抗日戦争勝利と台湾の祖国復帰70周年を記念して、2014年6月以降、行政院は国史館、国防部、外交部、中華文化総会などの機関や団体とともに計画を立てはじめ、今年7月以降、16項目の記念活動を行なっている。国際学術シンポジウム、シンポジウム「台湾と抗日戦争」、座談会「台湾同胞と抗日戦争」、講演会、抗日戦争史料文物特別展などである。
国史館は抗日戦争と台湾の祖国復帰70周年を記念して、記念活動を拡大し、50余カ国から学者や専門家を招き、国際シンポジウム「戦争の歴史と記憶」を開催する。
国史館の陳立文・主任秘書によると、シンポジウムのテーマは抗日戦争の歴史を全面的に振り返るというもので、「戦時における女性の役割」「偽政権と遊撃地域の人々の生活」なども重要な一環として討論される。注目したいのは、第二次世界大戦に関する世界の20の博物館と協力し、第二次世界大戦における中華民国の役割を海外に知らしめることだ。
この8月からは3カ月にわたって国軍歴史文物館と国史館で同時に記念特別展が開かれる。抗日戦争の歴史を紹介するだけでなく、国史館では、戦役、時地、文書、音楽などの七大テーマに分けて抗日戦争の全貌を明らかにする。
一般の人々に理解しやすいよう、国史館でテーマを設けて見学できるようにする。「戦役」展示エリアでは、「最初の生物化学兵器戦役」「最大の死傷者を出した最も惨烈な戦役」といった角度から歴史を振り返ることができる。
近年は、一般市民の記憶も重視されるようになり、民間に保存されてきた文物や資料が歴史画像の不足を補うこととなる。「文書」展示エリアでは、政府の公式文書の他に、当時の時代背景や戦況を記した新聞雑誌や、将兵が家族に宛てた手紙なども展示される。
シンポジウムや巡回展覧会の他、昨年10月からは「抗戦史シリーズフィルム展・講座」も開かれている。抗日戦争期間中に制作されたドキュメンタリーや映画などが上映され、有名な「梅花」「筧橋英列伝」なども上映されている。
国史館ではこれと同時に『新編抗戦史』『陳誠日記』『吉星文日記』など14冊の書籍を出版する。そのうち『滇緬(雲南・ビルマ)遠征軍』には初めて公開される史料も含まれている。陳立文によると、同書には中華民国国軍が雲南・ビルマで戦うイギリス軍の支援に駆けつけた歴史が書かれており、第二次世界大戦において我が国が国際社会とともに行動し、貢献したことがわかる。
激動の時代の無常
これらシンポジウムや展覧会で扱われる歴史資料の背景には、少なからぬ人々の血と涙がある。文化部の「国民記憶庫・物語サロン」には多くの物語が収録されており、激動の時代の無常が描かれている。
抗日戦争勝利70周年を迎える前夜、戦乱を自ら経験した80~90代のお年寄り5人が斉東詩舎に集まり、当時の記憶を語った。
宜蘭県在住、80歳の高双印は抗日戦争が始まった時は3~4歳だった。父親が前線へ赴くこととなり、彼は母親の実家で暮らすこととなる。日本軍による空襲があると、母は彼を連れて防空壕へ避難した。防空壕の中は、暗く空気が淀んでいて、人いきれでむせ返っていたことを今もはっきりと覚えていると言う。大きくなってからは、父に従って遊撃隊に加わり、「孤児歌」「小小軍隊」「遊撃隊」行進曲などの抗日戦争の歌曲も覚えた。戦争は遠い過去となったが、これらの歌を歌うと今も当時の情景がありありと目に浮かび、辛くて涙が出るという。
山東省出身の陳孝禄は、戦乱で母親と離れ離れなり、各地を転々とした。父親の陳幹はかつて孫文に従って革命に参加し、後に政府の要職に就いていたが、陳孝禄が4歳の時に亡くなって家は没落した。1937年に中日戦争が勃発してからは、母親の実家がある安徽省に避難し、後に母親と生き別れになり、8年を流亡学生として過ごした。
その記憶によると、当時は焦土政策の下、戦況は厳しく、数えきれないほどの死傷者が出て、青年団の救護兵だった彼は負傷者の救護に忙しかった。それでも旺盛な学習欲は失われず、戦場で拾ったカメラを使って写真撮影を学び、戦争中期に湖南教会学校に入ってからは、米軍が残した楽器を使って外国人教師から演奏を学んだ。
浙江省出身で現在は高雄市左営に暮らす今年94歳の曹正綱将軍は、抗日戦争勝利の歓びにわいた情景が忘れられないという。
曹正綱の故郷は浙江省金華だが、日本軍が浙東攻勢に出て、故郷は日本軍に占拠された。そして故郷の至る所が焼かれ、殺戮と略奪で地獄のようだったと語る。
