陳芯宜監督のドキュメンタリー映画「行者」は10年をかけて無垢舞踏劇場の芸術監督林麗珍のダンス生涯を記録したものである。「十年一剣を磨く」と言うが、このドキュメンタリーは、時間をかけて創作を練り上げていく林麗珍の一事に打ち込む精神を見事に表現した。
舞踊団創設20年で、「醮」「花神祭」と「観」の僅か3作品しか発表していないが、ダンスに新しい境地を開き、生と死、生者と死者、天地人のテーマを貫き、内外で大きな反響を呼んだ。
無垢舞踏劇場は2015年5月に静岡県舞台芸術センターで公演を行ったが、数多くのステージを見てきた国際招聘担当の横山義志は、無垢舞踏劇場の公演で初めて涙をこぼしたと語る。ロシアでは、静かで緩やかだが浸透力のある舞台が剛毅で冷徹な観客を融かした。メキシコ公演では、記録を担当したメキシコの情熱的な写真家が、その緩やかなリズムに耐えられまいと思われたが、静謐な舞台の雰囲気に呑まれて自身のリズムも和らぎ、静かな無垢の世界に入って行った。
ダンスで我を忘れる
「踊りだすと周囲が静かになるのを感じます」と、麻のシャツに丸いメガネの林麗珍は周囲を落ち着かせる気配を漂わせている。今年66歳になる林麗珍だが、若い時の自分を個性的で反抗的だったと語る。
記憶をたどると、ダンスと絵が一番好きだったという。他人から見れば天賦の才だが、自分ではそう思っていない。「大抵の子供は元々ダンスも絵も好きです。私は運よく、禁じられたり嫌な思い出を残すことなく、ダンスが好きでいられただけです」と語る。
16歳の歳で、アメリカのモダンダンスの大家ポール・テイラーのステージを見て、興奮冷めやらなかった。「ダンスが好きと言うより、ステージが好きになりました」と話す。ポール・テイラーの動きはシンプルだが、ステージの雰囲気は彼女を別の世界に連れて行った。反抗的な青春時代の彼女に、これは大きな慰めだった。
その後、中国文化学院舞踏科(現在の文化大学舞踏学科)に進学し、卒業後は長安女子高校のダンス教師となり、ダンスへの情熱を迸らせた。この時期に振り付けた大規模なダンス作品「碧血黄花」や「乗風破波」と、ソロ作品「私は誰」などは、明確な様式美で当時高く評価された。
1982年に28歳となった林麗珍は、出産のためにダンス活動を中止し、家庭に入った。10年後に活動を再開した時には、民俗の祭祀を大きく取り入れた作品「天祭」を発表し、その後の無垢舞踏劇場のゆったりした余白の美学の基となった。
作品のスタイルは、神の啓示のごとく突然現れるのではなく、時が生を見直す余裕を与えるものと言う。「その歳になったのです。30代は生の転機で、過去を見直し、疑問に応える時でした」というが、当時去来した疑問は、台湾の舞踏とはどのようなものかと言うことであった。
台湾のダンサーはバレエやモダンダンスを学んでいて、テクニックに問題はないが、台湾に移されると、現地の文化との繋がりを失う。その動きがどこから来ているのか知らなければ、その生命や土着性が失われるというのである。
上半身の動きを主とし、高く頭を上げる西洋のダンスは貴族の踊りだと林麗珍は言う。彼女の考える台湾文化は庶民の様式で、頭を下げる踊りなのである。そこで文化に根差した舞踏のために、てづから種を撒き、時間をかけて創作が芽吹くのを待つようになった。
活動を中止した10年は、ステージには立たないものの舞踏から離れたわけではなかった。この時期、蘭陵劇坊と協力したり、映画のための振付などを行っていた。虞戡平監督の「ブヌン族楽舞篇」に参加して、全台湾の先住民集落における祭りの儀式を目の当りにして、漢民族にも自分の祭りの儀式があったことを思い出した。
基隆に生まれ育った彼女は、毎年中元祭や灯籠流しなどを見てきたが、特に気にかけなかった。それが遠く離れてみて、祭りが生活の中に息づいていたことに気付いた。
ソロ作品「白痴」から、無垢劇場時代の「醮」「花神祭」と「観」三部作まで、すべて生活の細やかな観察から生まれた作品である。
学生時代に最初に振り付けた作品「白痴」は、近所の少女の物語から材を取った。
その当時、16歳ほどの林麗珍は、その少女とよく遊んでいて、知的障害の少女はいつもあどけなく笑っていた。ところがある日、少女を見かけなくなった。後で聞くと、家族に家に閉じ込められたという話に、彼女はショックを受けた。「人には型にはまった習慣の中で、残酷な力があると気づきました」と、彼女は人間性の観察を、この作品に盛り込んだのである。
