蚵寮漁村

人情と結束力が町を変える
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2018 / 6月

文・蘇俐穎 写真・林格立 翻訳・山口 雪菜


高雄市梓官の蚵仔寮は、台湾西海岸のごく普通の小さな町と変わらないように見えるが、2012年から始めたインディーズ音楽祭「٣H寮漁村スモールロック」で大きく注目されるようになった。音楽祭には1万人が来場し、蔡英文総統や高雄市の陳菊市長も訪れたほどだ。2015年にはイベントの一時中止を発表したが、週末になると、海辺の観光魚市は今も多くの家族連れでにぎわう。


「三歩行けば小さな廟、五歩行けば大きな廟がある」と言われる蚵仔寮だが、特に景勝地があるわけでもなく、普段はわずかにお年寄りが行き交い、たまに子供の声が聞こえる程度の小さな漁村である。だが、魚市場の横に設けられた梓官漁業組合の店舗に行くと、この町が他とは一味違うことに気付かされる。

子供の手形や足形を押した「ボラの子」の彫像があり、かつて「海宴水産精品賞」を受賞した1万元近い「最高級天然カラスミ」ギフト、六角形の魚籠やボラの形を活かし、ドイツのレッド・ドット・デザイン賞やiFデザイン賞を受賞したギフトセットなど、蚵仔寮でしか手に入らないユニークな商品が並んでいる。

ボラ黄金時代の苦楽

蚵仔寮の「蚵(牡蠣)」の名は、日本統治時代に住民が典宝渓の河口で牡蠣の養殖をしていたことからつけられた。だが、蚵仔寮が最も栄えたのは1980年の頃だ。毎年11月から翌2月にかけて、大陸の揚子江河口から大量のボラが南下してきて台南西南沿岸で産卵するため、漁師たちはこれを捕って豊かな収入を得ていた。

ボラは高く売れる。雌雄にかかわらず1尾300元以上の値がつき、大漁なら一度の漁で100万元の収入になったものだ。この黄金時代にさまざまな独自の漁村文化が生まれた。ボラ漁の繁忙期には、家々がボラ入りビーフンを作り、カラスミを干していた。梓官区漁業組合マーケティング部の黄志雄主任は、「添載」の風習を教えてくれた。これは、地域住民が多くの漁師の中から一軒の漁師を選んで米や飲料、爆竹などを贈り、その漁師が豊漁だったら、ボラを何尾か分けてもらうという習わしだ。

同じく地元出身で雑誌「透南風」編集長の余嘉栄は、幼い頃に父親と一緒に漁に出たことを思い出す。豊漁で帰航する時、船長は慣例に従って漁獲の10分の1を船員に分けてくれた。子供だった彼は、両親を手伝ってボラを近所に配って回ったという。受け取った人は、代わりに他の料理を分けてくれ、子供には飴玉やお小遣いをくれた。

漁師という仕事は、実入りはいいが、危険も多い。特に科学技術の発達していなかった時代、漁に出ている一週間は、まったく通信もできなかった。遭難してもヘリコプターが捜索に来てくれることなどなかったのである。

漁村のロックフェスが人気に

一時期大きな話題になった蚵仔寮のロックフェスは、実は地元住民が自発的に行なった地域のイベントだった。政府や企業の援助は求めず、民間だけで資金を集めた。この営利を目的としないインディーズのフェスティバルは、開催停止から何年にもなるが、今も語り草になっている。

特に、文化的、教育的意義が大きかった第2回のフェスティバルは印象深かった。ギターの維尼、ドラムの宗翰、ベースの薑薑の3人から成る「拍謝少年」は連続3回出演した。宗翰によると、主催者は廃棄された漁船をステージにし、砂浜にはテントを張って「蚵板印象」という文化館を建て、蚵仔寮の古い写真や、漁師で素人画家の尤辰允の作品などが展示してあった。来場者はステージを楽しみつつ、地域に触れて蚵仔寮とつながりを持つことができる。「住民の想像力が豊かだからこそ、他とは違うイベントになったのでしょう」と宗翰は言う。

ステージに蚵寮小学校・中学校の生徒が登場するのも、このフェスティバルの特徴だ。合唱団や獅子舞の他、第2回のフェスティバルでは、イベントがクライマックスを迎える2日目の夜に、専門の教員の指導の下、蚵仔寮をテーマとした芝居を上演したのである。

