
日本の建築家・中村好文の著書『住宅読本』には、理想の住宅の鍵は「居心地」だとある。豪邸でなくても、心身共にくつろげ、安心して落ちつける場が「家」なのだ。
「居心地の良さ」とはどういうものか、人によってイメージは違うだろう。だが、都市部の住宅価格が高騰する中、マイホームを持たない庶民にはどのような道があるのだろうか。
最近は、建築を学んだことのない人が、自分や家族や仲間のために、あるいは自然に親しむために、都市周辺の山地や田園に自力で家を建てている。彼らは家を手作りすることによって、新しい人生をも手に入れている。
東海大学景観学科卒業、以前は「居家雑誌」で働いていた作家の林黛羚は、台湾各地をくまなく歩き、手作りの家を建てる人々の物語を記録してきた。2007年に『蓋自己的房子(自分の家を建てる)』を出版して以来、手作りの家を建てた人を取材し続けており、その人数は200人に達する。4冊の著書はどれもよく売れ、ひとつのブームを巻き起こしている。

レストラン「伍角船板」台北店。「ダンスをする女」をテーマとした建物は、素人建築家・謝麗香の実験的作品だ。
「誰もが生まれながらにして家を建てる能力を持っています」と林黛羚は言う。彼女は特に手作り感のある、環境に優しい、実験精神にあふれた安上がりな家が気に入っている。そうした家の背後には、それぞれユニークな物語がある。
例えば、花蓮の湖畔には「蘇湖」と名付けられた家がある。家主夫婦が映画「ハウルの動く城」に憧れる娘のために建てた家だ。驚いたことに地面には軌道が敷いてあり、重さ1トンに耐える鉄の車輪6個の上に家が載っていて、家が移動できるのである。従来の思考の枠を超えた愛の贈り物だ。
プロの建築家に依頼すると1000万近い建築費がかかるものだが、これら素人の手によるユニークな家の建設コストは多くの場合200〜500万にとどまる。台東県太麻里にある、中古コンテナと古い木材や鉄材を使った20数坪の家は3万元で完成した。資金がなくても、居心地の良い家は建てられる。
こうした物語は台湾各地で生まれている。台湾大学都市地方研究所の劉可強教授は、人と家との関係という面から「人類の住宅史は自力で家を建ててきた歴史です」と言う。

遠い昔、人間は身近にある自然の資源――木の枝や茅や石などを使って雨風を避ける家を建てていた。農村社会の「家屋」の定義は単純で「屋」は「家」を意味する。小さいものはひとつの家族を、大きいものは親族一同を意味する。ともに住む者は緊密な関係で結びつき、家族の若い世代が大人になれば、みんなで協力して新しい家を建て、独立させる。
産業革命の後、機械化による大量生産が始まると、工場労働者として農村人口が大量に移動するようになり、従来の家族や郷土を離れて巨大で人間関係の希薄な都市に集中し始めた。
その後、建築技術の進歩により、高層の集合住宅が建てられるようになり、各地から移住してきた人々が一つ屋根の下で暮らすようになる。毎日同じ門を出入りしながら、互いに交流はないという生活が始まったのである。自分の土地に自分で建てるという、家族の象徴であった家屋は、この頃から専門家が施工し、売買し合うアパートやマンションへと変った。こうして「家屋」が消失し始めたのはわずか百年前のことだ。
そして今、工業時代の思考は過去のものとなり、創意や手作り、ロハスやスローライフ、エコがもてはやされるようになってきた。仕事や生活に対する考え方も変化し、一つの仕事に人生を縛りつけられるのを好まなくなり、みんなと同じ、コンクリートの部屋にも住みたくないと思うようになった。
こうして多くの人が自分らしい家を持つことを望み始めた。それは自分の個性や創意を活かすためだったり、古き良き大家族の温もりを取り戻すためだったり、あるいは仲間と一緒に楽しむため、あるいは大自然に親しむためなど、さまざまな機能を持つ家屋の意義が見直されるようになった。

