英雄が頭を下げる?
何も言えないし、確かめることもできない。自信にあふれた黄安さんもここでは柔軟にならざるを得ない。
魅惑の土地ではあるが、台湾を離れる時も、まだ名プロデューサー彭達との高報酬の契約は続いていた。台湾のバラエティ番組は依然として華人世界をリードしているのに、なぜ彼は別の戦場を求めたのだろうか。
台湾という言葉を出すと、黄安さんは愛憎を露にした。
「台湾大地震の後、景気が低迷し続け、まず主な収入源だったマンションの工事現場でのショーがだんだんと少なくなりました」以前は羅碧玲さんと並んでショーのプリンス、プリンセスと称された黄安さんは、当時スランプの状態にあったという。さらに政治的なアイデンティティの問題も加わって、2002年の総統選挙の後、彼はやる気を失い、彭達さんとも解約し、家にこもってただひたすら本を読み続けた。
台湾の芸能人は政治の話を好まないが、作家の李敖を人生の目標としている黄安さんは、時事問題をよく取り上げる。民主的な選挙の結果が彼の意に反した時、彼は毅然として立ち止まって人生の方向を再考したが、友人たちは驚かなかった。だから、彭達さんも解約を受け入れ、彼に祝福を送ったのだ。
時代の大きな変化に40歳という年齢が重なり、不惑の年なのに中年の危機を迎えることになった。まるまる3カ月もの間、黄安さんは読書だけに没頭し、大陸の50年の歴史を学んだ。それは「なんとなく明日はそこにいるような気がしたから」だと言う。
黄安さんは歌の世界で大人気を得たが、大ヒットしたアルバムは「新鴛鴦胡蝶夢」1枚だけだ。バラエティ番組の司会に転向したが、他の司会者とそりが合わなかった。かつて黄安さんとつかず離れずで、映画やドラマにもよく出ていた妻の邱さんは、芸能界の起伏の激しさと夫のプライドの高さをよく知っていた。彼女はこっそりと財産を計算し、黄安さんに「行きましょうよ。私たちの貯金なら今の豊かな生活が3年は充分に送れるわ」と言った。こうして黄安さんは使用金額無制限のカードと、ある程度の現金を手に、一人で中国大陸へとわたった。
「ドラマ関係者が最も好きな『引退記者会見』さえもしませんでした」と黄安さんは笑う。
各地で開かれるショーやコンサートへの出演が、黄安の大陸での主な仕事だ。聴衆と間近に触れ合う感動が、再び彼に創作を始めさせた。(黄安提供)