この日、午前8時、簡湘綺は台北市金門街の自宅を出て、地下鉄淡水線に乗り込み、円山駅で降りて、そこから29番のバスで東湖小学校に着いた。そこから付き添うのはマネージャーの呉美幼で、二人は再びバスに乗り汐止のお客の家まで調律に出かける。これが彼女の毎日の仕事で、一日2、3台を調律し、時には台中まで足を伸ばす。

台湾ではバリアフリー環境は十分ではなく、目の不自由な彼女は、協会のマネージャーの付き添いを必要とする。

心の中の地図

今年29歳になる簡湘綺の実家は南投だが、調律の仕事のために自立し、一人台北に家を借りて住んでいる。全盲ではあるが自分ひとりで生活し、どこにでも出かける。呉美幼によると、簡湘綺の頭は数字で一杯だという。調律の時間を決めると、心の中の地図を整理するのだそうである。地下鉄の路線と時間は心得ていて、時間通りにやってくる。「それでもバスは安心できません」と彼女は言う。路線番号が見えないので、運良く同じバスの人が手伝ってくれれば、時間通りに調律に行けるが、雨の日で満員で通り過ぎてしまったり、バス停に同じ路線の人がいないと、待つしかない。4本もバスを乗り過ごしたことがあるという。

お客の家に入ると、まずピアノの種類を確認し、除湿機能が正常に働いているかを見る。ピアノの蓋を開け、5キロの工具箱から音叉を取り出して、鍵盤を叩き音が狂っていないかを見る。闇の中で、全身を耳に傾け、動作はゆっくりしているがリズム感がある。目を硬く閉じていて、それが彼女の特殊性を示しているが、簡湘綺の熟練した技術は、他の調律師と比べても遜色ない。

台湾には約5万人の視覚障害者がいるが、心の窓が閉じているわけではなく、より多くの雇用機会と訓練が得られれば彼らも社会に貢献できる。

もう一つの心の窓

簡湘綺は先天性の全盲で、幼い時は見えないことがどんなことなのか気がつかないでいた。ところが小学校に上がると、教室の一番前に座り、先生が黒板に字を書きみんなに読ませた。彼女には黒板に字を書く音は聞こえたが「一体みんな何をしているのかと思いました。見えなかったので」と話す彼女は、ずっと闇の世界にいたので闇が当たり前だったのである。その時になって初めて、自分が他の人と異なり、見えないのだと、世界の外に隔てられていることに気づいた。

8歳のとき、ピアノを習い始めた。自由に動き回ることができないので、調律師が調律に来ると、いつも側で聞いているしかなかった。そんな時、ピアノの中に小さな手を入れ、その震えを感じとっていた。

「調律というのはうるさいものですが、行くところもないので聞いているしかなかったのです」と笑うが、普通の子供より敏感に調律師一人一人の能力を聞き分け、ピアノの構造を理解した。鋭敏な聴覚と繊細な触覚が、その心の窓となった。

ピアノを学びながら、子供時代と青春期を過し、文化大学音楽学科に入った。しかし、ピアノに接するたびに不満が募っていった。調律師の調律する音がそれぞれ異なるので、聴覚に混乱をきたしたのである。そこでいつか、自分のピアノは自分で調律しようと心に決めた。

2004年、台北市視覚障害者家族協会が視覚障害向けのピアノ調律コースを設置した。簡湘綺はこれで食べていけると思ったわけではないが、自分のピアノが美しい音を出せればと、南投から台北に出て一人生活しながら、調律を学び始めた。

台湾ではバリアフリー環境は十分ではなく、目の不自由な彼女は、協会のマネージャーの付き添いを必要とする。

心を傾けて聞く

調律の第一歩は、重さ20キロのピアノの蓋（輸入のピアノはさらに重い）を開けなければならない。全盲の彼女にとって重いだけではなく、自分の足にぶつけそうになって怖い仕事でもある。次いでピアノの内部構造を理解する。30種類近くある調律用の工具を取り出し、音叉、調弦用チューニングハンマー、T型ハンマー、各種のウェッジ、ミュートフェルトなどを探し出しやすいように的確な位置に置き、鋭敏な聴力と正確な力で、数百の部品を叩き、音を調整していく。

