2001年、アメリカの女優ジュリア・ロバーツは、映画「エリン・ブロコビッチ」でアカデミー主演女優賞を受賞した。この映画は1993年に実際に発生した事件を基にして製作された。学歴のあまり高くないシングルマザーのエリン・ブロコビッチは、カリフォルニア州の小さな町の弁護士事務所に事務員として勤務していたのだが、ある時、何の気なしに現地の電力会社の公共用水汚染を発見してしまう。汚染された水で住民はガンを発症し、驚くべきスピードで病状が悪化していた。そこで雇い主である事務所の所長の反対を押し切り、単身で真相の調査に乗り出した。
調査の過程で様々な挫折や危険に出くわしながら、エリンは妥協せず、町の住民600人余りを説得し、団結して大企業を訴えたのである。1996年、電力会社はついに屈服し、アメリカ史上でも最高の3億3000万ドルで法廷外和解が成立し、正義は守られた。
同じように、台湾にももう一つの汚染事件がおきていた。アメリカのRCA社は桃園工場内で有毒廃棄物を垂れ流しにし、土壌と地下水汚染、従業員のガン罹患の労災が発生したのである。
映画に比べて幸運だったのは、RCAの従業員に情熱溢れる法律扶助会の弁護士団が味方し、訴訟に立ってくれたことである。しかし不幸なことに、2001年の統計によると、工場勤務10年余りの従業員1375人が乳ガン、大腸ガン、肝臓ガン、鼻咽喉ガンなどを発症し、すでに216人が亡くなっていた。現在も裁判で争っている従業員たちに、正義が訪れる日は来るのであろうか。
去年の初め、RCA訴訟が再び提起されてから、開廷前の弁護士団との訴状の詳細討論、労働委員会への古い資料の閲覧請求、行政院への陳情、証人への出廷準備の連絡、それに記者会見など、黄春窈さんは病躯を押して、簡美令さんは仕事を休んで、桃園から台北に通っていた。
時に数時間にも及ぶ会議で、桃園の自宅に帰るとすでに深夜、疲れて寝床に倒れこむ。
「次第に体力が落ちて、去年は昔の同僚とカラオケに行って歌えたのに、今年は疲れるだけで。半年毎の検診で病状は安定していますが、鼻咽喉ガンの後遺症の大きさは予想を越えています」と54歳の黄さんは話す。かつて太く濃かった頭髪も、今では3分の1に減り、流動食しか呑み込めないし、少し話しただけで喉が渇き、飲料水を手放せない。
鼻咽喉ガンで声帯を破壊され、言葉が不明瞭なため、相手は何を言っているか聞き取れず、自然と声が高くなる。幸いなことに、親友の簡美令さんが、適時に説明を補ってくれる。
黄春窈さんと簡美令さんはRCA従業員互助協会の会員で、去年にRCA訴訟が再び提起されたとき、協会の理事と会長であった二人は急に忙しくなった。1997年の発病後、黄さんは仕事を辞めた。1992年のRCA工場閉鎖後、簡さんは解雇され、10年前にご主人と貿易会社を設立した。同僚として10数年働いていた二人だが、ここ数年はさらに関係を深めている。

桃園のRCA工場は幾度も所有者が変わり、株主構成も複雑なため、誰に賠償を求めるべきかが大きな課題となっている。
17年の工場勤務の被害
黄春窈さんの父は100歳と長生きし、8人の兄弟姉妹にガンの病歴はない。タバコも酒もやらない自分がどうして鼻咽喉ガンになったのか不思議であった。
1997年、風邪をこじらせ咳が止まらないので、黄さんは病院で内視鏡検査、検体検査を受けた。その結果、鼻咽喉ガン後期とわかった。ガン細胞がすでにリンパ節に転移し、繊維化して喉が硬くなり、動かなくなっていた。化学療法と放射線治療を行ったが、幾度となく持ちこたえられなくなりそうになった。
治療の過程で黄さんの喉は潰瘍を起こし、飲み込めなくなった。退院後の1ヶ月、毎日痛み止めにモルヒネが必要で、一番辛いのは水を飲むことだった。痛みで呑み込めないので、水を飲む前に麻酔薬で麻痺させるしかなかった。
発病後、マスコミの報道でRCA桃園工場の土地の深刻な汚染を知った。昔の同僚が何人もガンで世を去っており、自分も被害者だったのである。
