生まれ変わるための十年
1995年、学校の発表会の準備をしている時、生徒の父兄から、台北社教館の舞台が空いているから、そこを使わないかという提案があった。
それまで、彼らの演技は10分ほどのプログラムしかなかったが、社教館は照明や背景などがある本格的なステージだ。彼らは初めて本格的な舞台で「薪伝舞鈴」を披露し、大好評を博した。
2002年にはニューヨークのリンカーンセンターのフェスティバルに招かれた。それまで単に「引率の先生」だった劉楽群は、初めて作曲家の陳掲や衣装デザイナーの林璟如ら、プロの演劇関係者と共同作業をすることとなった。林璟如がデザインした衣装を着ると、メンバーの姿もファッショナブルに変身した。
2005年には日本の愛知万博に招かれ、台湾を代表してしばしば世界の舞台に立っている雲門舞集や優劇場などと一緒のステージに上ることになり、大きなプレッシャーを感じた。雲門舞集を率いる林懐民は、世界的なパフォーマンスグループの映像を提供してくれ、ゆっくりしたリズムの音楽を合わせることも可能だとアドバイスしれくれた。
最初は大きなプレッシャーを感じて息がつまりそうだったが、一度ふっきれると、自在に力を発揮できるようになった。
その時に制作した「嬉遊舞鈴」ではシューベルトのピアノ五重奏「鱒」や馬水龍の「梆笛協奏曲」など今までとは違うタイプ音楽を取り入れ、絵巻物のように四季の変化を表現した。
林懐民は、舞鈴は「真剣に取り組んで静かに能力を蓄積する、台湾の大河の舞」だと称賛する。
劉楽群は愛知万博の前から舞鈴の将来を考えていた。幼い頃から参加しているメンバーは就職の選択を迫られており、舞鈴が働く場になるかどうかが課題だった。2004年、劉楽群は教職を辞し、十数年率いてきた「舞鈴少年」を「舞鈴劇場」に変えた。
「困難な道でも懸命に進んでいけば、不可能なことなどありません」と言う。
舞鈴劇場の名作「海洋之心」。ダンサーは美しい姿でディアボロを操り、海を表現する。