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台湾の順天堂は科学的に製造した漢方薬で有名だが、創設者の許鴻源が「薬は人身を癒し、文化は人心を治す」という理念で、台湾芸術家の作品を生涯をかけて収集したという事実はあまり知られていない。名利を追わず、貴重な文化遺産を残すことを求めた。そのコレクションは許鴻源の心を受け継ぐ人々によって数十年守られ、ついに今回アメリカから台湾へと戻ってきた。台湾がより良くなるのが彼らの最大の願いだからだ。
「順天コレクションは愛の物語です」と順天美術館の陳飛龍館長は言う。許鴻源は最初は芸術家を愛する心からコレクションを始め、やがて台湾に文化遺産を残すという理想を抱くようになった。1991年に死去した後も彼の夢は続いている。息子の許照信が父の遺志を受け継ぎ、家族で作品を守ったのだ。許鴻源の愛と許照信の意志で、この理想が実現したと言える。
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許鴻源(左)は、台湾の貴重な文化遺産を後世に残そうと、生涯をかけて台湾の絵画を収集してきた。写真は画家・李梅樹の作品「許鴻源博士夫婦」。
すべては愛から
1953年、順天堂薬廠創立者である許鴻源が友人の廖継春の作品を買ったのが始まりだった。廖継春の勧めもあり、許鴻源は作品を買うことで芸術家たちの創作を支えた。1950年代の「5月画会」の発起人の一人である郭東栄が日本留学する際も、許鴻源が郭の絵画を購入することで資金援助したので、10作余りがコレクションされた。画家に対する尊重から、有名でなくても決して値を下げず、また作品の資料も細かく作成した。芸術家とやりとりした手紙まで丁寧に残されている。娘の許純真は笑いながら「父はよく師範大の学生の展覧会を見に行っては、こっそり母の小切手を持ち出して学生から絵を買っていました」と言う。
最初は芸術への愛だった。だが自らの事業が成功するにつれ、許鴻源は「台湾人の一人として愛する台湾のためにどんな貢献ができるだろう」と考え始め、そしてできる限り台湾の画家の作品を収集しようと決心した。謝里法の著作『日拠時代(日本統治時代)台湾美術運動史』を参考に、1979年からは系統的に同著に挙げられた芸術家の作品を収集の範囲に加えた。
成功大学歴史学科名誉教授、そして「順天コレクション帰郷展」のキュレーターでもある蕭瓊瑞はこう説明する。1950年代の台湾は社会情勢も不安定で何かと困難な時期だったが、まさにそういう時期に許鴻源は作品収集を始めた。台湾初の公的美術館である台北市立美術館が1983年の設立なのに対し、許鴻源の行動は30年も早く、公的機関のコレクションの欠如を補った。
許鴻源は米国移住後も台湾を気にかけ、梅丁衍、薛保瑕、許自貴など米国在住の若い芸術家を、作品を買うことで援助してきた。これら芸術家たちは現在、台湾の美術館や芸術大学で要職につき、台湾の芸術発展に関わっている。コレクションからはそうした芸術家の発展もわかる。
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許照信(一番左)と陳飛龍(一番右)はアメリカに順天美術館を設立し、ともにコレクションを守ってきた。写真は、順天のコレクションが帰郷する前に開かれたお別れの展覧会。美術史研究者の蕭瓊瑞(中央)も招かれた。(蕭瓊瑞提供)
発展し続ける夢
晩年に癌を患った許鴻源は残された時間を知り、さらに積極的に絵画を収集した。ある日新聞を読んで、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で陳飛龍の展覧会があることを知る。陳飛龍は幼い頃に台南の拘置所の近くに住んでおり、夜明け前に銃殺刑の音が聞こえてくることがあった。米国移住後に二‧二八事件や美麗島運動など台湾の社会運動について詳しく知った彼は、彫塑作「黎明時刻」を生み出した。自由民主を求めて勇敢に抗争した者が自らの命が尽きようとする瞬間に感じる恐れや不安を、陳飛龍は歪んだ3枚の顔で表現し、台湾がかつて味わった苦難を象徴させた。作品にあふれる台湾への思いに許鴻源は感動し、陳飛龍にコレクションしたいと申し出て、順天の漢方医薬研究所に陳を招いた。