職業高校を卒業してから、黄さんは1974年にテレビのICボードを生産するRCA桃園工場に勤務した。ICボードの製造工程にはハンダ付け、部品取付け、部品検査、溶剤でのメインボード洗浄などの業務があった。
品質管理を担当した黄さんは、350度のハンダ付けを目視で検査したが、両手には甘い香りの洗浄剤がべったりついていた。作業時にはトリクロロエチレンやテトラクロロエチレンをたっぷり含んだ高温の気体を吸い込んでいた。17年の間、手袋もせず、排気の設計不良で排気がうまくいかず、溶剤が鼻を突く高温の環境にあって、アメリカに輸出する電子製品を生産していた。
5000坪の敷地に24時間交替勤務で運営されていたRCA桃園工場は、最盛期には一日にテレビ6000台分の電子部品を生産し、従業員の食事の時間は30分しかなかった。従業員は手を洗う時間もなく、並んで食事をしたのである。
さらに誰もが後になって知って驚いたのだが、作業中に手にべったりついていた洗浄剤は発ガン性の恐れのあるトリクロロエチレンで、大量に使用していたトリクロロエチレンを含む洗浄廃水は、工場脇の空き地や井戸に直接垂れ流していた。上水道がなかった工場では、従業員の飲用水、風呂や洗濯用水など、すべて溶剤で汚染された地下水を使っていたのである。黄さんと同じく、長期的に発ガン物質に晒される環境の生産ラインで作業していた従業員数は1万8000人に上る。
「外資系企業が台湾で私たちを汚染し、昔の同僚は亡くなり、病気になるなんて悔しいではありませんか。でも最後まで戦う体力があるのかどうか」と、黄さんの口調には悔しさがにじむ。

1969年、米国RCA社が台湾に工場を設置してテレビ部品生産を開始、最盛期の従業員は1万8000人に達し、その多くは女性だった。
まず土地を救うのか
1994年、RCA汚染事件が明るみに出て、環境汚染、労災、地域住民の健康、政府の失政、多国籍企業への訴訟など、多くの面から問題となり、社会運動団体や世論の注目を集めた。
最初の数年は、RCAが垂れ流した有毒溶剤が環境にどれほどの汚染をもたらしたか、それに作業環境が従業員の健康を害する職業病を引き起こしたのかにフォーカスが当てられた。
しかし、当時の台湾の環境保護規定の罰則は極めて軽かった。しかも二度にわたる買収により新たにRCAを所有することになったアメリカのGEとフランスのトムソンは、台湾に法令規定がないのであれば、この問題への対策の必要はないという態度であった。環境保護署としてはやむなく、適切に処理されないのであれば国際的な記者会見を開催し、不法行為を訴えると言うしかなかった。そうなると、両社の製品イメージや市場にマイナスとなる。
1996年、両社は汚染処理対策を開始したのだが、1年半後になって、たとえ2億台湾元を費やしたとしても、地下水の汚染に改善が見られないことを発見した。工場近隣地域の地下水のトリクロロエチレン濃度は、環境保護署が定めた飲用水の基準の1000倍だったのである。ということは、短期的に汚染前の状況に戻すのは不可能ということであった。自然の回復力を待つのであれば、2025年にならないと地下水の水質は基準内に戻らない。
1998年5月、RCA自助会が設立された。RCAに勤務した従業員は数万人に達するが、多くは県外と桃園県の眷村の女性で、工場閉鎖から何年もたっているため従業員はあちこちに四散し、眷村は再開発されていた。自助会の幹部は八方手を尽くしてようやく800人余りの従業員と連絡を取り、加入してもらった。
1998年10月、監察院は修正案を提出した。これによると1975年から1991年の間、労働委員会はRCA向けに8回の労働検査を行い、有機溶剤中毒予防規定、労働者健康管理規則と労働者安全衛生規則に対する違反を発見していたが、公文書で工場に改善を要求したものの罰則はなく、追跡して監視もしておらず、労働者保護の責任を果していなかったというものである。
また、労働委員会、衛生署、環境保護署は縦割り行政で、積極的に化学物質の影響や、罹患した従業員への医療救済、法律的な保障への協力など、対応と補償制度を確立しておらず、確かに失政と言ってよかった。
