島国の海洋文明
鵝鑾鼻遺跡を人類の文明の発展という角度から見ると、さらにその意義が際立つ。
今から3万年前の氷河期、台湾海峡の海面は低く、島としての台湾は存在していなかった。ここの陸地はアジア大陸とつながっており、人類は大陸から歩いて渡ってきたのである。そして1万2000年前から氷河が溶けていくと海面はしだいに上昇し、今日の台湾島が誕生した。
文明の発展には長い時間がかかる。陸地での生活に慣れていた人々にとって、大海は行き来を隔てるものであり、数千年の適応を経てようやく航海の技術を持つこととなる。そうして大海原は彼らの道となり、4000年前になって「台湾から出ていく」能力を持った彼らは、再び広い世界を目指しオーストロネシアの世界を開拓していった。
したがって、私たちは台湾は海洋国家であり、海に親しみ、海と共存すると言うが、その海洋文化の根源はここまでさかのぼることができる。貝器の他にさまざまな石錘(漁網や釣り糸につけたおもり)が出土していることからも、このことが証明できる。平たい石の二か所、あるいは四か所に凹部や溝を刻むなど、さまざまな形状の石錘があり、当時の人類が各種の漁具や漁法を用いて浅い海域や深い海域で漁をしていたことがわかるのである。さらに遺跡からは季節性の回遊魚であるカジキやシイラの骨も出土していることから、当時の人々が海流や風向、海の変化を熟知していたからこそ、これら海岸から遠い海域を回遊する魚類を捕ることができたことがうかがえる。
人骨に詳しい邱鴻霖によると、出土した人骨から分かるのは、ここに暮らしていた先史時代の人々がしばしば「サーファーズイア」と呼ばれる疾病にかかっていたことだ。サーフィンやダイビングなどの活動で、温度や水圧の急激な変化を受けることによって生じる外耳道外骨腫である。また、成人男性の大腿骨の内側の、筋肉が付着する箇所に炎症の跡がある。これは、不安定な石灰岩や筏の上に長時間立ってバランスを取っていたことから生じたものと思われる。さらに、海藻や貝類、魚類など硬いものを食べていたために、歯は摩耗しているが、虫歯は非常に少ない。
「もし400年前の台湾の頭が基隆の和平島だとするなら、4000年前の台湾の頭は鵝鑾鼻だったと言えるでしょう」と邱鴻霖は言う。季節風を受け、あるいは海流に乗り、台湾と世界をつないだのは最南端の鵝鑾鼻だったと考えられるのである。文献はないものの、出土した遺物から、いにしえの文明がここから栄えていったことが推測できるのである。考古学的発見は、タイムトンネルの鍵を見出したに等しい。鵝鑾鼻を訪れれば、この島と海とのつながりが見え、その感動に心が躍ることだろう。
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鵝鑾鼻灯台はアジアで唯一の武装灯台で、壁面にはアロースリット、周囲には塹壕がある。
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鵝鑾鼻第一遺跡の一角。地上に見えるのは大量の貝器だ。(清華大学人類学研究所提供)
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涼しい風が抜ける石灰岩の林の中に、先史時代の人類の住居があった。