台湾経済史の縮図
私たちは加工輸出区管理処の黄文谷‧元処長を訪ねた。8年と7ヶ月という任期が最も長かった処長である。「純粋におしゃべりをしましょう」と笑いながら話し始めたが、その内容は、まさに台湾経済の発展史そのものだった。
黄文谷は着任当時の加工輸出園区の情景を思い出す。当時は繊維や既製服、製靴など労働集約型の産業の多くはすでに海外に移転した後で、一部の工場はあまり使用されておらず、加工輸出区も設立から30年がたっていた。「当時は、少しずつ現代的な工場も建ち始めていましたが、全体的には古びていて、転出する企業と残る企業に別れ、まさに転換期を迎えていました」と言う。
企業が転出すると「根こそぎ抜かれる」ような状態だったと黄文谷は形容する。サプライチェーン全体が断たれ、従来のクラスター効果も瓦解し、一度はもうダメかと思ったそうだ。だが、見方を変えた。「根を抜かれるのも一つの契機です。大変ではありますが、転換を始められるのですから」と言う。
外国からの投資を引き入れて、新たな技術を導入するというのは、加工輸出区設立の第二の目的だった。その長年にわたる成果により、台湾の技術レベルは大幅に向上し、企業も自発的に技術力を向上させてきた。工場での生産も、自動化から情報化、デジタル化へと前進している。「これまでの20~30年、私たちは時間をかけて少しずつ立て直し、すでに形を成していましたが、まだ十分ではありませんでした。それが米中の貿易摩擦が発生したことで、転換のラストワンマイルが成功したのです」と黄文谷は言う。
米中貿易摩擦により、中国域内に進出していた台湾企業は再び対外移転を迫られることとなった。この時、台湾は適時に政策を打ち出し、多くの企業が再び台湾に戻ってくることになったのである。彼らは改めて台湾に投資し、サプライチェーンも再度構築された。「加工輸出区の変化と台湾経済の発展を照らし合わせると、時期的にほとんど一致しており、まさに台湾経済発展史と言えます」と黄文谷は言う。
台湾企業の中国からの回帰によって、工場やオフィスの需要が高まったが、高雄加工輸出区では、早くから前瞻創新ビルの建設に着手しており、2022年初に竣工した。呉大川は私たちを完成したばかりの工場に案内してくれた。瑞儀光電(Radiant Opto-Electronics)や凱鋭光電(JET OPTO)などの企業がすでに入居しているという。これらの企業の回帰の流れが、産業にイノベーションをもたらすこととなった。
黄文谷にとって、もう一つ特別な意味があるのは加工輸出区の名称変更である。「『加工輸出区』という名前は、ある意味で歴史的な栄光を表しますが、それはまた一つの負担でもありました」と言う。産業の転換とグレードアップにより、今では多くの工業団地が「科技産業園区」へと名称を変更している。「加工輸出区の名称は過去のものとなりましたが、その精神は受け継がれ、次の50年を歩んでいくことでしょう」と黄文谷は締めくくった。
労働集約型産業が中心だった当時、加工輸出区は高雄に多くの雇用をもたらした。下の写真は加工輸出区の出勤風景。