「九族」の登場
「先住民とはどんな人々か」という問いに対する答えは、すでに日本統治時代に客観的な基準が作られていた。言語、体質、宗教儀式、社会組織(例えば、プユマとアミは母系社会であり、年齢階級制がある。ルカイとパイワンは貴族社会であるなど)などを基準に分類した結果、台湾の先住民は「九族」に分けられた。この分類は、先住民の自己認識に大きな影響を与えることとなった。つまり、自分たちの集落の範囲を越えた、より大きなエスニックグループとしての認識が初めて芽生えたのである。例えば、私の母は中年になってもなお、自分が九族の一つであるプユマに属するという事実を受け入れられず、自分はピナセキ(現在の賓朗村の人々を指す)だと感じていたが、このように古くは、集落を超えたより大きな単位に自分が属するという意識はまれだったのである。また当時、日本人は先住民全体を「高砂族」と総称しており、これによって、自分たちは大きなまとまりとしての先住民なのだという意識も生まれ、そこで初めて、部族同士の相違を意識するようになったのである。
1930年代に始まる皇民化政策によって、今度は先住民に初めて国家という意識が生まれる。これはその後、太平洋戦争で先住民が天皇のために勇ましく戦うという行為につながっていく。残念なことに、日本人によって台湾の住民は上中下の三階層に分けられ、先住民はそのうち最下層に属していたため、自らが先住民だと意識することは、屈辱的なことだったのである。
戦後、台湾にやってきた国民政府は、先住民を「同胞化」する政策を採った。誰もが同じというのはよかったが、文化的差異を軽視するという欠点があった。なかでも影響の大きかったのは、先住民の氏名をすべて漢化したことである。日本時代にも同様の政策はあったが、徹底されたわけではなく、二種類の名前を併用することが許されていた。先住民の命名法には、彼らの宇宙観や価値体系が含まれている。氏名の漢化は、先住民文化を著しく損なうことになった。
例えば、蘭嶼島に住む人々は、本来なら一生の間に名前を3度変更する。蘭嶼島在住の作家、シャマン・ラポガンは、結婚前はシ・ヌライという名前だった。「シ」というのは、未婚であることを指し、結婚して子供が生まれると、父親であることを表す「シャマン」に変る。それに子供の名前である「ラポガン」をつけて、「シャマン・ラポガン」という名前になったのである。もし孫ができると、祖父であることを表す「シャプン」をつけて「シャプン・ラポガン」になる。息子が亡くなって以前の名前に戻ることは恥とされており、彼らが継嗣をいかに大切にしているかがわかる。父系の姓を中心とした漢人の習慣では、氏名を変えないことが大切とされるのと同じで、その名前がなくなってしまえば、姓名制度自身が瓦解してしまう。
「正名運動」
1980年代になり「本土化」の時代が到来すると、「先住民とはどんな人々か」という問題は、初めて先住民自身によって語られるようになった。この時代になると、中国語教育をきちんと受けて自由に文字を操ることのできる若い世代の先住民が登場し、「原住民権利促進会(原権会)」が設立され、「正しい名前を名乗ろう」「名前を返せ」「母語を返せ」「土地を返せ」といった運動が繰り広げられていった。
とりわけ「正名運動」において、原権会は1984年に「山地同胞」を「原住民」に改めることを提議した(「山地人」という名称が不適当というわけではなかったが、一つには山地に住む人々ばかりではないこと、もう一つには、「山地人」という呼称にはすでにマイナスイメージがまとわりついてしまっていた)。だが、当局や学術界の反対に遭い、幾多の曲折を経た後、1994年にやっと同法案は可決される。
先住民の主体意識がこれほどまでに盛り上がりを見せた今、これからはどのような方向に進むべきだろう。
私自身は、自らが先住民であると名乗るのを恥じる時代に育った。思い出すのは、台湾大学の卒業式だ。同級生の家族がみな卒業式に参加する中で、一人のタイヤルの同級生は家族を呼ぶことができなかった。本来なら家族の栄誉であるはずの卒業式にそれができなかったのは、彼女の家族の顔に先住民とわかる入れ墨があるからだった。
私より上の世代は、長い屈辱の時代を過ごした。老人たちが遠出をするために駅で切符を買う時のおどおどしたまなざしは、見る者の胸をつく。彼らはテレビを見ても、そこには理解できない言葉が流れているだけなのである。まるでこの世界は、彼らの存在と何ら関りがないかのように。
では、私より下の世代はどうだろう。1990年代になり、自分が先住民であることを堂々と名乗るようになってきたとはいえ、ではいった先住民とは何なのかと問われれば答えられず、文化を喪失した空洞の心を抱えているだけである。これが、現在先住民が直面している大きな問題である。