これは、フェスティバルのドキュメンタリーフィルムを撮影しに来ていた施合峰監督の心を揺さぶった。「私は雲林県斗六の出身ですが、同じように地方出身の多くの若者は、都会へ進学してからは自分の故郷に自信が持てません。台湾の教育においても、進学が優先され、郷土教育が行なわれていないのです。この芝居は、子供たちに舞台に立って自分の故郷の素晴らしさを表現する機会を与えたのです」と言う。

感動した彼は、これらを自分の作品に取り入れ、2014年に、まずロックフェスティバルをメインにした『蚵子寮漁村紀事』を、翌年はステージに立った中学生と指導した陳惠萍を中心に『離岸堤』を発表した。

人情と結束で生まれる地域のパワー

取材に訪れた日の午後、蚵仔寮で建設業に携わる蔡登財と漁網を扱う郭進順、そして漁網や鉄材、自動車保険などの商売をする何人かが、魚市場付近の海鮮料理店で食事をしていた。その中の蔡登財と郭進順がロックフェスを実現した仕掛け人だった。

薑薑は彼らを「パーティがしたくてたまらないオジサンたち」と形容する。何かにつけて集まっては海鮮料理と酒、そしてカラオケで盛り上がる。これが彼らの日常である。その蔡登財の話で、ようやく事情が分かってきた。もともと漁業というのは危険な仕事で、「命は拾ってきたようなもの」と蔡は言う。漁師たちは稼いだ金を後のために蓄えることを知らず、漁から帰ってくれば、手にした金を酒や博打に使ってしまい、刹那的な享楽にふけっていた。酒を飲んでは盛り上がる、というのが漁村の男たちに代々受け継がれてきた生活なのである。

こうして豪快で楽観的な性格が育まれ、そこから故郷への深い思いと結束力を培ってきたのである。郭進順によると、蚵仔寮では昔から貧しい地域の子供たちに手作りの勉強机を贈ってきた。毎年、地域住民が資金を出し合い、勉強机を手作りしてきたのだという。

2011年、勉強机のために集めた資金が手元に残ったため、それを使って何かしようということになった。墾丁のロックフェスのように、歌手を招いてコンサートを開き、ビールと焼き肉で盛り上がってはどうかという話になった。漁村の実家で民宿を経営する若い曾芷玲がこれを聞きつけた。台湾のインディーズ音楽に関心を注いできた彼女は、それならやってみようと蔡登財と約束し、ロックフェスの開催が決まったのである。

海へ出る仕事が危険だからこそ、漁師たちは心の拠り所を必要としており、地域には廟が林立している。普段は廟の事務を管理している蔡登財は「フェスティバルも、廟の祭りのつもりで実行したんです」と語る。

そこで蔡登財と郭進順が資金集めと広報を担当した。出資を頼むのは、いつも一緒に酒を飲んでいる村の人々である。曾芷玲はバンドへの出演依頼と実行を担当、海青商業工業高校を退職した元教員の李賢郎が事務関係を担当し、行政部門に会場使用を申請した。余嘉栄は文化関係の企画を担当する。フェスティバル開催前後には地域のボランティアと蚵寮小中学校の父母会がゴミ拾いや会場整理を行なう。

こうして村民総動員で「蚵寮漁村スモールロック」フェスティバルが開催され、謝銘祐、林生祥、巴奈、拍謝少年、農村武装青年といった名の知れたバンドや歌手が出演し、大成功を収めて高い評価を得たのである。

これからも続く漁村の物語

ロックフェスティバルをきっかけに、静かだった漁村が動き始めた。

都会から蚵仔寮にUターンして10年になる余嘉栄は、それまで村は静かだと感じていた。それがフェイスブックでロックフェス開催を知って驚き、すぐにボランティアに名乗りを上げた。民宿を経営する曾芷玲は、伝統の三合院家屋の屋根の修復で蔡登財と知り合い、これが縁でフェスティバルの重要な担い手となった。施合峰は写真撮影に来たことをきっかけにスタッフに加わった。出演しに来たアーティストたちも、威勢のいいオジサンたちに取り込まれてしまった。

フェスティバルは3回を重ね、知名度も上がったのだが、来場者が多いために交通や騒音などの問題が起きた。またフェスティバルの初心をいかに貫きつつ内容を充実させるかなど、さまざまな課題が生じ、2015年にフェスティバルを一時中止することに決めた。「いつかまたやりますよ」と郭進順は言う。

