
歳末を迎える頃、各社ではクリスマスパーティや忘年会が次々に開催され、テーブルの間を表敬の乾杯が行き来する。グラスを交わす間に、ステージでは賑やかに余興の歌や踊り、また恒例のくじ引きが行われ、観客は社長に賞金の割増を叫んで場はさらに盛り上がる。
社員サービスの忘年会が盛んな季節は、新竹サイエンスパークの宴会課長と呼ばれる悍創運動行銷公司(ブロス・スポーツ・マーケティング)も忙しくなり、クリスマスパーティや忘年会15回を請け負っている。
イベント会社から身を起し、NBAやMLBの台湾シリーズを呼び込み、多くの記録を打ち立てた悍創の二人組は、学歴も背景もない中で、どうやって台湾最大のスポーツ・マーケティング会社を育てたのだろうか。
2010年3月のある週末の午後、天母野球場で台湾代表チームと決戦の時を迎えたのは、17年ぶりに台湾を訪れたメジャー・リーグのロサンゼルス・ドジャースである。伝説の名監督トーリ監督が率いて、年俸6億台湾ドルのスーパースターのラミレスに、台湾出身のピッチャー郭泓志、バッター胡金龍が凱旋するなど、話題は事欠かない。
1万人余りのファンの熱気の中、試合前に始まった雨は降ったりやんだりを繰り返し、スタッフがビニールシートを敷いたり巻いたりを繰り返し、2時間余り経ってから、主催者悍創公司の張運智董事長はやむなく中止を発表した。満場のファンは失望を抱えて帰宅し、10ヶ月余り準備に追われていたスタッフは、雨に祟られたゲーム中止に涙を隠せないが、それでも気を取り直して、チケットの払い戻しに応じていた。

張運智と胡瓏智は、平均年齢30歳の若い社員たちを率いてクリエイティブな事業を楽しんでいる。英語の社名を「Bros」としたのは、従来の企業の経営モデルを抜け出し、社員と兄弟姉妹のように交流したいと考えたからだ。
今回のドジャースの台湾シリーズ出場料は3ゲームで総額250万米ドル(8000万台湾元)といわれ、これに保険や随行者の費用を加えると、コストは1.3億台湾元に上る。ほかの2ゲームは開催できたが、雨で中止となったゲームの払い戻しや企業からのスポンサー料など、悍創公司は5000万元の損失を出した。
悍創公司にとっては初めての国際試合ではなく、2009年にはNBAを台湾に呼んでいる。
国際試合を主催するには、実務上の様々な事項を処理しなければならない。183センチと長身の張運智はスポーツマンに見られるが、繊細な一面を持つ。
NBAの台北でのゲームが終わり、後片付けを終えたスタッフが打ち上げ会場に向う中、張運智はがらんとしたスタジアムに一人、コンビニで買ったビールを片手に座り込んでいた。心の中には懐メロの小丑の歌詞「拍手が歓呼の中に響き、涙が笑顔に湧き出す」が浮かんでは消えた。子供のときの夢と、ゲーム主催の苦労がない交ぜになり、複雑な思いがこみ上げた。
悍創公司のこの日は、10年前にさかのぼる。中心人物張運智と胡瓏智は、新竹サイエンスパーク企業向けのイベント会社からスタートし、40歳前には新竹の宴会課長から、国際試合を主催できるスポーツマーケティング会社に成長した。
二人は同じく桃園県の軍人家庭に育ったが、割れ鐘のような声に魁偉な体つきで、草莽の志士といった趣の張運智はバスケットボール、小柄ですばしっこい胡瓏智は野球好きであった。大華工業専科学校の同級生で喧嘩仲間だったのが、スポーツ好きから仲良くなり、卒業し除隊後に二人で起業したのである。

景品の入った風船が上から降ってくる。誰が最高の賞をゲットするのか。2010年、碩聯(ペガトロン)社のクリスマスパーティのイベントはブロス・スポーツが企画した。
二人の起業はミニバンを改造し、中壢;市の夜市にホットドッグに高菜を加えた中華風ハンバーグの屋台を出したことに始まる。世に出たばかりの若者は原価計算もできず、しかも屋台取締りの警察に追われ、数週間ももたずに、赤字を出して終わった。
1999年、最初の起業に失敗した二人は、それぞれアディダスと中華プロ野球連盟に、マーケティング担当で就職した。ある日、張運智はナイキが新竹サイエンスパークで特売会を催し、5日で600万元を売り上げたと聞いた。ここにビジネスチャンスを嗅ぎ取り、胡瓏智と共に13万人が働くサイエンスパークで特売会を始めたのである。二人は夜はトラックで仕入に走り、昼間は特売会場で声を張り上げ買い気を煽った。子供用品から寝具、女性の下着まで何でも扱い、口コミで評判が広がった。利益率15%の特売会を年24回開き、2年で売上1億元に達した。
張運智は笑いながら、会社っぽく見せるため、またサイエンスパークのビジネスチャンスを探るため、パーク内のコーヒーショップを居抜きで引継いだ。ここを事務所代りにし、またここでサイエンスパークの福利委員会の幹部と知り合い、人脈を築いていったのである。