汚染と疾病の関係
RCAは土地汚染を認め、対応策を採り始めたため、自助会でも労働委員会の職業病研究報告が出れば、医療救済と賠償を受けられると期待がかけられた。
一年半後、第一期研究は新光紡織、遠東紡織、フィリップスなどの会社の従業員と比較して、RCAの女性従業員の乳ガン、子宮頸ガン罹患率が高い(調査した703人の女性のうち48人)ことが分り、汚染と乳ガンとの相関性を調べるために第二期研究が開始された。
ところが第二期研究の結果は、RCAの女性従業員の乳ガン罹患は個人的な出産などと関係がありそうだが、作業環境とは関係しないというもので、従業員を失望させた。
労働委員会では従業員のガン発病と病気の因果関係を判断できなかったが、環境保護署の研究はまた別の結論を導き出した。
台湾大学公衆衛生学部の王栄徳教授によると、RCA工場跡地は対策が施されたが、地下水には発ガン性のクロロアルカンが含まれており、現地住民の発ガンリスクは0.3%(一般の受容値は1万分の1から100万分の1)であり、発ガン以外のリスクも16.9(一般の受容値は1未満)であった。RCA工場の汚染は、従業員と住民の生命と健康に重大な脅威となっていたのである。
しかし、疾病と汚染源の因果関係の証明は、実は大変な作業となる。
1950年代に九州で発生した水俣病は、30年にわたり会社が水銀を含んだ工業廃水を海に流し、熊本県の漁民が水銀で汚染された魚を食用としたために起った。長期的に水銀が脳に蓄積して、中枢神経を侵されるものだが、20年もたって発病し、指が曲がらなくなり、錯乱や昏睡状態となり、死に至る。日本の政府の追跡調査の結果、12年をかけてようやく工業汚染が原因と分かった。
80人の集団訴訟弁護団
証明の難しさから、政府もRCA従業員のために何もできず、社会の関心も冷めてきた。
2000年末、RCAは経済部に減資計画を提出した。このニュースが伝わると、自助会と支援団体は強い危機感を抱いた。RCAが台湾から資金を撤退てしまうと、賠償要求はより難しくなるからである。
RCA従業員と共に戦ってきた労働傷害被害者協会は、台北弁護士協会、台湾人権協会、司法改革会議に支援を求め、公害訴訟の経験があり、アメリカの法律に詳しい弁護士を見つけて、訴訟に協力してもらいたいと申し出た。
2001年5月、各方面の人が集まり、80人のボランティア弁護団が結成された。まず証拠集めを始め、当時の従業員の作業状況を理解し、確かに有毒な環境に晒されていたことを証明し、また従業員の罹患状況と程度を確認し、またRCAの台湾における資産を調査し、賠償請求額を計算した。
急務はRCAの台湾の資金を抑えることで、資金が海外に出てしまうと、裁判に勝っても賠償を受けるのが難しくなる。
しかし仮差押の申請には保証金を裁判所に差入れなければならない。通常、裁判所は債権者の債権金額の3分の1の保証を要求する。RCAの台湾における資産が24億元あったとすると、訴訟を起こす前に8億元の保証金が必要となるが、これは弱者である従業員にとって、天文学的数字に等しいものであった。
そこで弁護団は智恵を絞り、法律を隅々まで調べて、仮差押のできる方法を考えた。
弁護団の代表林永頌弁護士は司法改革会議の事務長の王時思とともに何度も労働委員会を訪ね、労働委員会が「労働者訴訟補助要点規定。労働者に訴訟費用を負担する経済力がないが、勝訴の見込がある場合は、訴訟救助保証書の取得に協力できる」とある規定に従って、書面証明を発行し保証金に代えることを依頼した。
こうして仮差押のための数々の困難を乗り越え、2002年7月に弁護団は台北地方裁判所にRCAの台湾での資金の仮差押を申し立てて、会社の資金の流れを問合せたが、経済部投資審議委員会は機密を理由に資料提供を拒否した。弁護団はさらに国税局の資料を閲覧した結果、RCAの2000年度の受取利息がわずかに33万台湾元で、これから元本を逆算すると1000万台湾元に過ぎず、会社資金はすでに台湾を出ていることが想像される。
