心の中の教会
それでも、小さい頃からあこがれていた人物の取材のために、勇気を出して半壊した自治政府の門に向かっていった。「外の殺伐とした空気に比べると、中はわりとリラックスしていました」と彼女は思い起こす。対立に慣れきっていたのか、守衛の兵士は銃を壁に立てかけて卓球を始めていて、彼女が歩いていっても、大して注意しなかった。
張翠容が来意を告げると、守衛の一人が身分証明書や持ち物を調べてから、アラファトの参謀に紹介してくれた。数週間の軟禁の後のことで、張翠容の東洋人の容貌は、この時も世界の多くの人がこの一角の情勢を注視していると思わせ、彼らを勇気付けるものだったようである。参謀は直ちにインタビューを手配してくれた。
「彼らについて破壊されたビルの中を通り、血のついたマットで一夜を過ごし、翌日アラファトにインタビューできました」と、張翠容はその一刻の印象を思い起こす。イスラエル軍が恨み骨髄に達するこの老人は、彼らの質問にお構いなしに、自分の主張のみを繰り返していた。
「かつては建国のために手段を選ばなかった辣腕の政治家も、やはり年老いていました」と、インタビューはできたものの、張翠容の口調には失望を隠せない。
「タリバン時代のアフガニスタンでは、あやうく銃殺されるところでした」タリバン政権は動くものの撮影を禁止していたのだが、カブールに着いたばかりでカメラを手に街を取材していた張翠容はそれを知らなかった。
ほどなく宗教警察(イスラム教国で戒律違反を取締る)が、東洋人女性の違法撮影に気づいて、逮捕しに来た。
「その後、保釈に来たカナダ大使館(張翠容は香港とカナダの二国籍を持つ)館員から、こういう場合、宗教警察はその場で射殺できると聞かされ、地獄から引き戻された感じでした」と話す。
戦地を行き来する張翠容は度胸もあるし、その場で臨機応変に対応できるが、ジャーナリストとして堅持する原則もある。
多くの場所に出かけ、記念品も多いだろうと言われるが、戦争に関する物品、パレスチナゲリラがくれる薬莢も、イラク人が贈る廃墟の石像の破片も、全部断っている。写真とストーリー以外に持ち帰るものはないという。
また、取材相手を保護する義務も尽くさなければならない。
2002年、アラファトを取材してから自治政府ビルを出ると、イスラエル軍に取り囲まれ、中の状況を探るため写真の提供を求められたが、彼女は断った。「イスラエル政府発行の取材許可を取り出して、ジャーナリストには取材相手の保護義務があると主張し、ようやく解放されました」と言う。