フェスティバルは中止となったが、漁村の物語は今も続いている。ステージに立った生徒の中には、これをきっかけに中華芸術学校に進学した者もあり、夏休みには自発的に「蚵仔寮青年工作隊」を結成し、クラスメイトを故郷に連れてくる子供もいる。施合峰は、蚵仔寮住民の故郷への深い思いに触れ、自分も故郷の斗六に帰ろうかと考えるようになった。

風土の中から自然に発生した蚵仔寮のフェスティバルは、台南安平の「南吼音楽フェスティバル」、台南左鎮の「故郷是我的愛人」コンサート、彰化の「叫春小揺滾」といった地方の音楽フェスティバル誕生のきっかけとなり、蚵仔寮のオジサンたちも応援に駆け付ける。

最近、蔡登財は蚵仔寮の海辺に「意満漁」というレストランを開き、曾芷玲が店長を務めている。店では時々アーティストを招いてコンサートを開いたり、時事問題に関する講座を開くなど、多様な文化が交わるプラットフォームとなっている。余嘉栄は、そのレストランから遠からぬところに何軒か閩南式の古い民家を借り、書店と学堂、民宿、バー、アトリエを兼ねた複合空間を開く予定だ。「最初に家屋の整理を始めた時は、学校の保護者ボランティアが草取りの手伝いに来てくれたのです」という。

蚵仔寮は、台湾の多くの名もない田舎に似ているが、そうではない一面もある。ここでは多くの人が故郷への深い思いと結束力で、大地を輝かせている。浜辺の花がどんな強風にも負けず、ひとり咲き誇っているのに似ているではないか。 

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Kezailiao

Lynn Su /photos courtesy of Jimmy Lin /tr. by Phil Newell

Kaohsiung’s Ke­zai­liao fishing village, which at first glance looks no different from many communities along the western seacoast of Taiwan, seemed to come out of nowhere in 2012 when it hosted the independent music festival “Small Oyster Rock.” The festival became an overnight sensation, attracting upward of 10,000 visitors, and even President Tsai Ing-wen and Kao­hsiung mayor Chen Chu took time out to attend. But it was suddenly suspended after the 2015 event. Now that the show is over and the people have all gone home, Ke­zai­liao relies on its fish market and seafood auction, which attracts the usual tide of people each weekend, including many families.

 


 

Kezailiao, which has “a small temple every three steps and a large one every five,” cannot really be said to have any impressive scenery. On weekdays one only sees a scattering of old people walking about, and occasionally hears the far-off sounds of children playing. But when we walk into the Tzu­kuan Fisheries Association shop right next to the fish market, by paying close attention we discover many details worth pondering.

These include the sculpture Mullet Roe, which incorporates children’s handprints and footprints; the “Premium Wild Mullet Roe Gift Box,” priced near NT$10,000, that won a Hai­yan Premium Seafoods Award; the souvenir gifts whose packaging in the form of a six-sided fish basket and a mullet fish won Red Dot and iF design awards…. Everywhere one sees expressions of the unique history of Kezailiao.

The golden age of mullet 

Kezailiao means “oyster shack,” and it turns out the village is so named because back in the Japanese colonial era residents raised oysters in the estuary of the Dian­bao River. But Ke­zai­liao’s real heyday was around 1980, because at that time each November to February fishermen would catch mullet that migrated southward in large shoals from the mouth of the Yangtze River. The fish followed the Ku­ro­shio Current to Taiwan’s southwest coast to spawn, bringing these fishermen abundant income.

The price for mullet was good, with each fish, male or female, selling at a market price of over NT$300. This “golden age of mullet” gave rise to many unique aspects of fishing village culture. For example, during the mullet fishing season every family would cook mullet with rice noodles and dry mullet roes in the sun. Vic ­Huang, sales director at the Tzu­kuan Fisheries Association, mentions the custom of “tian­zai,” whereby local residents would lay “bets” on the fishermen they thought most highly of, by delivering rice, drinks and firecrackers before the boat went out to sea. If a big catch was brought back they could claim several fish, and the practice added luster to the fishermen’s work.