資金が流出し、賠償を受けられそうもないので、自助会は弁護団への訴訟の委任を解除し、国際的な社会運動団体に連絡し、世論に訴えると共に国際訴訟の道を探った。しかし、アメリカに問合せても、アメリカの弁護士は訴訟に少なくとも5年から10年かかると、引き受けようとはしなかった。心身ともに疲れきった自助会の幹部は改選され、全ては振り出しに戻ってしまったのである。
再び訴訟の道へ
2年がたち、去年の初めにこの訴訟案件は法律扶助会台北支部の林永頌支部長のところに戻ってきた。「被害者が数多く、状況が複雑で、非常に難しく、責任は重いし、引き受けようかどうか迷いました」と話す彼は、かつての弁護団のメンバーが戻ってきてくれるかも心配だった。
「すでに末期ガンの従業員もいて、日々悪化する体を引きずりながら、結果を見たいと頑張っているのです」と、思案の挙句、この訴訟を引き受けることにした。
「この訴訟は勝算を計算するのではありません。正義はどこにあるかと問うものですから、私たちが勝つしかありません。行政に保証書を発行させたことも、今後の因果関係の証明についても、この訴訟は台湾の司法における先例を作るものです」と、林支部長は確信をこめて語る。
これまでの労働委員会の職業病研究は穴だらけで、とくに事務職と生産ラインの作業員を一緒に混ぜて比較してきた。しかし両者が接触する発癌物質、有毒な環境にさらされる程度はまったく異なっているのに、これを一緒にすれば病気と職場環境の相関性は低く出てしまう。また労災案件の証明責任が全て弱者の原告にあるのなら、そもそも訴訟自体が成り立たないことであろう。
労働者の作業プロセス、製造工程、原料成分などのデータは会社側が握っている。アメリカや日本での労災案件では、民事訴訟の過程で原告の証明責任が弾力的に変化しており、被告の会社が自分の無実を研究とデータで証明するように求められている。
司法は正義を守るための最後の防衛線ではないかもしれないが、正義にいたるこのステップが塞がってしまうと、真相はさらに遠くなり、被害者は訴える場がなくなってしまう。10年余り戦ってきたRCAの労働者は、歴史の創造など考えてはいなかったが、台湾の公害と労災の訴訟の歴史において、消すことのできない足跡を残してきている。
1969:RCAが台湾桃園に工場設置。
1970:RCA桃園工場操業開始。テレビ部品、マザーボード、集積回路などの電子部品を生産し、最盛期の従業員数は1万8000人に達する。
1986:桃園工場は米GEに買収される。
1988:フランスのトムソン社に買収される。
1992:トムソン社は敷地内の地下水汚染を発見して工場閉鎖。台湾の宏億社が土地を買い、ショッピングセンター建設を計画。
1994:趙少康・立法委員がRCA工場敷地内の汚染を公表、環境保護署が調査委員会を設置。
1997:政府はGEとトムソンに地下水汚染解決を求める。
1998:GEとトムソンは、汚染改善不可能との報告を提出。宏億は、両社が汚染を隠蔽していたために土地を購入したとして国際訴訟を起す。
1998:RCA自助会が監察院に矯正案を求め、元従業員が作業環境のために心身に障害を負ったと申し立てる。行政院は省庁を越えた委員会を設置して対応に当たる。
1999:労働委員会は流行病学調査を行ない、環境保護署は汚染事件と住民の健康リスク評価計画を実施。
2000:立法院で「土壌地下水汚染改善法」が成立。環境保護署は石油、化工、農薬、メッキなどの企業から汚染改善費を徴収することとなり、翌年の徴収費は13億元と見積もる。
2001:RCA元従業員のうち1375人がガン罹患、うち216名が死亡。
2002:司法改革会議などの社会団体が弁護士を集めて損害賠償を請求。RCAの台湾からの資金撤退が発覚。
2003:自助会は弁護団への訴訟委任を解除する。
2005:自助会が改組され、理事と会長を改選。
2006:法律扶助基金会が訴訟依頼を受け入れる。
2007:法律扶助基金会はトムソンを被告に加え、現在係争中。
(資料:労災協会)