競技で停滞から脱出
沈彦汝は、出生時に片方の聴力に極めて重度の障害があり、もう一方の耳は中~重度の障害があり、「ママ」と呼んだのは3歳になってからだった。補聴器をつけたが、沈彦汝にははっきり聞こえず、かえってうるさく感じた。また、他人の視線も気になって、よけいに内向的になり、言葉を話すことはほとんどなかった。
小学5年のときに、台湾区運動会(現在の全国運動会。国体に相当)の選手のお母さんに勧められて、高雄獅湖小学校のバドミントンチームに入った。バドミントンは上手かったが、チームのメンバーに除け者にされてしまい、ますます話さなくなった。
沈彦汝の母・王美青は、最初は勝つためではなく、娘がスポーツを通じて人と関わるようになってほしいと思っただけだと言う。中学のスポーツ強化学級に入ってからは、相手のショットが聞こえずシャトルが来てから動き出すため、いつもスタートが遅いことに気づいたが、心配しつつも、どう手助けしていいかわからなかった。
だが沈彦汝は、補聴器がないほうが集中できた。負けず嫌いの強靭さで走りに集中し、多彩なショットを繰り出すようになっていった。
「子供の時は試合は嫌いでした。勝つためにバドミントンをするのが嫌だったんです」2012年、沈彦汝は国の代表選手として、韓国で開催されたデフアジア選手権に参加した。「私でも聴覚障害の選手を代表して海外で戦える。バドミントンで国に貢献できるんだと気づいたのです」この栄誉が、競技に向かう動機になった。
2015年、沈彦汝は台湾の聴覚障害選手を代表して、ブルガリアで開催された「第一回世界デフユースバドミントン選手権大会」と「第四回世界デフバドミントン選手権大会」に出場した。
1ヵ月余りにわたる大会では、シングルス、ダブルス、混合ダブルス、さらに団体戦もあり、毎日4~5試合をこなし、2種目それぞれ2週間のスケジュールで、全部で百を超える試合に出場した。「試合ではほかのことは考えず、打てば打つほど集中でき、打っているうちに相手が誰かさえ忘れてしまうほどでした」と沈彦汝は話すうちに笑い出した。
成人の部のデフバドミントンの決勝では、大柄な著名選手Katrin Neudoltと対戦している。強敵に気圧されながらも、集中して最後の一球まで追い続けた沈彦汝が、二つの国際大会のシングルス金メダルを手に入れ、チャイニーズタイペイ・デフバドミントン・ナショナルチームにおいて、個人で二つの金メダル獲得という記録を打ち立てた。「競技のおかげで、私にもこんな目標が達成できるんだと知りました」初めて世界選手権に進出した沈彦汝を、競技が、停滞から抜け出させ、練習を続ける目標を与えたのである。
パラリンピックのバドミントン選手で、高校と大学の同級生でもある方振宇と練習をした後、互いのプレーを分析し合う。