映画が息子を救った
林正盛は人生のどん底で映画を始めた。脚本・監督クラスで映画や映画評論、学生の作品を見る授業を受け、人生のパートナー、柯淑卿さんに出会い生まれ変わった。
結婚した後、林正盛は脚本執筆に専念した。父親とも話題が増え、今では父親が新店の林正盛の家を訪れ、何冊か本を借りて帰ることもある。「ある午後、父が突然私に『映画が息子の人生をよみがえらせ、人間らしい生活をさせてくれるとは思わなかった』と感慨深げに言いました。その日の父の心情は永遠に忘れません。それは息子に安堵の念を抱いた心地よさです」
林正盛は、積み上げると背丈と同じ高さになるほど脚本を書いた。連続3年新聞局の優良脚本賞に応募し落選したが、柯淑卿さんの『高山上の熱気球』は一発で優良脚本賞を取った。
また侯孝賢の「悲情城市」の撮影がもうすぐ始まると知ると、侯孝賢の大ファンの2人は、撮影の手伝いを申し出、撮影アシスタントと衣装アシスタントをまかされた。しかしクランクインは延期され続けた。2人は撮影開始を待ち、梨山に果樹園を借りた。だが、梨山に1年いただけで、60万元の借金を背負い、りんごは売れず、果実酒にするしかなかった。その後、彼らは蒸留の過程を記録しようと、残った金で簡単なカメラを買った。林正盛はこうしてドキュメンタリーを撮り始めた。
1990年、彼は梨山の果物農家を舞台にドキュメンタリー「老周、老汪、阿海とその4人の労働者」を撮り、中時晩報の映画賞非商業部門の最優秀作品に選ばれた。1991年に撮った「青春のつぶやき」では歌の好きな隣の女の子を主人公にやるせない青春を描いた。1992年には再び梨山で「阿豊、阿燕の孔雀地」を撮影、連続3年で同じ映画祭の常勝軍となった。
1993年、新聞局は「映画年」のイベントで短編フィクションの制作募集を行った。林正盛は家族の物語「伝家宝」で映画制作のチャンスを得た。
大胆に前に進め
脚本を書いて助成金を申請する一般の新人監督のやり方で、1995年林正盛は「浮草人生」で夢をかなえた。
だが助成金申請の結果発表の前に、役者をすることになった。映画「熱帯魚」でやさしい誘拐犯を演じたのだ。誘拐してきた人質はまもなく受験する高校生で、誘拐犯は人質に教科書を見せ勉強させる。その後、林正盛は「太平天国」にも出演、50年代に米軍が台湾で防衛協力をしていた時代、田舎の村の唯一のインテリで、村人と米軍の間で右往左往する役だ。
何人かの映画監督は林正盛を台湾の農夫を演じる最高の役者だと見ているが、彼自身は役者は一時的なものに過ぎず、映画作りこそが自分の夢なのだと考えている。
林正盛の第1作「浮草人生」が描いくのは、古い時代の農村の情景と、若い父親が愛する妻を病気で亡くした後ショックで家を出、2人の娘を年老いた母親に預けるという話だ。初めて映画監督としての力量を試したこの作品は、東京国際映画祭ヤングシネマ部門シルバー賞を受賞した。1997年のフィクション「青春のつぶやき」は、前のドキュメンタリーを膨らませたもので、映画館のチケット販売のブースの中で2人の女性の間に曖昧な感情が芽生えるのを描く。ヒロインを演じた劉若英、曾静が東京映画祭の舞台に立ったことは、その年の映画界の大きなニュースとなった。1998年の「放浪」は、姉弟の若い頃のただれた関係がテーマだ。1999年の「天馬茶房」は終戦直前の日本統治時代、台北大稲埕の有名な喫茶店「天馬茶房」に集まった当時の台湾の思想的リーダーや、理想に燃えた芸術家や文人、彼らが理想を語り合い、当時の政府を批判しあう時代の風景を描いた。
2000年、「ビートルナット・ビューティー」は林正盛の映画作品の中でも最高傑作で、ベルリン映画祭で最優秀監督賞を受賞している。
「林正盛はずっと才能の全体を現していないという印象でした。オリジナリティも明確ではなく『放浪』でもあまり変化はありませんでした。ですがこの映画は隠喩と象徴がよく使われています。ただ抑え目なラストが、映画全体のテンポを鬱々としたものにしてしまっています」映画評論家の聞天祥さんは、同作品の冒頭で、李心潔と張震がMRTの駅前の空地で雨に打たれるのも気にせずコンクリートジャングルに向かって叫ぶ場面で、カメラは2人の周りを360度旋回、すばらしい映像が林正盛の力を示していると言う。
未来、ずっと来い
「虚栄心から言えば、ベルリン映画祭の最優秀監督賞は確かに栄誉なことです。でも私も審査員をしたことがあり、それが何人かの審査員が出した結果に過ぎないことを知ってます。喜びも過ぎてしまえばそれまでです」と林正盛は言う。
実は、第1作目から「運がいい」という印象を持たれていた。
