台湾紅茶の里
台湾の紅茶には輝かしい歴史がある。日本統治時代の1916年、日本政府が高雄の鳳山に設けた熱帯園芸試験所が、山の中で野生の茶の木を発見した。葉の大きさがアッサム茶に近いため、日本の製茶技師が簡単な機械で紅茶にしてみたところ、味も色も台湾北部の茶葉より優れていることがわかった。
1926年、日本人はインドから葉の大きなアッサムの純粋種を台湾に持ち込み、茶葉の専門家を派遣して、台湾各地の環境や土壌、気候などを調査した。そして、南投県の魚池、埔里、水里で試験栽培し、広めていったのである。
1930年になると、紅茶の主たる生産地であるインド、セイロン、ジャワなどが生産制限協定を結んで輸出量を制限したため、台湾紅茶に大きなチャンスがめぐってきた。紅茶の輸出量は一時329万キロに達し、ウーロン茶や包種茶と肩を並べた。この時期、魚池の紅茶は天皇の御用に供され、アメリカやイギリス、香港などにも大量に輸出された。
戦後、国民政府は魚池の紅茶産業を接収して台湾農林公司茶葉分社の経営下に置き、戦乱で荒れていた茶畑を積極的に整備した。1961年、台湾種アッサム茶の作付面積は1800ヘクタールに達し、そのうち南投県が1700ヘクタールを占めた。1980年代になると全台湾の茶畑は3万8000ヘクタールに達したが、アッサム茶の作付面積は増えなかった。政府が資源の多くを、国民が飲み慣れている半発酵のウーロン茶に注いだからである。
魚池分場製茶課の黄正宗課長によると、80年代以降に生まれた人の大部分は台湾紅茶を飲んだことがない。生産量が少なく、ほとんどが輸出されるからだ。当時、魚池や埔里の農家にとっては紅茶は主要な収入源で、ヨーロッパの競りでは等級分けしていない茶葉が1キロ1米ドル、作業員の日当2人分に相当する値で売れた。
その後、台湾経済がテイクオフして国民所得が上り、農村の労働力も都市へと流れていき、紅茶の生産量は減っていった。茶葉専門家もウーロン茶の改善に力を注ぎ、茶芸の流行などもあって、ウーロン茶が台湾茶の代表となったのである。
紅茶とウーロン茶の製造工程はほぼ同じだが、紅茶はウーロン茶と違って夏と秋の品質が良い。夏と秋は日差しが強くてカテキンの含有量が高まり、紅茶にすると濃い色と香りが出るからだ。
現在、台湾の紅茶畑の8割以上に大葉種が植えられているが、すでに樹齢が高過ぎるのが問題だ。新品種を植えれば、生産量も品質も高まると見られている。