先住民集落の大家長として
1932年にフランスに生まれたポアンソ神父は、17歳でパリ神学院に入った。8年の学業を終えて25歳で神父となり、2年の兵役の後に台湾へと派遣された。
1959年、ポアンソ神父は27歳の時に花蓮に着任した。当時の台湾東部は交通の便が悪く、神父はバイクに乗って海へ山へ、玉里高寮と富里豊南の間の集落を行き来し、雨の日も東里、落合、鉄份などの集落へと入っていった。これらの地域の住民が神父の助けを必要としていることを知っていたからである。
先住民集落の暮らしは貧しかったが、神父はそこでレモングラスを栽培しているのを目にし、設備を購入して精油を作り、経済価値を高めた。さらに人々の暮らしを改善するために、資金を募って農地を購入し、無償で住民に提供した。
狩猟と農耕、出稼ぎが主な収入源の集落で、耕地の多くは山地保留地であり、抵当がないため、農耕設備の購入や子供の学費のための融資もなかなか受けられない状態だった。
こうした状況を改善し、住民に貯蓄の概念を普及させるため、神父は海外の互助社(無尽講)の運営制度を研究したところ、無尽講の精神は「営利でも救済でもないサービス」であることが分った。銀行から融資を受けるには担保がなければならないが、無尽講では人と人との信頼関係を基礎とし、多くの人から集めた資金を、必要とするメンバーに低利子で貸与するというものだ。
そこでポアンソ神父は香港へ人を送って無尽講の運営を学ばせ、数年の準備を経て1967年に花蓮初の無尽講――露徳貯蓄互助社を設立した。「当初は1元、5元、という単位での貯蓄で、神父は集落へ祈祷に行くたびに、貯蓄の重要性を説いて回りました」と互助社の王菊蘭は言う。まずは自らを助け、それから互いに助け合うというのが神父の理念で、少しずつ積み立てることを奨励して貯蓄の習慣を普及させたのである。
神父はさらに、集落に幼稚園を設立して教育問題を改善し、なかなか病院へ行けない人々のために医療器材を購入して怪我の手当てなどができる保健室も設けた。神父は何でも相談できる集落の家長のような存在となり、住民たちは何かあると神父に相談するようになった。当時、集落の外へ働きに出ていた王菊蘭も、仕事に行き詰まっていた時に神父の言葉に感銘を受けて戻ってきた。「生まれて初めてのバースデーケーキをくださったのもポアンソ神父です」神父は本当の父親よりも父親らしい存在だと王菊蘭は笑う。こうして、秀姑巒渓東岸の人々のために力を尽くす神父は河東天使と呼ばれるようになった。
集落の伝統衣装を身にまとい、アミの言葉を話すポアンソ神父は、面立ちこそ違うが、とうに集落の一員である。(游文雄提供)