これに対し、林正盛は「運は一種の人生の奇妙なめぐり合わせだ」と考えている。最初はただ純粋に映画を撮りたいと考えていたが、2作目を撮り終えると、次を考える間もなく日本のNHKから資金提供の申し出があった。その後、焦雄屏さんの吉光電影公司では台北、北京、香港の三都シリーズの企画があった。ただビンロウ売りの女性をテーマにしたら面白いだろうとしか言われず、すぐ撮影に入ったが、作品を撮り終えるまで、どうなるかは監督自身もわからなかった。
「私の幸運はムダにはならなかったようで、どの話も書き終わると撮影できました」と言う。だが、彼は世の中の法則というものをよく知っている。報酬を得たいなら働かなければならないが、働いたからと言って必ずしも報酬が得られるわけではない。林正盛は、自分より努力している人も、自分より才能がある人もたくさんいると考えている。彼はどの人にも守り神がいると信じており「私の守り神は一生懸命、気を抜かずに私を見守ってくれています」とだけ言った。
林正盛は「先のことはわからない」という気持ちで映画に取り組んでいる。彼の暗く小さな青春は「つぶやきのような、いとしさと親しみを持った」語り口で『未来、ずっと来い』に詳しく書かれている。
「台湾に『背の低い人は恨みを忘れない』という諺があります。小さい頃、私はとてもくやしい思いをしました。大人になってかなり忘れましたが、執筆で若い時のことを思い出しました」と言う。
緊張の中での見つめあい
この自伝エッセイでは、映画制作についてはふれていない。だがこれまでの経験の描写から、林正盛が「浮草人生」から「ビートルナット・ビューティー」まで5本の映画を対照させた時、自分の「青春」に対するいとおしさが、家族や仕事仲間の「青春」への熱中に発展し、その後自分の作品の中に取り込んでいることがわかる。だから人物が生き生きしてくるのだ。
「台湾の映画監督で自伝を書いた人は多くありません。林正盛の過去の作品では欠点や物足りなさがありましたが、『未来、ずっと来い』はこれまでで最も魅力的な1本の『作品』となっています」映画評論家の王廷煇さんはこの本は個性的で感動的だと言う。
面白いのは、同じ時期に妻の柯淑卿さんもエッセイ『ちょうちょが飛んでいった』を書いたことだ。『未来〜』が映画監督誕生前の物語であるなら、『ちょうちょ〜』は映画監督になる力があったのに、林正盛の妻となり支えとなって身をひく女の物語だ。
「カメラを買いたかったのは私だし、ドキュメンタリーを撮りたかったのも私だ。しかし山に登ってみると、林正盛はカメラを独り占めしてしまった」柯淑卿さんは本の中で、2人で撮影して1年、70本ものフィルムがたまり、編集が必要となった時のことを書いている。誰が編集・監督するか、が問題になったのだ。結局、彼女が折れて林正盛に編集をまかせたのだ。
1996年「青春のつぶやき」のクランクインでも、監督の問題で関係が緊張した。当初は2人とも監督になって撮ることにしていたが、中央電影公司の制作開始の記者会見で、同時に3本が発表されることになった。会場には監督に3つしか椅子が用意されておらず、2人は「青春のつぶやき」の監督の椅子を奪い合ったが、妻より夫のほうが先に椅子に座った。この一歩の遅れが命取りになったのか、結局監督は林正盛1人となった。
林正盛が成功し名を馳せているのに、自分に何のキャリアもないと気づき、柯淑卿さんはもう相手に譲らないと決心した。彼女のエッセイでは少し怨みを込めたタッチで、もともと美しかった2人の世界に、映画という「第三者」の介入で変化と危機が起こったことを描いている。
映画人生
映画が林正盛にあたえたものの良し悪しは別として、映画はすでに彼の人生を変えてしまった。
6本の映画を完成させても、彼は自分が映画の世界に慣れたとは考えていない。特に映画の宣伝で、撮影の時何が面白かったかと記者に聞かれることが一番怖いと言う。「面白いことを書きたいのでしょうが、何を話したらいいかわかりません。映画の撮影はいろいろなことが常に動いていますから」と彼は言う。
以前、ある記者になぜ女性の役がよく表現できているのかと質問された。「私はあまり真面目に答えたくなかったので、自分は男で、男は当然女を愛するものだからと答えました」その後、自分の答えが如才ないことにハッとした。だが、要領がよくなったからこそ他人の立場になって考えられる。「要領のよさは一種の寛容です」
「創作を続けると、将来への不安に向き合わなければなりません。私は常に、これが最後の映画撮影だと考えています。これでどの映画の撮影のチャンスも大切にできるし、万が一本当にそれで映画が撮れなくなっても、あまりつらくないでしょう」去年最もうれしかったのは本を出したことで、映画以外に文学もあることを知った。あるいは数年後、他の映画監督に喝采を送る観客になっているかもしれないのだ。
若い時の放浪が、中年になって人へのやさしさ、ユーモア、鋭い感受性に変わっていった。映画が林正盛の人生をリセットしてくれたのだ。彼は毅然と過去に向かい合い、毅然と将来を迎えようとしている。