簡湘綺が一番好きなのはフェルトハンマーの柔らかい触感だが、一端は鍵に繋がり、一端は弦を叩いて振動させるフェルトハンマーは、音の高低と音質を左右する。音を聞き損ねると、全部に影響してしまう。

見えないため、調律を学び出した始めた頃はチューニングピンを締め損ね、フェルトハンマーの角度を間違え、人の数倍の時間をかけて調整した。響板の留め具で指を切ったこともある。訓練課程についていくために、視覚障害協会の調律室で練習を重ね、一番美しく調律できた音を必死に覚えこみ、数時間も練習を続けた。また自分の調律を録音しミスを探し、他の調律師が調整した音と自分の音の正確性を比較し、それぞれを重ね合わせてみる練習もした。今では720時間の実務経験をもち、96％の完成度に達しており、国家ライセンスを取得して正式の調律師となれる日も近い。

調律のために、重さ20キロ、背丈ほどの蓋を開けなければならない。歯を食いしばり、注意深く作業をする姿に感動させられる。

ヨガで健康増進

見えないために聴力の重要性を痛感している簡湘綺は、耳を大切にする。騒がしい場所には行かず、道路脇には住まず、携帯は大声でしゃべらないし、観光バスのカラオケには耳栓で耳を守る。耳がとても敏感になり、小さな音でも聞き分けてしまう。

しかし、調律の仕事は体力を消耗する。以前は運動嫌いで、持久力がなかったが、調律の仕事は長時間立ちっ放しで、響板や蓋を持ち上げるのは、150センチの小柄な彼女には相当きつい。しかも88個の鍵とハンマー、弦を何回も叩いて微調整しなければならない。1時間以上立っているのは普通で、不慣れな頃は、5時間以上立ち続け、体の節々が傷んだ。母の勧めでヨガを始め、毎日1時間ほど練習すると、体が柔軟になって、仕事もしやすくなったし、健康にもなった。

台湾には約5万人の視覚障害者がいるが、心の窓が閉じているわけではなく、より多くの雇用機会と訓練が得られれば彼らも社会に貢献できる。

運命を手につかむ

正式に仕事を始めてから今まで2年余りで、簡湘綺はすでに500台余りのピアノの調律を手がけた。一番うれしいのは、お客が彼女の専門的技術を信頼してくれることで、時には引き止められ、食事をご馳走になることもある。まるで古くからの友人のような気持ちになる。ある時、協会のボランティアの人手が足りず、彼女の付き添いを出せないことがあった。そんな時、お客の方から駅まで迎えに来てくれて、彼女を感動させた。また一度などは遠く苗栗まで、外国人の家庭に調律に出かけたことがある。視覚障害者の方が音が正確だと考えてくれて、色々励ましてくれた上に、お昼ご飯もご馳走になった。さらに興が乗って何曲か演奏し、和やかな雰囲気に心が温まった。

調律でも、おかしなことにめぐり合うことがある。簡湘綺はピアノの中から木屑、ボールペンの芯、小銭、時計、クリップ、写真からダイヤの指輪まで見つけたことがある。ある時、部屋の改装工事のときに、2センチ足らずの電線の切れ端がピアノの中に落ちてしまったらしい。簡湘綺がどれほど調整しても雑音がするので、ピアノの中を2時間余り探して、ようやく雑音の元の切れ端を見つけることができた。あの時は2時間立ち詰めで、本当に疲れたと彼女は話す。

自分は全盲ではあるけれど、仕事に努力し、自分で食べていくのは当然のことだと、簡湘綺は考えている。学生時代の頃から、社会の競争のプレッシャーを感じていたので、一般人の基準で自分を律してきた。「私たちは目は見えはしませんが、世界のすべてを失ったわけではないのです」と、自分を励まし、すべての視覚障害者にエールを送っている。