Similarly, Yu Chia-jung, editor-in-chief of the local magazine The Blowing of the South Wind, recalls that when he was a child and his father went to sea, if the vessel returned with a large catch, Yu would help his father give away mullet from his share of the catch to friends and family who lived nearby. People would often repay this gift with vegetables, or would give the child candy or some pocket money.

However, though the sea gave good incomes, the risks were high. Especially in that less high-tech era, fishermen would go to sea for a week without any communication. Yu Chia-jung says half-jokingly: “Even now when we see a helicopter [which would come to recover bodies] it sends a shiver down the spine.”

Small Oyster Rock

The Small Oyster Rock music festival, which created quite a sensation in its time, in fact started out as a community event initiated by residents themselves. This amazing indie music festival was launched with funds raised by local citizens. There was no government subsidy or corporate sponsorship, and it didn’t aim to make a profit. Even though it has been discontinued for a few years now, many people still talk about it enthusiastically.

The second festival in particular, which had a richly cultural and educational feel, left a deep impression. The band Sorry Youth, formed by guitarist Weni, drummer ­Chung-han and bassist ­Giang ­Giang, played the festival for three years running. ­Chung-han recalls how the organizers used an old fishing boat as the stage, and put up marquees on the beach to create a “cultural and creative hall” where they exhibited old photographs of Ke­zai­liao, paintings by retired fisherman Yu Chen-yun, and so on. Besides watching the performances, visitors could get to know the local area and make connections with Ke­zai­liao. ­Chung-han says, “Their imaginative approach turned it into more than just a musical event.”

It was always the tradition at the Small Oyster Rock festival to have appearances by students from Ke-Liao Junior High School and Ke Liao Elementary School. Besides choir and lion dance performances, for the ­second festival a professional drama teacher instructed the ­junior-high students, who performed a play with Ke­zai­liao as the theme. The performance was staged at the peak of the festival activities, the evening of the second day, when there were the most visitors.

This resonated with Shih Ho-feng, a film director who had come to make a documentary after hearing about the music festival. In 2014 he shot Small Oyster Rock in Ke­zai­liao (released in 2015), with the festival as the center of attention. The following year he put the focus on the junior-high students who had performed, joining with director Chen Hui­ping to make Oceans Tide You Home (2015).

The strength of local affection

This same afternoon, Tsai Deng-tsai, who operates a construction business in Ke­zai­liao, along with Kuo Chin-shun, who runs a fishing net business, and several other local business owners in the areas of fishing nets, metals, hand trucks, and automobile insurance, are gathered for a meal at a seafood restaurant near the fish market. Tsai and Kuo were two key promoters of the Small Oyster Rock festival.

Giang ­Giang describes this group as “uncles who really need to party.” Their life routine involves meeting frequently with seafood and alcohol as essentials, and kara­oke on occasion to liven things up. When Tsai Deng-tsai explains it to us we gradually come to understand that this is because in the past making a living from the sea was a high-risk endeavor. As Tsai puts it, “Life was something you held onto by chance.” Fishermen didn’t think about saving money or accumulating assets for the future. Often when they came back from the sea, they felt as if they had survived a disaster. Having made a tidy packet, they would drink or even gamble, seeking pleasure in the moment. This culture of drinking and of living only for the present, which started with their fathers’ genera­tion, continues to this day.

These unique environmental factors not only shaped the generous and optimistic character of local residents, it also produced a deep attachment to their hometown, in turn generating powerful cohesiveness.

For the festival, Tsai Deng-tsai and Kuo Chin-shun took responsibility for fundraising and public relations, targeting their fundraising efforts on the hometown friends with whom they normally drank and hung out together. ­Tseng Jhih-ling, a young homestay operator familiar with the indie music scene, handled contact with the singers and bands who were to perform and the execution of the festival. Li Xian­lang, a retired teacher from Kao­hsiung’s Hai­cing Vocational High School of Technology and Commerce, took charge of administrative work and getting government permission to use the site. Yu Chia-jung took on the task of implementing the cultural and creative program. And both before and after the festival, volunteers from the neighborhood watch team, as well as volunteer moms and dads from Ke-Liao Junior High and Ke Liao Elementary, were enlisted to clean up trash and put the venue in order.

In this way, the energies of the whole village were mobil­ized for the Small Oyster Rock festival, and famous singers and bands including ­Hsieh Ming-yu, Lin Sheng­xiang, Pa­nai, Sorry Youth, and the Village Armed Youth Band (aka Armed Youth) all joined in this great undertaking.