90年代にやっと憲法に
1990年代から現在にいたるまで、先住民運動はさまざまな議論を経て、すでにいくつかの新たな構想が生まれている。それらは、先住民が今後発展していくべき方向だと言えるだろう。その一つが、先住民に関する法的制度である。かつて先住民に関する法令は、行政命令だけに限られており、全国に40万人いる先住民については、省政府民政庁第四科が管轄していた。1991年の憲法改正によって、憲法に先住民の存在が記載され、ついに先住民の土地や経済、教育などについての権利や利益が、法的依拠を持つようになったのである。
1996年には、行政院に「原住民委員会」が、また台北、高雄両市にも「原住民事務委員会」が設けられ、個別の予算が編成されるようになった。その後数年間で、先住民教育法、身分法、姓氏条例、労働権保障法なども相次いで成立した。これら法制度による保障があってこそ、先住民問題は将来にわたって検討され続けることが可能だと言える。
発展するべき方向の二つ目は、先住民文化である。それは非常に広い範囲を含む。まず、先住民文学を確立することだ。現在、台湾には30名余りの先住民文学創作者がおり、すでに出版物は100冊以上に上っている。また、今年は「原住民文学選集」全四巻の出版が予定されており、大学でも先住民文学のコースを設けるところが出てきた。文学は多くの内容を表すことができる。人と宇宙、自然とのふれあいなど、文学によって自分たちを語ることができるのである。したがって先住民文学は、学術論文に劣らない重要性を持つと言えよう。
また、彫刻や刺繍、瑠璃工芸などの創作においても、先住民は大きな潜在力を秘めている。市場としてはまだ安定していないものの、今後、ポスト工業時代に突入した台湾が、レジャー産業を発展させ、生活の質や居住環境を高めようとする際に、先住民文化は新たな方向性を提供することができるだろう。
先住民音楽にも、その力強さや感化力によって、まだまだ発展の余地が残されている。映像分野でも、ここ数年、アミ・フィルム上映会や、公共テレビによるジャーナリスト養成などが大きな成果をあげ、異なった角度から台湾を理解できるような場を提供している。
これら先住民文化の発展は、今はまだ安定した足取りとは言えないながらも、強いパワーを感じさせる。
三つ目は、学術分野の発展である。この10年で、先住民研究は人類学の範疇を越え、さまざまな領域へと発展した。すでに何千編という学術論文が著されており、「原住民学」は学術的基礎を確立したと言える。東華大学には「原住民民族学部」が設立され、現在2学科2研究所からなるが、今後更に2学科と博士課程を増設する予定である。20数ヘクタールある学部キャンパスから、1年間に300名、10年で3000名に及ぶ先住民学専門家たちを送り出せることになる。彼らはまさに、将来の希望を担う若者たちだと言えよう。
地域に根ざす
四つ目は社会経済の発展であるが、これは最も脆弱な分野だと言えよう。
先日、ある友人がドイツ留学から台湾に帰国し、感慨深げにこうもらした。近年、台湾の先住民運動はかつてない盛り上がりを見せている。だが、彼が7〜8年前にフィールドワークのために先住民集落へ戻った際に目にしたのは、あいかわらず人影のまばらな集落に暮らす孤独な老人たちであり、学校を中途退学した青少年であった。「この落差に気づかないのかい?」と彼は訴える。
実は私もまったく同じことを感じていた。先住民集落の復興には、全体的な村おこしが必要で、そのためには多くの問題が解決されなければならない。政府や研究者はそれに協力することはできるが、最後にはやはり先住民自身の強い意識がなければ実現できないのである。そのうえ、資金や資源の運用も順調にいっていない。先住民には経済力がまだ不足しており、多くは融資を受けて事業を起こす。だが、うまく運用できずに、かえって巨大な債務を抱え込むことになってしまうのである。経済問題は、先住民が立ち向かわなければならない最も困難な課題であろう。
今回の講座は、台湾史への反省から始め、「先住民とはどんな人々か」という疑問を遡り、そのうえで、先住民の意識――迷いや矛盾、悲しみといったものを紹介させていただいた。これら先住民の世界を深く理解すればするほど、さらに細かく、そして「人」としての視点から先住民問題を見つめることができるのである。先住民問題は言いかえれば、台湾文化の優良性を示す試金石であり、また、先住民問題をいかに解決していくかで、台湾社会の文化的レベルが推し量られるのだと言えるだろう。