汐止の貧しい少年
蔡家は台北県汐止で13世代続く家だが、蔡家に婿入りした父親は、分家する際に5分の土地(約1465坪)しか相続させてもらえず、父親は野良仕事をする傍ら、鉱山でも働いていた。
1965年に貧しい農家に生まれた際聡明は、学校から帰ると靴を脱ぎ、裸足で水田に入って耕作を手伝った。月間試験の前、彼は宿題をやってから田んぼに出たいと言ったが、父親に「勉強で腹が満たせるものか」と怒鳴られた。学校の先生は彼に絵の才能があるとほめてくれたが、当時の彼には「貧乏を抜け出すことしか考えられなかった」という。
毎日学校へ行く前に、母親を手伝って重い野菜をかつぎ、バスに乗って台北の松山まで売りにいった。乱暴なバスの運転手に「バスは人が乗るものだ。野菜の運搬車じゃないぞ」などと言われるたびに、幼い蔡聡明の心は傷つき「将来、絶対に大金持ちになってやる」と心に誓うのだった。
「子供の頃は、芸術家というのも嫌いでした」と彼は笑う。小学生の頃、田んぼで泥だらけになって草取りをしていると、長い中国服を着た優雅な老人がそばに来て、カメラを手に写真を撮り始めた。「その時は、泥を投げつけてやろうかと思いましたが、投げなくて良かったです。後に世界新聞専科学校に進学してから、その人が大写真家の郎静山だったことを知ったのです」と言う。
中学を出ると、貧しいために士官学校進学を希望するが、身長不足で入学できず、その後がんばって世界新聞専科学校に合格した。卒業後は懸命に働き、印刷会社のアシスタントから始めて印刷会社の社長になり、さらに広告デザイン会社や貿易会社を設立し、一歩ずつ着実に「金持ち」の夢へと邁進していった。
子孫に良い家を残す
こうして懸命に働いている頃、自分が生まれ育った汐止が台北のベッドタウンになり、田畑だった土地に次々と灰色のビルが並ぶようになった。ビルは陽光をさえぎり、人ごみと汚染をもたらす。蔡家は「社后」地域で最後まで土地を手放さなかった。
「この村で他にイネを植える人がいなくなると、我が家のイネはすぐにスズメに喰い尽くされてしまい、昔からの方法でブタの肥を畑にやると、新しい住民から臭いと抗議され、畑に有機肥料をやると環境保護局から罰金を科されました」と言う。
汐止から田畑が消え、代々続いてきた農家の静かな暮らしもなくなり、蔡聡明は考え始めた。この土地に何の愛着も持たない企業に土地を売るぐらいなら、自分で新しいコミュニティ、汐止の人々が誇りにできる住宅地を造った方がいいのではないか、と。
しかし、一年をかけて建設会社と話し合ったが、蔡聡明は満足できなかった。ある晩、田んぼで家族会議を開いた時、蔡聡明が自分の理想を語るのを見て、義理の兄から「自分でやってみろよ。他人にはお前の夢は実現できない」と言われ、蔡聡明は家族にこう誓った。「祖先が残してくれたこの土地に、私は子孫のための立派な家を建てます」と。
こうして最良の建材を使い、有名な建築家に依頼して、蔡聡明は満足のできるマンションを建て、巨額の利益も得た。しかし、その初心である「愛着の持てるコミュニティ」を実現することはできなかったのである。
2000年、蔡聡明は偶然シアトルのフリーモント・サマー・ソルスティス祭りを紹介する本を目にした。フリーモントのコミュニティでは老若男女誰もがアーティストとなり、自分でテーマを決めて大きな人形やランタンなどを作り、創意に満ちたパレードを行なうのである。「誰もが創意を発揮し、生活はアートに満ちています。これこそ私が求めていたものです」と話す蔡聡明は、これは人と人、人と土地の間に愛着を持たせる最良の方法だと感じた。
芸術のとりこに
それ以来、蔡聡明は世界各地で開かれるさまざまな芸術カーニバルをめぐり歩き、情熱と創造力を発揮することとなる。南半球ではリオのカーニバルも見た。どこまでも続くパレードには、インディオやアフリカの勇士、古代エジプトの戦士、スターウォーズの登場人物の姿もあれば、サンバを踊る女性はクレーンで吊るされて3階建ての高さの山車に乗り、観客は熱狂的に歌い踊る。
ネバダ州ブラックロック砂漠を舞台に行なわれる「バーニングマン」の祭りにも行った。夏の砂漠に3万人が集まって一つのコミュニティを形成し、3週間かけて砂漠をキャンバスに、スペインの戦艦を作り上げる。戦艦の上には演奏者やダンサーが30人余り乗っている。夜になると、格闘技のパフォーマンスや火の舞いなどが次々と披露され、夢の中にいるような気分を味わえる。
オーストラリア、クイーンズランドで開かれるウッドフォード・フォークミュージック・フェスティバルは、その町に足を踏み入れるとすでにカーニバルの中である。7日間にわたって皆が一緒に踊り、食事をする。ブルースやジャズ、フォーク、カントリーなど好みの音楽ジャンルに分かれて見知らぬ人々と一緒にキャンプ生活を楽しむのである。
このように、スタイルの異なるさまざまな芸術フェスティバルに参加し、何の束縛もない情熱的なパレードを経験した蔡聡明は、金銭では買えない喜びを味わった。パレードに加わった瞬間「血が滾る」という感覚が分かったという。彼は芸術創作のとりこになり、より多くの人をとりこにしてコミュニティに影響を及ぼし、汐止の創造力を発揮したいと考えるようになった。
アートの放浪者
40歳になるまで、蔡聡明の夢はお金持ちになることだったが、40歳以降は、台湾を世界に知られるカーニバルの島にすることが、その夢になった。
イベントの計画に悩んで半年余りも不眠に悩まされ、睡眠薬に頼っていたこともあるし、躁鬱病になったのではないかと疑ったこともある。芸術の種をまくために、彼はいつも基金会の仲間とともに山地の原住民集落を訪れてはパレードを指導しているため、奥さんは怒って離婚を考えたこともあるそうだ。
「私は冒険家であり、狂人でもあります。冒険家には束縛があってはならず、狂人でなければ超人的な力は出せないのです」
自らアートの放浪者と称する彼は、数十億の資産を持つ会社経営者だが、高級車などには乗らず、いつもバイクであちこち駆け回っている。遠出する時は、会社のトラックで出かける。
今年の元旦、蔡聡明はバイクで汐止から基隆まで行き、気温8度という寒さの中、裸でパレードに参加した。旧正月には台東の原住民集落を20ヶ所も訪れてサンバグループの結成を推進した。
「命を懸けるのも惜しくありません。将軍が死を恐れないからこそ兵士がついてくるのです。私はみなぎるパワーを使って台湾に影響を及ぼしていきますよ」と蔡聡明は遠い空を見る。
彼の周りのメンバーも熱狂的に取り組んでいて、ほとんどの人が離婚されても文句を言えない状態だという。
なぜ周囲の人まで熱狂するのかと問うと、蔡聡明は笑いながら「ここでは本当の自分でいられるからですよ」と言う。
人生では、ストレスが逆の力を発揮とさせる考えている。
彼の母親は一年中重い野菜を肩に担いできた。だが数十キロの重さに耐えてきた右肩の方が、左肩より高いのである。
「人生は戦いです。圧力があればこそ向上できるのです」と話す蔡聡明は「戦場で最後の一人になっても戦い続けます。私は家を売るのも得意ですが、芸術を楽しむのも上手いのです」と言う。