Inexhaustible stories

Because of Small Oyster Rock, this quiet little fishing village began to come alive.

Yu Chia-jung, who had been back in Ke­zai­liao for nearly a decade, had always felt it was a quiet place. After getting over his surprise at seeing news of the upcoming first festival on Facebook, he stepped up to volunteer. ­Tseng Jhih-ling had returned to Ke­zai­liao to operate a homestay, and got to know Tsai Deng-tsai because the three-sided family compound that she wanted to use for the homestay needed its roof repaired. Thanks to this happenstance, she ultimately became an important behind-the-scenes promoter of Small Oyster Rock. Shih Ho-feng had come here to make a film but ended up joining the team and taking part in their discussions. Even the performers who participated were conquered by the enthusiasm of the “uncles.”

After three editions in four years the fame of Small Oyster Rock was skyrocketing, but there were problems of traffic and noise brought by the large number of visitors. There was also the challenge of how to maintain the original intent while allowing the festival content to continue to evolve. Therefore, it was decided to call a temporary halt after the 2015 event.

Although the Small Oyster Rock festival has been discontinued for the time being, new stories continue to emerge in Kezailiao.

For example, in recent years Tsai Deng-tsai has opened a seaside restaurant called Yi Man Yu, with ­Tseng Jhih-ling serving as manager. From time to time singers perform there, and it also hosts lectures on topics of current interest, acting as a platform for cultural pluralism. Not far from the restaurant, Yu Chia-jung has rented several old Minnan-style houses where he expects to open a fusion space that will combine a bookstore with a lecture space, a homestay, a bar and a personal workshop. He recalls: “When I first began getting the houses in order, it was volunteer moms and dads from the schools who came here together to cut the grass!” This group of people who interact all day long have indeed never left.

Kezailiao is like many out-of-the-way locales in Taiwan that attract no special attention, yet it isn’t like your run-of-the-mill remote community. It is this group of special people, who deeply love their hometown and who stick together, that have enabled this lonely piece of land to shine brightly on the map. It stands straight and tall, blossoming like a lone flower in a strong sea wind.

蚵寮漁村歌未央

文‧蘇俐穎 圖‧林格立

位於高雄梓官的蚵仔寮,乍看之下與許多西部海岸沿線鄉鎮並無二致,2012年起,像是異軍突起,舉辦了獨立音樂節「蚵寮漁村小搖滾」,喧騰一時,吸引約萬人參與,就連總統蔡英文、高雄市市長陳菊當時都曾前往觀賞,卻又忽地在2015年宣告暫停。燈熄人散以後,唯獨靠海的觀光拍賣魚市,每個週末依舊人潮絡繹,吸引不少親子家庭前往。

 


 

三步一小廟、五步一大廟的蚵仔寮,實在稱不上什麼絕美風景,平日只見稀稀疏疏的老人家走動,偶爾才聽見遠方傳來孩童的喧鬧。不過,當我們走入就開設在魚市旁的梓官漁會門市,只要悉心留意,就能發現許多值得玩味的細節。

包含以有孩童手掌、腳掌拓印的「烏魚之子」雕塑;價格直逼萬元,曾獲「海宴水產精品獎」的「頂級野生烏魚子禮盒」;採用六角魚簍、烏魚造型,獲得德國「紅點設計獎」、「iF設計獎」獎項的伴手禮等……無不細細道出蚵仔寮的獨特身世。

苦樂交織的烏金時代

原來,蚵仔寮雖以「蚵」為名,這是源於日治時代先民在典寶溪出海口養蚵之故。但蚵仔寮最風光的年代,當數1980年左右,由於每年11月至隔年2月,會有大批烏魚從中國長江出海口往南洄游,到台灣西南沿海產卵,在此被漁民攔截,為漁家帶來豐厚的收入。

烏魚價格好,不論公母,1尾至少有300元以上行情,出海一趟若豐收,便能賺得上百萬收入,隨著「烏金時代」的蓬勃,也孕育出許多獨特的漁村文化。好比汛期期間,家家戶戶煮烏魚米粉、曬烏魚子,梓官區漁會供銷部主任黃志雄提到「添載」的習俗,即是當地居民向自己看好的漁家下注,在出海前便先送米、送飲料、送鞭炮,豐收後也能分得幾尾,漁家也錦上添花。