ロサンゼルス・ドジャースが17年ぶりに台湾にやってきた。写真は台北のゲームで先発したエリック・スタルツ。
2001年には、マイタック社が新しい事業のチャンスを与えてくれた。予算86万元のファミリーデーのイベントを依頼されたのである。そこでスポーツ関係者の人脈を生かし、野球の設備などを使い、誰でも楽しめるゲームを取り入れたイベントを開催した。これが評判となって依頼が相次ぎ、そこで悍創運動行銷公司を設立したのである。
設立当初、すでに数社のスポーツマーケティング会社が存在したが、イベント企画は屋台グルメやバスを借りて遊園地に連れて行くだけというもので、どこも似たり寄ったり、参加意欲をそそるものではなかった。
しかし、スポーツ好きの悍創二人組はアイディアで勝負し、新しい企画を打ち出した。親子向けにテレビ局の子供番組を遊園地に持ってきたり、台北第一女子高校の校長を説得し、通常は出演を断られる同校のマーチングバンドを、UMCの25周年イベントに呼ぶことに成功した。
イベント企画の中で、実験室に閉じこもるエンジニアたちは運動嫌いなため、イベントも楽しめて新しいアイディアでなければならないことを発見した。
張運智によると、売り物は健康的で楽しいの二つで、悍創公司ではないと面白くないと思われることが鍵であると言う。
イベント予算は数万から数百万まで差が大きいが、2004年には売上1.4億台湾元と、すばらしい実績を上げた。
今日まで、悍創公司が新竹サイエンスパーク企業向けに請け負ったイベント回数は400回を越え、400社余りの進出企業の9割近くがクライアントである。7年続けてフォックスコンの忘年会を企画し、エイサーやAUOのファミリーデーも毎年請負っており、ここから各社の社内フィットネスクラブ経営も行うようになった。
進出企業12社が悍創公司に年間3000万台湾元のクラブ管理費を支払っており、これで会社経営は安定してきた。クライアントにはフォックスコン、アプライドマテリアルなどがあり、サービス内容はクラブの企画、設備の管理からコーチの招聘などである。悍創公司はクライアントの要望に応じたサービスを提供できるので、フィットネスクラブチェーンとのコンペにも有利で、サイエンスパークの余暇生活の大半を悍創公司が握っているといっても過言ではないのである。

張運智(右)と胡瓏智は、ナイトマーケットの露店商から新竹サイエンスパークでの特売会へと進出し、ついにスポーツマーケティングで天下を取り、幼い頃の夢をかなえた。
名声が高まったが、イベント請負は参入障壁の低い市場で、今後競争者が増え価格競争に巻き込まれると二人は考えた。社員にとっても同じことの繰り返しでは、面白みが薄れていく。
そこで2006年から悍創公司は転換を図ることにし、組織を拡大し、より専門的なスポーツ・エンターティメントの道を目指すことにした。そこで国際試合、公演、ブランドイベント、クラブ運営、企業イベントを5大事業とし、国際試合の経験を積んで、悍創ブランドを確立しようと考えた。同時に、選手マネジメント部門を併設し、まずアメリカのマイナーリーグの林哲瑄;など若い野球選手と契約し、毎年350万台湾元の賛助金を提供することにした。こうして若い選手が心配なく野球に専念でき、次の王建民を育てたいと考えたのである。
国内の企業イベントであれ、国際試合であれ、最終目標はスポーツ・マーケティングにあり、台湾のスポーツ人口増加に寄与したいと考えている。この目標達成のため、悍創公司はこれからも大規模な国際試合を企画し、ファンの注目を集め、スポンサーを惹きつけ、スポーツ機運を盛り上げていこうとしている。こうして国際試合が世界に中継されれば、台湾の知名度も上がる。
この悍創公司の方針は、創業当初からであった。NBAを例にとると、台湾のバスケットファンと市場を考えたNBAは、1997年に台湾に事務所を置き、2001年にはナイキと共同でスター選手12人のエキシビジョン・マッチのアジアツアーを行った。悍創公司は台湾の開催権を取得したが、直前に911同時多発テロが勃発し、中止となった。
しかし、そこで諦めたわけではなく、2002年にNBAが台湾でチャリティーイベントを企画した時、25万米ドルで子供向けキャンプの開催権を買い取った。ゲーム人口も、スタジアムなどの設備も遠く日本に及ばず、中国市場が急成長する中で、これを疑問視する声もあったが、悍創公司は将来への投資と考えたのである。

