1989年7月、大陸で「六四天安門事件」が発生して間もなく、「光華」はカバーストーリーで天安門事件を特集し、鎮圧という中国共産党の暴行を非難した。翌年、「光華」の取材班は再び天安門を訪れたが、まるで何事もなかったかのような静謐に触れ、「六月祭」という記事でその悲しみを伝えた。
見知らぬ故郷
1993年、政府は一歩進んで退役兵の里帰りと大陸での定住を解禁したところ、2000人余りの退役兵がこれを申請し、夢にまで見た故郷へと帰っていった。しかし、思い焦がれた郷里を離れて40年、そこはすでに見知らぬ地と化していた。まだ家族が住んでいたとしても、すでに遠い存在となっていたのである。
1995年、「光華」は「最も長い帰郷への道」をテーマに、最も多くの退役兵が定住するために帰郷した浙江省の舟山で、密着取材した。
「かつての新婚の妻と、もう一度にぎやかに結婚式を挙げなおす人もいれば、当時の妻の新しい家庭の邪魔にならぬよう、黙って去っていく人もいる。かつての妻を何としても取り戻そうと、裁判所に訴え出る人もいれば、腹を立てて自分から三下り半を突きつける人もいる」……。時代に翻弄された人々の悲劇には胸が痛み、読むうちに涙が込み上げてくる。
1997年、香港が返還され、返還に当たって「光華」は2度にわたってこの問題を取り上げた。「競走馬は走り続け、ダンスも続く」、つまり返還後も何も変わりはないと言われたが、植民地時代に別れを告げる香港の人々の想いは非常に複雑で、うまく言葉で説明できるものではなかった。ただ、確かに言えるのは、この時期から香港人が真面目に普通話(標準中国語)を学び始めたということである
その後、台湾と中国大陸の経済面での往来はますます盛んになり、多くの企業が大陸沿岸地域に深く根を下ろしていった。
そして2000年、台湾企業が最も集中する広東省の東莞が、深圳と上海に次ぐ輸出額と外貨収入を上げ、さらには「深圳を追い越し、上海に迫る」勢いを見せる。そして、わずか2年で東莞に大陸初の台湾人学校が設立された。
経済が先行し、文化が後を追う
企業の後を追って、台湾の文化人もようやく中国大陸に「上陸」し始める。「光華」2002年の記事は「台湾文化が中国大陸を席巻する」をテーマに、流行音楽から出版、パフォーマンスアートまで、台湾文化が大陸に大挙して上陸し始めたことを報じている。
台湾の「食」も忘れることはできない。2003年の記事では「大陸を魅了する台湾のグルメ」というテーマで、永和豆乳やパールミルクティ、牛肉麺、小龍包などの台湾の庶民の味を紹介し、これらが大陸の人々の舌と胃袋をつかんだことが報じられている。
台湾人ビジネスマンは適応力があり、大陸の衣食住などの不便な環境にもたくましく適応している。しかし、その中でも医療だけは別である。ある台湾人ビジネスマンは「小さい病気は自分で治し、大きい病気なら台湾へ戻る。本当にどうしようもない時だけ大陸の病院へ行く」と語っているのである。
2005年、「光華」は「上海台湾企業の医療事情」をテーマとし、大陸で台湾人が医者に診てもらうことがいかに難しいかを報じた。それとともに、医療産業の大陸進出というビジネスチャンスを浮き彫りにした。
台湾企業が続々と大陸に進出し、大陸に暮らす台湾人もますます増え、赴任する夫とともに子供を連れて大陸に移り住む女性も増えた。その一方で、単身で大陸に乗り込む女性も増えていった。2007年、「光華」は「台湾女性の上海ドリーム」をテーマに、この新しい現象を扱い、上海で活躍する台湾人女性を紹介した。
2008年の「光華」の記事では、台湾人ビジネスマンの子供の教育をテーマに「台北-上海――中国大陸で学校に通う台湾人子女」と題し、台湾人ビジネスマンの子供たちが、台湾人学校やインターナショナルスクール、そして現地の学校などを転々とする問題を指摘した。
大陸へ進出するのは労働集約型産業だけではない。茶葉や生花、果物などの農業も次々と対岸の広大な大地に進出し、大きな成果を上げてきた。しかし、好況はいつまでも続くものではない。海南島では、レジャー観光産業への方向転換に伴い、台湾から進出した果物農家は土地を返還しなければならなくなる。
2012年、「光華」は取材のために海南島を訪れた。その当時の記事「失われるパラダイス―海南島の台湾人果物農家の苦境」「黄金の養殖池――観賞魚産業崩壊の危機」などは、海南島に進出した果物農家や観賞魚業者の言葉を、ありのままに伝えている。
台湾海峡両岸を行き来する間には、衝突もあれば交流もある。互いに弱点を補い合えることもあれば、どちらかが勝ち、どちらかが負けることもある。そうした中で「光華」は常に実地に取材し、どんな時も真実を伝えてきたのである。
1997年、香港が返還されたが、香港の人々は暮らしが変わらないことを望んでいた。
当初、大陸へは単身で赴任する人が多かったが、しだいに家族そろって移り住む人が増え、子女の教育が重要な課題になった。
(下)台湾のクリエイティブ産業も上陸を果たした。写真は上海で美しく輝く琉璃工房。