同樣是當地人的《透南風》雜誌主編余嘉榮則說,童年時父親出海,若是豐收回航,船長會依慣例將收穫的十分之一分贈給同隊船員,還是孩子的他便幫著父母親把分到的烏魚轉贈給住在鄰近的親友。收到的人常以菜交換,甚至塞給小孩糖果、零用錢,時間又臨近春節,感覺既豐足又熱鬧。

然而,討海收入雖好,風險也高,尤其過去科技不發達,漁民出海一趟約一個禮拜,音訊全無,余嘉榮說:「小時候念書時,只要看到校長臉神凝重走到教室,跟老師竊竊私語,再叫某個同學出去,就知道一定是家裡有船難。」他半開玩笑地說:「現在我們只要看到直升機(來打撈罹難者),都還有陰影啊!」

意外爆紅的漁村小搖滾

轟動一時的蚵寮漁村小搖滾,其實是一場由當地居民自發性發起的社區型活動,這場令眾人跌破眼鏡,只從民間募款,不靠政府、企業贊助,也不以營利為目的的獨立音樂節,即便停辦多年,仍讓許多人津津樂道。

由吉他手維尼、鼓手宗翰、貝斯手薑薑組成的「拍謝少年」,連續3屆登台演出。薑薑說,搖滾樂因為獨特的文化形象,常受到居民排擠,但蚵仔寮當地人並不了解這些樂團,卻意外地熱衷參與這一場盛會,令他們嘖嘖稱奇,他說:「他們都很享受那個festival的氣氛,甚至會看到他們自發性地指揮交通、撿拾路上的垃圾。」

尤其饒富文化、教育意味的第2屆,更叫人印象深刻。宗翰回憶道,主辦單位利用了廢棄漁船當作舞台,並且在沙灘上以帳篷搭出「蚵板印象」文創館,展出蚵仔寮的老照片、漁夫素人畫家尤辰允的作品等,遊客除了觀賞表演,還能認識地方,與蚵仔寮發生連結,宗翰說:「都是因為他們的想像力,才讓這些事情變得不一樣。」

表演節目上,有蚵寮國中、小學生粉墨登場,更是小搖滾的一貫傳統。除了合唱團、舞獅團的演出,第2屆甚至有專業老師指導國中生,以蚵仔寮為主題,演出舞台劇,演出時段更選在活動高潮、遊人最多的第2天傍晚。

這件事,讓因為風聞小搖滾而來的紀錄片導演施合峰心有戚戚:「我自己是雲林斗六人,許多來自鄉下地方的孩子,外出念書時講到自己的故鄉,往往沒什麼自信;加上我們的教育,一直以升學為優先,缺乏鄉土教育。」他說:「這個演出,就是創造出一個機會,讓小朋友站上舞台,主動去跟觀眾說,我的故鄉是一個很美、很棒的地方,你們應該要來認識這裡。」

感動之餘,他把所見所聞放入自己的作品。2014年,先以小搖滾為主軸,拍攝《蚵子寮漁村紀事》;隔年,聚焦於這批演出的國中生,與導演陳惠萍共同完成《離岸堤》。

人情攏絡起在地勢力

就在這個午後,在蚵仔寮從事營造業的蔡登財,以及從事漁網生意的郭進順,加上幾位經營漁網、鐵材、板車、汽車保險生意的老闆,就聚在魚市附近的海產店用飯;而其中的蔡登財、郭進順,便是促成小搖滾的關鍵推手。

薑薑用「一群很需要開趴的大叔」來形容這群人,三不五時的聚會,必備的海鮮、燒酒,偶爾還有卡拉OK助興,就是他們的日常生活。而在蔡登財的解釋下,我們才逐步了解,原來,是因著過去討海的風險高,蔡登財形容,「命就像撿回來的」,漁民也不懂得要積攢錢財為日後作打算,往往出海回來,就像大難不死,大賺一筆之餘,就是喝酒,甚至賭博,只圖個當下的痛快。從父執輩開始的嗜酒文化,與及時行樂的態度,也一脈傳承至今。

特殊的環境條件,不僅造就他們海派樂觀的性格,也淬鍊出對於故鄉的情深意濃,繼而匯聚起強烈的向心力。郭進順提到,原來,小搖滾誕生的契機,是源於蚵仔寮當地一直都有製作愛心書桌的傳統,每年向鄉親募款,再集結當地居民,利用工作餘暇製作書桌,免費餽贈給偏鄉學校。