張芸謀(チャン・イーモウ)演出の『トゥーランドット』は色彩が鮮やかでスケールの大きいオペラ作品だ。この台湾公演はブロス・スポーツにとって台湾海峡両岸の芸術界にまたがる初の試みとなった。
2008年にはピペン、ライス、ドレクスラーなどのドリームチームが台湾を訪れた。こうした活動から、NBAも悍創公司の決意を読み取り、相互信頼の基礎ができていった。2009年には、NBAから台北でのオープン戦開催が持ち込まれた。ナゲッツとペイサーズのチケットは数秒で売り切れ、台湾のファンは国際レベルの試合を目にすることができた。9ヶ月の準備期間中、悍創公司は毎週NBAと打ち合わせ、コートの床板までアメリカから運んだのであった。
NBAの経験ができると、その後の国際試合招聘は容易になったが、大規模なゲームとなるとコストもリスクも高い。これを成功させるには、企業、政府、観客の三位一体が必要である。スポンサー企業というと、台湾は自社ブランド確立が遅れたために、スポーツのスポンサーへの意欲は高くない。金融、通信やジャイアント、コカコーラなどの企業に限られる。
政府というと、外交的に孤立する台湾にとって、大規模な国際試合の開催は効果的な国際的宣伝になるはずである。しかしスポーツ選手が重視されず、自力で知名度を上げないと、政府からの支援は受けられない。政府のスポーツ担当部門には体育委員会、教育部体育司、中華オリンピック委員会があるが、責任分担が曖昧で統一方針がない。
韓国を見ると、2009年にドームスタジアム建設を計画して、2012年には竣工するというが、台湾では20年も必要性が言われながら、いまだに計画もないのである。

2009年の台北デフリンピックではブロス・スポーツが宣伝と協賛募集を担当し、NBAのスコッティ・ピッペンを広報・公益活動に招くことに成功した。
2010年には中国での知名度を高めようと、芸術にも足を踏み入れ、張芸謀演出のトゥーランドットの台湾公演を企画した。
オペラの舞台や装置は膨大だが台北には場所がない。台中の野球場に場所を移し、台湾のダンサーとオーケストラ350人が参加することになった。
中国側主催者は台湾側出演者のレベルを心配したが、最終的な公演の出来に張芸謀も、最高だったと絶賛した。しかし、チケットは8割が売れたものの、製作コストが高くスポンサーがつかなかったため、悍創公司は5000万近い赤字を出した。
資本金わずか5000万の悍創公司が、ドジャースのオープン戦とトゥーランドットで大赤字を出し、張運智は銀行や友人からの借金で乗り切った。
しかし、この二人はその価値を信じて疑わない。軍人家庭に育った二人は、いつかアメリカでNBAのゲームを見たいと思っていたが、何年か経て、直接NBAを台湾にもってくることが出来たのである。

ブロス・スポーツが招いたメジャーリーグのドジャース。スター選手のマニー・ラミレスと台湾出身の郭泓志がファンの注目を浴びた。
創業以来、一番忘れがたいシーンと言うと、2007年のNBAの公益イベントで、悍創公司は養護施設と心身障害の子供500人を招いた。その時、手にサインボールを抱えた子供の車椅子を押したお母さんが来て、張運智に涙を浮かべて繰り返しお礼を言うのであった。その様子を思い起こすと、先に進む勇気がわいてくる。
10年前の二人組から、現在は100人の社員を抱え、毎年の売上3億に迫る会社となり、体育系学生の憧れの会社である。
協力し合うパートナーとして二人は同じ夢を追うが、性格は反対である。豪快で情熱的な張運智は、ビジネスの嗅覚と影響力をもち、落ち着いた性格の胡瓏智は知恵袋で、内部管理に長けている。
2011年3月に台北で最初の開幕戦を戦うはずだった大リーグの試合は、契約の最終段階で、予定していたジャイアンツがワールドシリーズに勝ってしまったために、来られなくなった。
様々な雨風を乗り越えてきた二人は、へこたれることなく直ちに大リーグに2011年11月のオールスター戦の開催権を申し込んだ。「まだ起っていないことならチャンスはいくらでもあります。将来に向けてチャレンジしていかなければ、台湾最初の大リーグ開幕戦も決してやってはきません」と二人は語るのである。

ブロス・スポーツによる台湾初のNBAのオープン戦は2009年の一大イベントとなった。写真はデンバー・ナゲッツのカーメロ・アンソニー(左)と、インディアナ・ペーサーズのダニー・グレンジャーがリバウンドを奪い合うところ。