2014年秋、収穫の季節に、池上の天堂路で池上稲穂芸術祭が行われた。
11月1日にアーメイ(張恵妹)は故郷で「a-MEI土地の歌」コンサートを行った。中央山脈を背景に、ステージは野外に設置された。アーメイはプユマ族の民俗衣装をまとい、母の手作りの花冠を被って登場した。秋ながら日差しは強く、熱中症になりそうな35度の高温の中で、15曲を歌い切った。そして2000人の観客に向けて「この大地にありがとう、こんな美しい空にもありがとう、そして陽に晒されながら、コンサートに来てくれてありがとう」と叫んだ。
台東の空と大地がアーメイに新しい力を注ぎ込み、その歌を愛する原動力となったかのようである。また台湾好基金会の執行長から顧問に転任した徐璐は、芝生に座ってアーメイの迫力ある歌声を聴いていた。何という巡り合せと彼女は思う。アーメイが台東を離れ台北に向かったのに、徐璐の方向は逆であった。家路はすぐそこ、自分一人の家が台東にある。
台東は台北からそれほど遠くない。列車の普悠瑪(プユマ)号に揺られて3時間半で到着する。しかし徐璐が台東に移住し、台北の90歳になる母に付き添うのは週に2日だけと宣言した時には、台北の友人たちのひっきりなしの送別会リレーが始まってしまった。週に4回も送別会に呼ばれると、さすがの徐璐も台東は遠いのだと実感した。台北の人の多くは、一生のうちに何回も台東を訪れることはない。霧鹿峡谷、海岸山脈、卑南遺跡と聞くと、外国より遠い国のようである。
この大地に戻るまでの道、心動かされてから行動まで、そして夢の実現まで、徐璐は5年間模索し、確かめてきた。あるいは、淡江大学を卒業して月刊誌「大地生活」を創刊してから、この大地の再認識への道を探し続けていたのかもしれない。その間、いくつかの転機から台湾初の中国大陸取材を敢行し、先に進むほど大地から離れ、マスメディアの上級職にまで上り詰めた。
人生には、断絶と見えて実は繋がっていたということがある。1981年に淡江大学英文科を卒業した徐璐は、友人と「大地生活」を創刊するが、この最初の仕事は予定外で、元々は留学して比較文学や文化を研究するはずだった。しかし、自由闊達で進歩的な性格のためか、在学中に台湾の初代フェミニストとして知られ、最近『台湾女性運動回顧録』を出版した李元貞教授や「社会進歩前鋒」の王津平と出会ってしまった。さらに1970年代のフォークシンガー李双沢の「力一杯鐘を鳴らせ、声を出せ」の歌声に惹かれ、徐璐は外省人ながら文化と社会運動をテーマに、当時の党外運動に身を投じた。
そこで台湾に留まる事を選択し、雑誌を創刊した。断続的に2年間で10号まで出したものの、その状況は借金まみれと言うしかなかった。24歳と青春真っ只中であるべきところを、人生はお先真っ暗で、党外雑誌「八十年代」の司馬文武編集長の経済的支援を仰ぎ、編集スタッフとなった。この「八十年代」在職中に、生まれて初めて選挙運動に関り、周り中が台湾語を話す中にあって、一人標準中国語で「私たちの親は、40年も離れ離れの家族に会うために中国の故郷に帰ることもできないのは、なぜでしょうか」と問い続けた。
1986年に民進党は正式に党を結成し、翌年には当局は戒厳令を解除した。自由なメディア第一号として雑誌「新新聞」が創刊され、徐璐は総経理に招聘された。そこで彼女は経営企画書の書き方と、貸借対照表の見方を学ぶことになった。
しかし「新新聞」第3号を発行したばかりで、徐璐は辞職してしまった。煩雑な経営の事務作業に追われ、何の達成感も感じられなかったからである。第一線に立って文化と社会的テーマの報道を追い続けたいと切望し、紹介されて夕刊紙「自立晩報」の面接を受けた。そこで呉豊山社長から「新新聞」を辞めた理由を聞かれて、自分自身を探したいと思ったからと答えた。