而2011年活動結束後,剩下一筆餘款,大家動念,除了用作聚餐以外,說不定還可仿效墾丁的春吶,邀請歌手演出,大夥兒聽音樂、喝啤酒、烤肉,豈不快哉,這個點子,被當時回到老家經營民宿的年輕人曾芷玲聽到,平日便有關注台灣獨立樂團的曾芷玲,一口向蔡登財承諾可行,小搖滾的目標也就此確立。

因著過去討海不易,漁民渴望心有所託,造成當地廟宇林立,祭祀風氣盛行,平素就有管理廟宇事務的蔡登財說:「我們可是把這場活動當成進香的規模在辦!」

由蔡登財、郭進順負責募款、公關,募款的對象,就是平素一起喝酒、往來的鄉親;曾芷玲負責聯繫樂團演出、執行;海青商工的退休老師李賢郎,擔綱起行政工作,向政府單位借調場地;余嘉榮則負責執行文創企劃;活動演出前後,再動員起社區巡守隊的志工與在蚵寮國中、小的志工爸媽,前去撿垃圾、整理場地。

就這樣,動員了整個漁村能量的蚵寮漁村小搖滾,包含謝銘祐、林生祥、巴奈、拍謝少年、農村武裝青年等知名歌手樂團,都曾共襄盛舉,並獲得空前的成功。

漁村故事,永不止歇

因為小搖滾的緣故,寂靜的漁村開始轉動了起來。

回到蚵仔寮近十年的余嘉榮,一直覺得故鄉很安靜,直到從臉書上看到第1屆小搖滾的消息,在大吃一驚之餘,自告奮勇地去作志工;曾芷玲則是回到蚵仔寮經營民宿,因為要做民宿三合院屋頂的整修工程,才結識了蔡登財,最後因緣際會成為小搖滾重要的幕後推手;施合峰從前來駐點拍片,最後甚至加入工作團隊,一同參與討論。

連來參與的表演者,也紛紛為海口大叔的熱情所收服。這既不像一般的商業演出,彼此的關係也就不同於尋常的主辦單位與表演者,薑薑說:「一般的主辦單位也不會打電話問你要不要回來吃飯吧!」這樣微妙的變化也改變了演出的本質,少了制式用來炒熱氣氛的橋段,更多是台上台下熱烈且自然的互動,維尼回憶著:「尤其你知道大哥他們會在後台看你,就像被朋友包圍的感覺。」

雖然,在舉辦了3屆以後,小搖滾的名氣扶搖直上,但是大批遊客所帶來交通、噪音的問題,加上如何不失初衷,活動內容又要持續演進,再再都是挑戰,因此,在2015年活動落幕後戛然喊停,「未來還是會辦啦!」郭進順肯定地說著。

小搖滾雖然暫停了,漁村裡的故事持續在發生。好比說,有在小搖滾裡演出的學生,受到啟發後選赴中華藝校就讀,還在暑假自發性組成「蚵寮青年工作隊」,帶同學回來認識故鄉;施合峰因為看見蚵仔寮鄉親對於故鄉的深情,動念搬回自己的故鄉斗六居住。

這個從風土裡自然長出的音樂節,也激勵了台南安平「南吼音樂季」、台南左鎮「故鄉是我的愛人」音樂會、彰化「叫春小搖滾」等地方音樂節的誕生,熱情的海口大叔也義氣相挺,南征北討地趕去聲援。

近年,蔡登財也在蚵仔寮海濱投資開設了「意滿漁」餐廳,曾芷玲擔任店長,店裡時不時有歌手駐唱,也舉辦時事議題講座,作為引入多元文化的平台;余嘉榮在距餐廳不遠處承租下幾幢閩式古厝,預計開設成結合書店、學堂、民宿、酒吧、個人工作室等功能的複合空間,他回憶著:「一開始整理房子的時候,也是學校志工爸爸媽媽一起來除草的!」這群朝夕相處的人,確實從來不曾離開過。

蚵仔寮,就像台灣許多不起眼的偏鄉,但也不像一般的偏鄉。是這群特別的人,懷抱對故鄉的一往情深,以及不由分說地團結,讓這片寂寥的土地在地圖上熠熠發亮,就像濱海的花蕊,風狂,卻挺拔,孤芳自賞地綻放著。

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