永遠の愛国者−霧峰の林家
台湾人志士は中華民国に思いを寄せ、孫文の革命事業に深く関わってきたが、1937年に日中戦争が全面的に展開すると、台湾の人々はさらに祖国復帰のため、抗日運動に次々と身を投じていった。
「台湾人は日本が負けなければ中国に復帰できないことを認識していました」と、邵主任は言う。台湾人志士は様々なルートを通じて中国各地に潜伏し、各業種に紛れ組織化を進め、1941年初め台湾人の抗日団結を象徴する台湾革命同盟会が重慶で設立され、「中国国民党の指導で、台湾の革命の力を集中し、日本帝国主義を打ち倒し台湾を光復し、祖国と協力して三民主義中国を建設する」と謳った。14歳で台湾文化協会に加入し、後に黄埔軍人学校に身を投じた李友邦将軍は、台湾の若者300人余りの台湾義勇隊を組織し、福建から浙江沿海でゲリラ戦を戦った。
台湾人志士の抗日運動には多くの感動的エピソードが残されているが、中でも悲壮なのが霧峰の林家の物語である。
福建省漳;州出身の霧峰林家は、台湾第一の名族として知られていた。清朝には反清朝の林爽文を出し、台湾巡撫劉銘伝を助けてフランス軍を撃退した林朝棟も一族の一人である。日本時代になると、林朝棟の息子林祖密は家産を売って、羅福星(苗栗事件)、余清芳(口焦吧;哖;事件)などの武装抗日運動を支援した。一方では、民主主義の闘士林献堂が非武装抗日路線を採っていたが、「国があって台湾があり、台湾を愛するより先に国を愛す」が林家の家訓であった。
林祖密は抗日運動に家産を蕩尽し、孫文の左右にあって閩;南軍司令に任じられたが、北伐期に軍閥の銃撃にあって、壮烈な最期を遂げた。
林祖密の息子林正亨は父の志を継ぎ、南京中央陸軍学校に進み、抗戦に身を捧げ、重傷を負って左手が利かなくなっても、妻に「神聖な戦争で責任を果している。台湾の回復が父の遺志だったが、達成できたと言えよう。父が知ったなら、あの世で破顔大笑することだろう」と書いた。
台湾人志士は植民地政府の監視と圧力にさらされても、「祖国」の歴史に加わることをあきらめなかった。蒋渭水(上)と廖進平(左)は孫文を信奉し、霧峰林家の林正亨(右)は自ら抗日戦争に加わった。しかし、台湾の祖国復帰当初は政局が安定せず、政策の失敗もあり、この世代の台湾人エリートは難に遭い、今もその傷は癒えていない。