人情と結束で生まれる地域のパワー
取材に訪れた日の午後、蚵仔寮で建設業に携わる蔡登財と漁網を扱う郭進順、そして漁網や鉄材、自動車保険などの商売をする何人かが、魚市場付近の海鮮料理店で食事をしていた。その中の蔡登財と郭進順がロックフェスを実現した仕掛け人だった。
薑薑は彼らを「パーティがしたくてたまらないオジサンたち」と形容する。何かにつけて集まっては海鮮料理と酒、そしてカラオケで盛り上がる。これが彼らの日常である。その蔡登財の話で、ようやく事情が分かってきた。もともと漁業というのは危険な仕事で、「命は拾ってきたようなもの」と蔡は言う。漁師たちは稼いだ金を後のために蓄えることを知らず、漁から帰ってくれば、手にした金を酒や博打に使ってしまい、刹那的な享楽にふけっていた。酒を飲んでは盛り上がる、というのが漁村の男たちに代々受け継がれてきた生活なのである。
こうして豪快で楽観的な性格が育まれ、そこから故郷への深い思いと結束力を培ってきたのである。郭進順によると、蚵仔寮では昔から貧しい地域の子供たちに手作りの勉強机を贈ってきた。毎年、地域住民が資金を出し合い、勉強机を手作りしてきたのだという。
2011年、勉強机のために集めた資金が手元に残ったため、それを使って何かしようということになった。墾丁のロックフェスのように、歌手を招いてコンサートを開き、ビールと焼き肉で盛り上がってはどうかという話になった。漁村の実家で民宿を経営する若い曾芷玲がこれを聞きつけた。台湾のインディーズ音楽に関心を注いできた彼女は、それならやってみようと蔡登財と約束し、ロックフェスの開催が決まったのである。
海へ出る仕事が危険だからこそ、漁師たちは心の拠り所を必要としており、地域には廟が林立している。普段は廟の事務を管理している蔡登財は「フェスティバルも、廟の祭りのつもりで実行したんです」と語る。
そこで蔡登財と郭進順が資金集めと広報を担当した。出資を頼むのは、いつも一緒に酒を飲んでいる村の人々である。曾芷玲はバンドへの出演依頼と実行を担当、海青商業工業高校を退職した元教員の李賢郎が事務関係を担当し、行政部門に会場使用を申請した。余嘉栄は文化関係の企画を担当する。フェスティバル開催前後には地域のボランティアと蚵寮小中学校の父母会がゴミ拾いや会場整理を行なう。
こうして村民総動員で「蚵寮漁村スモールロック」フェスティバルが開催され、謝銘祐、林生祥、巴奈、拍謝少年、農村武装青年といった名の知れたバンドや歌手が出演し、大成功を収めて高い評価を得たのである。
地域住民が実行したロックフェスティバルが大きな反響を呼んだのは、決して偶然ではない。(一次映画提供)