徐璐の自分探しの長い旅がこうして始まった。政府が台湾から中国大陸への親戚訪問を解禁する前夜に、彼女は李永得と共に、まだ渡航が禁止されている大陸での現地取材を敢行し、一夕にして台湾のマスコミから取材を受ける立場となった。その後は新聞社の支援を受けて、客員研究者の身分でコロンビア大学に9か月在籍した。国際的なジャーナリストを目指したのである。
1993年にラジオ局の経営が自由化されると、徐璐のチャレンジ精神の血が疼いて、友人数人とラジオ局「台北の音」のライセンスを申請した。開局3か月で収支均衡を果たし、初年度に5000万台湾元の出資額を回収できた。
台湾は2000年に初の政権交代を経験した。「民進党の友人」である徐璐は、テレビ局、中華電視の副総経理に就任し、2年後には総経理に昇進した。だが、それはメディア改革の理想のためなのか、総経理の地位のためなのか、それとも「台北の音」を離れた後の空虚を別の忙しさで満たすためだったのか、失った自信を取り戻すためなのか。徐璐は誠実に自分に問いかけ、答えは恐らく後者だったのだろうと思う。
改革は必須だったが、彼女は取締役会の構成を動かせず、社員たちの意識改革もできなかった。さらには、高い視野に立って社会の発展のためのメディアを経営できなかったと自分を責める。商業メディアの経営者として、利益を中心に考え、広告という巨獣に頭を下げざるを得ないことも知っているが、それでは自分が堅持してきた理想やロマンとは真っ向から衝突してしまう。
4年後に徐璐は中華電視の総経理の職を辞した。テレビ局から立ち去る時には、二度とマスメディアには戻ってこないし、政治からも離れることは分かっていたという。それとともに非効率的な会議や、毎晩続く接待、うんざりする組織改造や財務諸表ともお別れで、ハイヒールやブランド物とも縁が切れると思った。
徐璐は自分を探し、自信を取り戻そうとしたのに、ブランド物と経営者の地位を得て、実際はますます遠ざかっただけだった。
中華電視を去ったその日、親友の羅曼菲(著名舞踊家、雲門舞集の芸術監督で宜蘭出身)が車で迎えに来てくれて、二人はコーヒーショップにしばらく座っていた。
「台北を離れて、宜蘭に土地を買おうかしら」と、何となく羅曼菲に告げた。
「そう、いいんじゃない」と羅曼菲は頷いた。
その2年後、羅曼菲は肺がんが脳に転移し、静かに世を去った。
人生は短い。徐璐はそれよりずっと前に、病床にあったジャーナリストの先輩・張継高が、彼女に言った言葉、「君はそんな強い女ではないよ。自分がやりたいことをやり、自分のために生きなければ」を思い起こした。
張継高と羅曼菲の二人は、身をもって徐璐に示してくれたのである。死を恐れるのは、やり残した心残りがあるからで、人生に重要なのは、やりたいことをやり、心残りなく生きることである。

「台湾好基金会」の運営を引き受けた徐璐は、台東を足掛かりに台湾の素晴らしい文化を広めようとしている。写真は徐璐(中央)と台東鉄花村で働く仲間たち。
実は、徐璐自身も死に直面したことがある。34歳のある冬の深夜、彼女のマンションに強盗が押し入り、両手両足を縛り上げられ、金銭を奪われた上に、暴行され刺された。夜が明けて目にしたのは床一面の血だったが、ただすべてが空白で、痛みさえ感じなかった。