事務所に来て、ずらりと並ぶ作品を呆然と見渡す陳飛龍に対し、許鴻源は親し気に自分の夢を話した。「これらは許家の財産ではなく、いつか台湾に返すものです」酸素ボンベをつないだ、目の前の老人がかくも大きな願いを抱いている。陳飛龍は「彼が本題に入る前に、もう私は彼の夢に足を踏み入れていました」と言う。
二人は瞬時に友となり、許鴻源は自分の彫像を作ってほしいと陳飛龍に頼んだ。自分の夢が実現するのを見届けたいからだと言う。そんな彼に、陳飛龍は夢の実現をできるだけ援助すると誓った。それから1年余りで許鴻源は死去、夫人の許林碖と息子の許照信が遺志を継ぎ、美術館建設を考えた。陳飛龍は建設準備を無償で手伝い、展示室の間取りなども自ら行った。1993年、順天美術館が米カリフォルニア州アーバインに設立された。最初の展覧は「美麗島上的新美術運動」をテーマに許鴻源のコレクションが公開された。
順天美術館は無償で台湾の芸術家の展覧会も催す。芸術家たちは許鴻源の生前の願いに感動し、展覧会後に作品を寄贈することもある。廖修平、洪瑞麟、鄭栄得の作品のいくつかはこうして順天コレクションとなった。許鴻源の生前の言葉「私は永眠しても夢を見続ける」がかなった。
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国立台湾美術館で開催された「海外の宝:順天美術館コレクション帰郷展」では、台湾の芸術家の素晴らしい作品が多数展示され、人々の台湾への思いを高めている。
緑の光に導かれ
コレクションを守って20年余り、許照信と陳飛龍は「これは我々の財産ではない。台湾の状況が好転すれば台湾に持って帰ってくれ」という許鴻源の言葉を忘れず、その時期を探っていた。
ついに2017年、当時の文化部長(文化相)の鄭麗君と知り合い、彼女が「台湾美術史再構築を進めたい」と考えていることを知る。その考えに敬服し、順天コレクションを文化部に寄贈して彼女の理想を支援することにした。
ことが順調に進むよう、鄭麗君は自費で米国まで赴き、許照信と細かくプランを練って寄贈意向書も受け取った。陳飛龍によれば、当日長い話し合いの後、一行はロングビーチの浜辺に夕日を見に出かけた。その際に鄭麗君が「沈む夕日が最後に放つ光は緑色で、その緑の光線が見えた人は幸福になる」という伝説を語った。一行は期待して水平線を眺めたが、急に黒い雲が現れて遮ってしまった。だめかと思ったその時、まさに雲の層の影響で、2本の緑の光が出現したのである。「1本は自分の幸福、もう1本は台湾人の幸福です。緑の光線のおかげで鄭部長も順天コレクションを持って帰国されました」と陳飛龍は笑った。
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内容豊富な順天コレクション。一世紀以上にわたる台湾の芸術作品が網羅されており、台湾美術史にとって極めて貴重なコレクションである。
台湾史に残る絵を
2019年、順天コレクション帰郷の披露記者会見で鄭麗君はこう挨拶した。「許博士は40年も前から我々のために再建計画を立てておいてくださいました。コレクションの帰郷が、我々のこの国を呼び覚まし、我々が自らを知ることができるように、自らについての完全な記憶を持つことで、我々が自らの魂を持てるようにと」
1年にわたる修復や整理の後、コレクション管理を任された国立台湾美術館は「海外の宝:順天美術館コレクション帰郷展」を催した。キュレーターの蕭瓊瑞によれば、順天コレクションは、1871年の石川欽一郎から1980年代生まれの新世代アーティストまで1世紀以上にわたる計195名の作品を有する膨大なものだ。そこでアーティストの出生年に従って四つの展示エリアに分けた。1920年以前の「蓊鬱」、1921~1935年の「豊采」、1936~1944年の「斐然」、1945年以後の「初炳」だ。展示に従えば長い時空を歩くのと同じで、台湾美術史や、台湾人が各時代をどう生きてきたかがわかる。
コレクションの幅広さがわかるよう、蕭瓊瑞は芸術家1人1作を原則に、芸術性や特殊性も考えて200点余りを展示した。例えば第1展示エリアの廖継春の「公園一隅」は、台湾伝統劇の歌仔戯でよく見られる赤、黄、緑などの鮮やかな色を用い、生き生きと春の風景が描かれている。
絵を大切にし、一生売らないと決めていた李梅樹は、許鴻源が幾度も足を運び、しかも胃病治療にと漢方薬も携えてくれたことなどに心動かされ、許鴻源に3作品を譲っただけでなく、許鴻源夫妻の肖像画も描いた。蕭瓊瑞によれば、印象派の登場以降、画家は写真のように忠実には描かないのが原則となったが、李梅樹はその慣例を破って写実的に描いた。しかも西洋でスーパーリアリズムが起こる10年近くも前のことだ。
