人生を計算して幸せを選ぶ
36歳、白衣を脱いで専業作家になると決めた。医者としても作家としても成功を収めた。その道のりで不思議な光景を見てきた。36歳になるまで書くことは好きだったが、最大の努力は物質に注がれた。物質世界のルールとは競争である。競争で多くを得るほど幸せなのだが、どこか真実でなく、天井にぶつかる。「2倍、3倍の努力も効果があるとは限りません」侯文詠は立ち止まって考えた。
500人を超える末期がん患者を見送って目にしたのは、人生の最後に最も気にかけ、手放せないのが人との関係であった。親、配偶者、子供、親戚、友人、それらが人生の一番内側、核心にあるのに、物質世界に落ちた人はそこに努力をしない。精神世界が夢幻なら、笑い話に聞き手が笑うと自分も嬉しいのはなぜか。嬉しさはこれほど真実で、豊かな気持ちになれ、拡大し、伝染し、拡散する。
物質はあの世へ持っていけないという言葉は、村上春樹チックである。「前向きな信仰者でなくて、計算者なんです。地に足をつけて人生を計算しました。どう生きれば割に合うのか。大金を稼いで、高いモノを買って、子供にいい教育を受けさせて、それで楽しく嬉しいのかと。どっちが現実に即しているのか。全力を尽くして競争に全て参加してほとんどトップだったのに、あるべき楽しさ、幸せが得られないのはなぜだろう」繰返し自分に問うた。
侯文詠は楽しく生きることを選んだ。毎朝目が覚めると楽しい。もっとも当時はそれほど明確には思えず、長い道のりの後にふり返って考え、侯文詠スタイルの生存哲学がようやくはっきり見えてきた。
しかし、挫けそうになるのは世界のルールがなかなか変えられないことだ。少し前に医学部3年生の学生に尋ねられた。「歯科医が他の医者より儲かるのはなぜですか?」「じゃあ歯科医に転向したら」と素直に提案した。学生は「成績がいいのに、なんで歯科医になんか」と聞き返してきた。侯文詠は頭を小突いてやりたかった。試験の点数が高い医科は歯科医より稼げないといけないというのは建前であって、多くの人は建前の中で思考している。
著作を専門にするのは一大冒険に違いない。侯文詠は道がどこへ続くのか分からなかった。彼は本を一年に一冊出す計画を立て「ヒット作品」の固定スタイルを打ち破り、長編小説を書いた。
侯文詠は夫婦そろって医者である。初期には結婚生活からも著作のインスピレーションを得ていた。写真は1989年の澎湖旅行。