その後の6年の間、徐璐はただ忙しさに紛らせその記憶を押し殺してきたが、暗夜と共に恐怖が襲ってくるのであった。しかし、出版社から執筆を依頼され、ついに最大の勇気と誠実さを奮い起こして、この残酷な経験を書こうと決めた。また自分の成長に加えて、これまで愛してきた恋人たちと、経験してきた家族の死も見つめようと考えた。それは自分の傷口を抉るような経験で、友人の南方朔は危惧して、本当に全部書こうというのかと問うてきた。そんな本が出版されると、強力なスキャンダルのネタにされ、スキャンダルが物事の意義を覆い隠し、断片的な噂話に噛み砕かれてしまうからである。
それでも徐璐は怯まなかった。新しい羽根を手に入れて、飛びたかったのである。1998年に出版され、当時の社会を震撼させた『暗夜倖存者(暗夜の生還者)』がその本だが、その時には二冊目の本『私の台東の夢』の出版が15年もかけた2014年になるとは思わなかった。彼女は長い間飛翔を続け、ようやく空中に稲の香漂う土地に舞い降りたのである。

「台湾好基金会」は地元の人材とリソースを活かし、無限の機会を生み出す。写真は拉黒子(ラヒク・タリフ)先生が公東工業高校の生徒を率いて流木の家具を設計する様子。朽ちた木をよみがえらせた作品は鉄花村クリエイティブエリアで展示販売される。
中華電視を離れて次の職に就く前に、徐璐は旅に出た。旅に出ていないときは、がんを患う羅曼菲と共に過ごした。人生において初めて、学業や仕事ではない旅に出て、その旅のためにヨーロッパの歴史を学び、また旅行先の文学作品を読み漁った。ポルトガルの『不穏の書』、スペインの『The History of the Siege of Lisbon』、トルコでは『私の名は赤』などである。こうして文学が彼女の人生に戻ってきて、ある種の化学変化を起こし、長い間抑えつけていた文化への理想やこの土地への思いが息を吹き返した。そこで賀陳旦(中華電信の元董事長)が中華電信のMOD(マルチメディア・オンデマンド)開設への協力を求めてきたとき、彼女は大胆にも「中華電信は民営化したのだし、文化的理念をお持ちなのだから、基金会を設立して文化面で協力するというのはいかがでしょう」と提案した。
こうして徐璐は中華電信基金会の執行長としてゼロから立ち上げに参加し、地方文化の育成に努めた。3年が過ぎたころ、ベンチャーキャピタルの父と称される柯文昌が彼女を訪ねてきて、台湾好基金会を設立したいと言ってきた。その趣旨を聞きながら、徐璐は思わず笑みを浮かべた。人生は不思議なもので、ブーメランのように弧を描いて原点に戻ってくる。30年前の『大地生活』で地域や原住民集落に入り、文化・社会的テーマを追っていたが、30年後の今の台湾好基金会の核心は、地方の町村文化を確立し、住民も訪問者も共に地方の生活を共有して、台湾の良さを実感してもらうというところなのだという。
台湾好基金会が徐璐を台東に導いた。
5年前のある日、徐璐は同僚と共に台湾の美を追い求め、台東県池上を訪れた。電信柱もない水田が、静かに地溝帯まで続いていく。人々は、その美しさに息を呑んだ。
自然は美しいが、台北から来た人に池上の住民は、文化や芸術はここまで及ばない、子供たちを米しかない農村に留めたくないと訴える。
徐璐は耳を傾ける。取材を受ける時でも、彼女は自分を語るより相手の考え方に関心を抱く。訴えを聞きながら、現有のリソースを数え上げ、現地の人の力を借りつつ、共同運営を考えるというのが、台湾好基金会の運営モデルとなっていった。この5年間、そして将来的にも、基金会は四季に合わせて春にはピクニック、夏には米のイベント、秋の収穫期には稲穂芸術祭で祝い、冬には冬蔵講座が行われる。
池上では文化による「まちづくり」が図られ、席慕蓉、雷光夏、林懐民、蒋勲などの文化人が訪れて池上を愛し、創作のエネルギーを得る。舞踊家・林懐民は2013年に、池上で創作した「稲禾」を池上で初演した。また基金会の協力で、台東市の台湾鉄道旧宿舎に現地のミュージシャンやアーティストが集う空間、鉄花村がオープンした。
