霊性を鍛錬している。
俗世が道場であり、衣食も大道だと考えるため、李元松は生前、弟子たちの日常の生活態度に強い関心を寄せ、指導もすれば罰しもした。しかも、修行レベルの高い弟子ほど厳しくした。かつて教団の事務局長を務めたことのある華敏慧さんは「相手の顔色を見て話し方を変えた」というので李元松から「我執」が強すぎると批判され、跪いて藤で叩かれたことがあると言う。「私にとっては、叩かれて公に過ちを認めたことで、すぐに業障が消え、心が浄化されました」と華さんは言う。
特別なのは、象山コミュニティの「仏化家庭」ではしつけの方法も他とは違う点だ。李元松は子供たちに自分の意見と個性を発揮するよう奨励しており、しかも子供たちも幼い頃から教義に触れて育ってるため、親子喧嘩になった時には互いに教義を持ち出して相手を押えつけようとし、時には李元松に告げ口をすることさえあった。このような状況では、伝統的な家長の権威を中心としたしつけは維持できない。「師匠にも2人の娘さんがあり、非常に可愛がっていたので、私たちが子供に小遣いをいくらあげているかを調査して、少なすぎるから増やせと言われたこともあります。子供たちは大喜びでした」と言って華敏慧さんは笑う。
転換
このように、この修行コミュニティの中心人物は李元松である。大人たちはしばしば上師(師匠)という言葉を口にする。また李元松の逝去後も、子供たちは学校へ行く前に李元松の遺影に線香をあげて祭り、悩み事や困ったことを遺影の前で打ち明ける。信者の記念文集を読むと、多くの人が、李元松が自分の人生を大きく変えたと書いている。
李元松は小学校までで学業を終え、一貫道の講師をしていたが、印順長老の『妙雲集』を読んでから仏法の道へ向い、独学で一家を成した。李元松に触れたことのある人なら、誰もがその人格的魅力が深く印象に残ったと話す。李元松に一度だけ会ったことがあるという仏教史学者の江燦騰氏は、李元松は鋭敏かつ雄弁で、容貌も整って洒脱だったという。「初めて会った時から、昔なじみのように長話ができ、別れた後はまた会いたいと思わせるような、そんな魅力のある人でした」と語る。
このような人格と思想の魅力があればこそ、象山コミュニティが誕生したのだが、李元松の存在が重要すぎたため、その死はコミュニティの運営にも影響を及ぼしている。修行面では全員が信服する指導者を失ったことで、内部に意見の不一致が生じている。
李元松は早くから理性と自力による禅を提唱し、常人の経験できない玄理は論じず、日常生活における修行に力を注いできた。求めてきたのは疑問に証を求め、自立して悟りに達するという難しい道である。しかし、後に禅宗から浄土宗へと転向した。過去の「自力」の修行態度は仏を信じないに等しかったと考え、人間の小ささと理性の頼りなさを強調するようになり、最終的には信仰と他力を重んじる浄土宗に帰依した。念仏を唱えることで弥陀願力が得られ、西方浄土へ往生できるとしたのである。李元松は逝去する2ヶ月前に「仏教界への公開懺悔啓示」を発表し、過去の「一部の知見は純正ではなかった」とし、それまでの「現代禅菩薩僧団」を「弥陀共修会」(今の浄土宗弥陀念仏会)に改め、浄土宗の慧浄法師に後の指導を依頼した。さらに、自分の過去の著作は焼き捨てて良いと再三述べていた。
「禅」から「浄土」への転向は、生前は弟子たちの大きな疑問を呼ばなかったが、死後に少しずつ問題化してきた。一部の弟子は慧浄法師の下で一心に念仏を唱えているが、一部の弟子は李元松の生前の著作を整理し、その智恵を発揚しようと考えている。また、他の宗派を学ぶ者もいれば、新旧いずれとも距離を置く者もいる。メンバー同士は今も良好な関係を保っているが、修行生活は各団体それぞれが運営することとなった。コミュニティの組織は今も続いているが、日常生活における全面的な指導者を失ったことで、メンバー同士の関係も以前ほど活発ではなくなっている。
現在の状況から見ると、このコミュニティの将来は未知数である。しかし確実に言えるのは、修行者たちのすべての行いが、理想郷に憧れる現代人にとって貴重な糧であるという点であろう。