2000年の作品「花神祭」は、かつての記憶から生まれた。ある日、夫の陳年舟が植えた椿を見ようとしたが、日が暮れていたため翌朝見に行ったところ、花はすでに枯れていた。突然に枯れた花は、当時の自身の半引退生活を思わせた。その感覚が常に心に残り、「花神祭」に繋がった。
人や土地、自然への関心が創作に繋がるのは、かつて夫と新店の日本家屋に住んでいた経験によるものであろう。その家には庭一杯に草木が植えられ、土に親しんでいた。生活の中の何気ない感覚が、創作の養分となったのである。
生は一筋の流れ
1995年に発表した「醮」は、すでに死んだものの陰陽二つの世界に彷徨う女性が、悟り解脱するまでの物語である。道教の儀式のような荘厳な作品の中に、林麗珍の生と創作に対する考えを表現している。
なぜ「醮」と名付けたかと言うと、10年に1回行われる道教の儀式のために村全員が動員され、すべてを捧げる。同じように自分も全力を挙げて、この作品に導入したからと言う。
それまでの10年を取り返すように、林麗珍は音楽、衣装から舞台効果まで自分のすべてを盛り込んだ。ダンサーが身に着ける赤い布や提灯を持つ姿勢まで、すべて細かく指導し、舞台に登場する道士も本物の儀式だと驚いた。醮を執り行うには、誰もが心に儀式を持ち、見返りを求めず、誠実に願わなければならないと彼女は話す。
「醮」の公演で、ダンサーからスタッフまで疲れ果て、これが最後の作品と林麗珍も思った。それが5年後に、四季の移り変りと生の無常を扱った「花神祭」が生まれた。「醮」が中元の霊送りから構想を得たのに対して、花神祭は春芽、夏影、秋折、冬枯の4章で四季の変化と万物の消長を表現した。
この2作の後を受けて、2009年にはワシの運命の歌で天地消滅を探った「観」が発表されたが、いずれも生は一筋の流れをテーマとしていた。
2006年に「醮」が再演されたとき、林麗珍は苗栗白沙屯の媽祖巡行に参加することを若いダンサーに求めた。媽祖巡行では占いで旅程が決められ、途中の分れ道まではどちらに進むかわからないが、方向が決まれば全力で走りださなければならない。この巡行は生の流れに呼応し「決まったルートはありません。分れ道でどこに行くかもわからないのです。これが生の過程ではないでしょうか」と彼女は言う。
この20年でわずか3作品しか発表していない無垢舞踏劇場のテンポは、スピードアップする現代社会では貴重である。ゆったりとした余白の美が無垢のダンスのエッセンスで、また林麗珍の人生観でもある。「人と生命と土地への感情は、スピードの中に消えていきます。ゆったりとした動きの中で聞こえてくるものがあり、静けさの中で自身を調整できるのです」と彼女は語る。
2009年に三部作最終章「観」を発表すると、内外の評論家は林麗珍の生涯の最高傑作となったと考え、彼女自身もこの作品の衣装デザイン、振付の形式すべてが最高の表現で、これを越えるのは難しいと感じた。しかし「醮」でも「花神祭」でも最高で最後の作品と言われたが、後に続く作品を生み出してきた。「創作は言葉ではなく、時間と空間と感性の総合なのです」と彼女は言う。
本物の生活を必要とする林麗珍にとって、言葉はどれだけあっても心に直接響くものではない。「ダンスがどのようなものか説明する必要はありません。まずは踊ること、ダンスもステージも直接ぶつかって感じるもの」なのである。
今年9月、久方ぶりに「花神祭」が国家戯劇院で上演される。台湾の観客も、世界の八大モダンダンス振付家と称される林麗珍が時間と人生をかけた傑作を、再び目にする機会に恵まれる。この舞台において、花開き花落ちる空間に、移り変わる四季の力を感じ取れるだろう。
無垢舞踏劇場は創設から20年をかけて「醮」「花神祭」「観」の三部作を創作し、独特の余白と静謐の美学を表現してきた。写真は無垢舞踏劇場による『観』の「触身有情」の章。
無垢舞踏劇場の芸術監督・林麗珍は、醮(宗教儀式)を行なうような自らを捧げる精神で舞台を創作している。
無垢舞踏劇場の芸術監督・林麗珍は、醮(宗教儀式)を行なうような自らを捧げる精神で舞台を創作している。
衣の繊細な刺繍、軽やかにすり抜ける猫……、これら生活のディテールのすべてが林麗珍のインスピレーションの源となる。
衣の繊細な刺繍、軽やかにすり抜ける猫……、これら生活のディテールのすべてが林麗珍のインスピレーションの源となる。
9年をかけて天地人の三部作の最終章である「観」が生み出された。ワシの一族の運命の歌を通して天地に生滅を問う。左下は陽明山での野外公演の様子。
『花神祭』は「春芽」「夏影」「秋折」「冬枯」の四章から成り、大自然の四季の変化と万物の消長を表現する。