美術雑誌の世界トップ10に、しかもアジアで唯一選ばれた「芸術家」は、40年間黙々と台湾のアーティストを育み、台湾美術とともに歩んできた。美術専門誌を出すことで、台湾美術を世界へと送り出し、なおかつ世界の美術を台湾に紹介してきた。まさに台湾現代美術発展におけるその時々の移り変わりを体現した雑誌で、美術界への貢献ははかり知れないものがある。
「『芸術家』を創刊したのは、『雄獅美術』が純美術雑誌から総合誌へと変わったからです」美術に対する情熱ゆえの行動であったが、若さからくる衝動も多分にあったと、何政広は当時を振り返る。「『雄獅美術』の編集長だった私は、台湾には美術だけを扱う雑誌が必要だと考えたのです」友人の励ましもあり、何政広は雑誌社を設立した。画家の席徳進(故人)が「芸術家」と名づけてくれ、書家の荘厳に痩金体で題字を書いてもらった。毎月22日には必ず刊行し(1999年の台湾大地震で1日遅れた日を除く)、創刊時の理念を貫いている。
「芸術家」の編集部は、国内外の画家が必ず訪れる場となってきた。陳進、陳奇禄、顔水龍、楊三郎、林玉山、郭東栄、そしてオークションで華人では最高の落札額を記録した趙無極など、国際的なアーティストやキュレーター、コレクターがその足で「芸術家」を訪れている。こうして交流が生まれる中で、美術専門書の出版や展覧会の開催に結びついてきた。
とりわけ何巻にも及ぶ美術全集の出版は、重要な業績だ。「ガウディのサグラダ・ファミリア、パリのピカソ美術館、フランスの国立自然史博物館、ロシアのサンクトペテルブルクなどの中国語解説書は、どれもわが社が出版したものです」という。「芸術家」は、世界における重要な中国語美術雑誌という重責を担うだけでなく、芸術を通して外交にも貢献してきた。
雑誌の将来の方向について、何政広は、引き続き国内外の最高の芸術を台湾人に紹介することだと語る。「芸術文化はいつも、心を育む最も重要な栄養剤ですから」
「芸術家」社の前の路地は、台北市によって「芸術家小路」と名付けられている。「芸術家小路」と書かれた標識の前で、何政広は自らの願いをこう語った。「人生は芸術によって豊かになります。芸術は世界を変えることはできないとしても、我々はこう信じます。それはいつも特別な時に我々の心にしみ通り、生命の美を感じさせてくれる、と」
雑誌『芸術家』は40年間、「人生は芸術によって豊かになり、芸術は人生によって光り輝く」をモットーとし、広く多様な国際的視野の開拓と、世界の芸術発展を追求してきました。『芸術家』創刊40周年にあたり、『芸術家』と同い年である『光華』にもお祝いの言葉を贈ります。「誕生日おめでとう。光り輝き続けましょう」
――何政広
雑誌「芸術家」発行人の何政広は2015年、政府文化部による金鼎賞特別貢献賞を受賞した。