その頃、国軍が知識青年の従軍を呼びかけていたため、彼は両親に別れを告げ、学業をなげうって遠征軍に参加した。物資が乏しかった時代、長ズボンを切って手ぬぐいにし、靴がないので草履を作って履いた。戦役は困難を極めたため、勝利を知った時も信じられなかったという。
3時間のドキュメンタリー『抗戦』
抗日戦争勝利70周年を迎えるに当り、東森テレビ(EBC)は、1931年の満州事変から1945年の勝利までの歴史をふりかえる3時間にわたるドキュメンタリーフィルム『抗戦』を制作した。
東森テレビ報道部の王凌霄・副編集長は、歳月が経つにつれて8年にわたる抗日戦争の歴史はしだいに忘れられつつあり、このフィルムを通して若い世代に歴史を重視してもらいたいと考えている。「過去を知ってこそ、これからをどう歩むべきか分かるのです」と言う。
2005年にドキュメンタリーフィルム『日蝕中国』を制作したのに続き、東森テレビの制作チームは再び抗日戦争のドキュメントを制作することになった。王凌霄によると、『抗戦』は国民が知っている抗日戦争の歴史だけでなく、中華民国と連合国との協力や、国際情勢との関連も扱う。さらに、欧州戦線や米国の外交政策などの細部にも触れ、抗日戦争が単一の戦争ではないことを視聴者に教えてくれる。
戦争は単一の出来事ではない。抗日戦争の主戦場は中国大陸だが、第二次世界大戦が全面的に始まってからは、台湾も戦争に巻き込まれていった。そのためドキュメンタリーフィルム『抗戦』では、日本軍に徴集されて軍夫としてフィリピンに送られた台湾人や、高砂義勇軍の物語にも触れている。
『抗戦』は、こうした世界的な視野での歴史を語るだけでなく、庶民の観点からの歴史も記録する。したがって、蒋介石、宋美齢、孫立人、張学良といった歴史的人物だけでなく、一般庶民の物語も収録されている。例えば、先ごろ逝去した俳優の王玨の物語も登場する。
王玨の故郷は遼寧省にあり、東北が陥落した後、戦争で国も家も失う悲しみを味わった。戦争が勃発してからは、王玨は国軍とともに戦地を転々として重慶まで撤退し、その後に俳優となったのである。ドキュメンタリーでは、この物語も紹介する。
このほかに、台北市立動物園に眠る象の林旺の物語も登場する。林旺は戦乱の中、当時のビルマから長い道のりを経て台湾へやってきたのである。このような、戦役とは異なる物語や記録が加わることで「あの時代、戦争だけではなく、人と人とのつながりや物語があったこと」を視聴者に知ってもらいたいと王凌霄は語る。
この10年、『日蝕中国』と『抗戦』という二つのドキュメンタリーフィルムを制作してきた王凌霄は、当初は健在だった戦争経験者が数年の間に次々と世を去ったと感慨を込めて語る。多くの記憶も忘れ去られていくため、それらの全てを急いで記録していかなければならないのである。
近年は、中国大陸が抗日戦争の解釈権と発言権を強調しているが、これについても王凌霄は感じるところがある。抗日戦争の解釈権に関して、中国大陸の大々的な宣伝の下、しだいに真相が失われていくと感じているという。「国際情勢がどうあれ、8年にわたる抗日戦争は、中華民国の努力によって勝利を得たのです。国際社会と多くの人に、この歴史と事実を知っていただかなければなりません」
王凌霄はさらに次のように語る。当時、大陸と台湾の人々は別々の陣営に属していた。当時どのような立場や身分にあったとしても、それぞれの人がこの戦争に関して自分だけの記憶を持っている。その互いの記憶を一つひとつ認め合うことが、互いを理解する契機となり、それによって台湾社会の多様な価値の重要性が際立つのである。
「この歴史は、3時間のドキュメンタリーフィルムでは到底語りつくせません」と王凌霄は言う。若い世代の戦争に対する感覚は時代を追うごとに薄れていくが、歴史を振り返って戦争を知ること忘れてはならない。どのような媒介や手段を用いるにしても、「この世代がやるべきことはやらなければなりません」と王凌霄は語る。
日本軍の降伏文書と受降式後の記念写真。(国史館提供)
日本軍の降伏文書と受降式後の記念写真。(国史館提供)
政府と民間による抗日戦争勝利70周年記念活動が次々と行なわれている。国史館では巡回展を行なうとともに『陳誠先生日記』『中国遠征軍』などの書籍も出版した。
政府と民間による抗日戦争勝利70周年記念活動が次々と行なわれている。国史館では巡回展を行なうとともに『陳誠先生日記』『中国遠征軍』などの書籍も出版した。
抗日戦争勝利70周年を迎えるに当り、5人の戦争経験者が動乱の時代の無常を語った。