池上だけではない。嘉蘭村でも活動は続いた。台湾原住民民謡の父と言われる胡徳夫(キンボ)と、国際的な振付師・布拉瑞揚(ブラ・レイヤン)の故郷である台東県嘉蘭村は、2009年の台風8号で甚大な被害を蒙った。その再建のために、基金会では音楽会とチャリティ・オークションを行い、集まった900万元全額を集落に寄付した。これは第一段階で、その後はボランティアが集落に駐在し、ビーズのアクセサリーを制作する芭伊工房と木工の工房を開設し、最後は村落の老若男女を総動員して広場を建設した。台北市中山北路の裏道に開店した「台湾好・店」は、販売チャネルを持たない地域の産業や文化的作品、地方色豊かな工芸品を販売する場となっている。
大きな打ち上げ花火もあげず、目立つ業績を誇りもしないが、長期的に我慢強く地域に根差した活動を続けるこの仕事を、徐璐は気に入っているという。しかし、徐璐と台湾好基金会が台東を変えたというより、台東が徐璐を変えてくれたと言え、さらには変えたと言うより、本当の徐璐を取り戻してくれたとも言えよう。
基金会の仕事のために、徐璐は台東に小さな部屋を借り、台東と台北を行き来している。そんな中で、彼女は生活がシンプルになっていくのに気付いた。ジーンズとホワイトシャツがあればいいし、ドラッグストアの安い化粧品と、ベッドと机があれば十分である。かつて「宜蘭に土地を買う」と言ったその夢は冷え切ってしまったが、今度は形を変えて戻ってきた。今では農地と素敵な民家を夢見ることはない。雪山トンネル開通後の宜蘭は、農地のリゾート転用の天国となり、田畑のあちこちにはヨーロッパ風の家屋が立ち並び、宜蘭から花蓮、台東と、そのブームは移りつつある。これに対して、今回の台東定住計画には、キッチンの付いたワンルームに車が一台あれば十分なのである。その台東の夢は突然舞い降りてきたものではなく、この長い5年の間に少しずつ育ってきたもので、今になってようやく台東に定住できるとはっきり分かったと彼女はいう。
そこで『私の台東の夢』の執筆に取り掛かることにした。
彼女が一番恐れたのは、マスコミが台東定住を一種の断捨離の物語として扱うことであった。確かに何かを棄てたには違いないが、完全に悟ったわけではない。確かに生活はシンプルにはなったが、何の変化も曲折もないほどシンプルなわけではない。56歳となった彼女は、台東と自分のために何かしたいと思っているが、それは結果ではなく一つの過程である。人生は映画の様に、結末があるわけではない。
誰でも自分探しの過程を経験するだろう。台東の夢を通じて、徐璐は一つの理論を得た。女は昼間はいかに綺麗で華やかでも、夜の帳が訪れ、化粧を落としバスルームから出て一人になると、自分が誰であるか、そして幸福なのかどうかが一番よく分かるというのである。
アーメイを送ってから、徐璐はアパートに戻った。太陽はゆっくりと西に沈み、彼女は何とも言えない満足感を感じる。これまでの人生のどの時期においても、これほど自分を好きになり、自分に親しくなれたことはなかったように思う。

コミュニティや原住民集落に深く入り、失われつつある伝統工芸を救う。基金会は台北にある「台湾好・店」で、苗栗県に伝わるイグサ編みを教える活動を行い、都会の消費者が伝統工芸に触れる機会を作った。

中央山脈の麓の広大な田園で、歌手の張恵妹(アーメイ)によるコンサート「a-MEI大地の歌」が開かれ、台東県池上に歌声を響かせた。

徐璐は長年マスメディアでキャリアを積んできた。強くて優しい彼女は、今の暮らしと今の自分が好きだと語る。