自分の手で家を建てれば、その労働を通して土地と空間と心がつながりを持ち、地に足のついた充実感が得られる。写真は「阿不」黄鵬錡が林口で家を建てている様子。
屏東県佳冬の「おばあさんを懐かしむ家」を見てみよう。三世代、90年を超える侯家では、祝祭日には30人近い家族が各地から戻ってきて一家団欒の時を過ごすが、古い家にそれだけの人数が入りきれないので困っていた。そこで、伯父と甥の2人が手探りで学びながら古い家の横に建て増しを開始した。家族の思い出がつまったマンゴーの木を保存するために、新築部分はL字型に木を避けるように設計し、今は家族が心を通わせる空間となっている。
創意豊かな人にとっては、家屋は自分の思考の延長でもある。2004年に『女農討山誌』を発表した阿宝(李宝蓮)は、梨山に広大な果樹園を経営し、家も自分で建てた。まったく建築の経験はなかったが、自分で図面を描き、建材(竹山名産の孟宗竹)を買い、実際に施工するまで、まったく人の手を借りなかった。その理由は、150年前に『森の生活』を書いたヘンリー・ソローのそれと同じだ。家を建てるというのは人生で最も楽しい遊びなのだから、それを他人に邪魔されたくない、というものである。
もう一人、台湾の女ガウディと呼ばれる謝麗香は27歳の時に失意の中で故郷に帰り、祖先が残した小さな土地に自分の手で小さなレンガの家を建てた。以来、家づくりに魅了され、黒レンガや流木、岩板などを用い、陶器やガラスの破片、草花などで模様をつけていった。謝麗香の家はしだいに不思議な魅力を放つようになり、彼女は建物を建てるためにレストラン「伍角船板」を4店開き、その建物は台湾の奇観の一つとなっている。
田園の夢と自然素材の家自分で家を建てるブームのもう一つの方向は、大自然との触れ合いだ。これは、退職年齢を迎えたベビーブーマーの集団の「田園の夢」でもある。
日本の建築家・伊東豊雄はこう述べている。――20世紀の建築は自然から離れた、機械のように独立した機能体として存在したが、21世紀、人と建築は自然環境との連続性を求める。省エネでエコ、社会との調和を持たなければならない。
実際、長い歴史において建築は人と自然が共存するための知恵の結晶であり、その形式は現地の環境や気候、地形や社会などと密接に結びついていた。
例えば、寒冷の北欧では冬の積雪の重さや雪下ろしの困難を考慮した斜め屋根、虫や蛇の出る東南アジアは高床式、海風の吹きつける台湾の離島・蘭嶼では冬は暖かく夏は涼しい半地下式の住居が建てられてきた。福建では盗賊から住民を守るため、ドーナッツ状の集合住宅「土楼」が建てられた。
近年は、自然への回帰、環境への配慮が生活の新しい指標となり、エコ、省エネ、廃棄物減量、健康を重んじるグリーン建築が世界の流れとなっている。中でも自然から得られる石、土、木、竹などの素材を使うことが、昨今の主流だ。
例えば台東にある土造りの家「阿牛村」では、壁には家の基礎のために掘り出した土を使っている。土と水を混ぜ、砂と藁を加えて手でこねて団子にし、固く押しつぶして壁にする。
「阿牛村」を設計した林雅茵は、現在台湾では唯一、ナチュラル・ビルディング(自然素材の家)を専攻した建築家だ。その話によると、ナチュラル・ビルディングは1950年代のアメリカで始まった。当時、工業発展の追求とそれに続くエネルギー危機が人々に反省を促し、「自然への回帰」という運動が起り、ヒッピームーブメントが起きたのである。
しかし林雅茵は「ナチュラル・ビルディングは、すでに心の中に種を持っている人のためのものです」と言う。その精神の核心は建築物にあるのではなく、自然への回帰へと人々を導く点にある。毎日汗を流して働き、大地や空間への思いを培い、そこに充実した満足感を見出す。それは労働を中心としたシンプルな生活だ。
動機はどうあれ、多くの人が手作りの家を建てる夢を追っている。土地を探し、自分で設計して施工する(あるいは職人に依頼する)が、順調に進むとは限らない。
手作りの家の取材を続ける林黛羚によると、ほとんどの人が家造りにおいて困難に直面すると言う。職人の手抜きや建設会社の資金持ち逃げ、鉄筋価格の高騰など、思いがけない事態が発生する可能性は常にある。手作りの家を建てたいと思う人は、自分の夢を描くだけでなく、建材の選び方や発注方法、現場での監督の仕方、完成後の維持の方法など、さまざまなことを学ばなければならないのである。さらに、近所付き合いや泥棒などの問題もある。そのため林黛羚は、自分の決意と実力をよく考え、決して無闇に始めるべきではないと言う。
理想郷の実現と幻滅では、手作りの家が完成した後の生活はどうだろう。
作家の施寄青は2002年に建国中学の教員と女性運動をリタイアした後、苗栗県南庄に移住したが、著書『嬈;嬌美麗是阮的山』の中で「現代の陶淵明」になるのは容易ではない、と嘆いている。田舎の雑草は伸びるのが早く、4000坪の土地の3000株のツツジは雑草に覆い尽くされてしまい、涙も出ない。だが、大変な思いをして雑草と格闘しつつも「蛙の声の中で眠り、鳥の声の中で目覚める」生活はやめられないと言う。
手作りの家を持ちたいという人は、これらの全てと相対し、最後に再び自分にとって「家」とは何か、という問いかけに戻るのである。
「心」が求めるものを知ってこそ、本当の「居心地」の良さを得られるのである。