エスニックや出自に関らず、許鴻源にとっては誰もが「自分たち」なので、中国大陸から台湾に来た画家の作品も多く集めた。例えば「耳氏」のペンネームを持つ陳庭詩が台湾のバガスボード(サトウキビ搾汁後の残渣で作った板)で作った版画「日與夜/太陽與月亮」は、抽象的なトーテムが赤、黒、金で表され、バガスボードによる荒い質感が加わって力強い作品だ。「モダンながら伝統的、またナチュラルながら文化も感じられる。宇宙空間での大衝突のようなものを感じさせるパワフルな作品です」と蕭瓊瑞は解説する。
世代をまたぐ順天コレクションは美術史の発展のさまをより明らかにする。第4展示エリアの芸術家は戦後生まれ、台湾の政治経済の発展を見てきた世代で、自由民主のテーマを扱っても題材や形式は奔放だ。例えば梅丁衍はミクストメディアによる内省的な作品を得意とするが、米国滞在中の作品「為什麼小提琴殺了琴師(なぜバイオリンはバイオリニストを殺したか)」は、バイオリンが弓矢になっており、深い寓意を持つ。
1980年代生まれの鄭栄得は米国在住の華僑二世だが、彼の作品「Pec-tioh、無路可退(退く道なし)」は、かつての台湾民主国の黄虎旗の描かれた黒衣を身につけ、顔半分を動物の仮面で覆った若者の立ち姿で、台湾史の再考が感じられる。蕭瓊瑞はこう考える。台湾は今やルネサンスを迎えており、芸術家は輝かしい歴史や文明の証しとされるべきである。順天コレクションによって台湾の人々が同じスタートラインに戻り、互いを理解し受け入れることで、台湾は新たに一つのまとまった文化の時代を迎えられるのだと。
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許鴻源はすべての作品をカードで記録し、関連する報道記事や書簡なども整理しており、これらは貴重な研究資料となる。
夢を大きく、台湾をより良く
新型コロナウイルス感染拡大で美術館は展示を中止したが、国立台湾美術館はオンライン‧ギャラリーを開設した。360度のパノラマビューが楽しめ、作品をクリックすれば解説も読める。またサイト内に順天コレクションのページも設けた。作品や資料のデジタル化によって、作品や芸術家、文献などを調べることができる。
思わぬ効果もあった。鉱夫画家として知られる洪瑞麟の息子、洪鈞雄が陳飛龍を仲立ちに、父の作品の寄贈を申し出たのだ。美術館では修復と研究を進行中で、来年の展覧会を計画している。
同美術館典蔵チームの責任者、薛燕玲は画家の子や孫に対し、「家に置いた作品は自分だけしか楽しめないが、国に寄贈すれば国民全体の財産となり、展示することで作品の影響力は連綿と続く」とよく言う。一方、許照信は「コレクションを台湾に帰したのは、まるで娘に良い婿を見つけたようなもの」と言う。からっぽになった倉庫を見ると、娘が嫁いだ後のようで寂しい。だが彼女のより良き将来を思うと、喜びを感じると。
ここ数年、台湾美術史再構築はさまざまに展開されている。かつて活躍した芸術家の展覧会も次々と開かれ、各方面の注目を浴び、話題となっている。芸術作品によって台湾の歩みを振り返り、そこから今後歩むべき方向を思索する。それが今の世代の学ぶべきことなのかもしれない。
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写真は芸術家・郭東栄が許鴻源に宛てた直筆の手紙。
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「公園一隅」廖継春(1902-1976)
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「廟前」陳進(1907-1998)
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「戦後(三)」陳澄波(1985-1947)
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「渡船」席徳進(1923-1981)
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「月」金潤作(1922-1983)
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「討海人(漁師)」陳輝東(1938-)