鉄板一枚から始まった店
万華の昔を知る柯得隆さんは、万華コミュニティ・カレッジの刊行物に文章を書き、清代の末期にここが物資の集散地だったことや日本時代の遊郭文化、国民党政府が移ってきた頃の様子などを紹介しており、カレッジの学生たちを案内して説明することもある。運がよければ、店で話が聞けるかも知れない。そして母親の阿猜さんの屋台人生も、艋;舺;の歴史物語の一つなのである。
第二次世界大戦後、若かった阿猜さんは柯家に嫁入りした。舅姑に仕え、子供を育て、家事を切り盛りする他に、姑の米漿の屋台を手伝い、その間に料理の腕をあげていった。
6人の子供が産まれ、姑は高齢になり、家計の負担が重くのしかかった。1965年、阿猜さんは2尺四方の鉄板を買い、芋粿;(タロイモの餅)を油で焼く朝食の屋台を始めた。その後、米台目(米粉の麺)や揚げウナギなどのメニューも加え、屋台もコンロ1つの2輪のリヤカーからコンロ3つの4輪に変わり「芋粿;おばさん」として知られるようになった。幼かった柯得隆さんも、夜が明けないうちから起こされて、コンロの火を熾した。
1976年、兵役を終えた柯得隆さんは母親に、朝食ではなく人出の多い昼食や夕食、夜食の屋台をやった方がいいと提案する。当時、父親は退職し、兄弟の多くも学校を卒業していたので屋台を手伝うことができた。そこで餃子や牛肉麺にお酒も出すようにし、店は繁盛した。
だが、昼と夜の入れ替わった生活を3年続けると、収入は増えたものの、家族の多くが身体を壊してしまった。そこで薄利多売路線を止め、弟と母親が海鮮料理の店をやり、他の兄弟は就職することにした。ところが思いがけないことに、家に残って親と一緒に商売をしていた弟が酒の飲みすぎで肝硬変になり、37歳で亡くなってしまった。今の新しい店の壁には、その弟が6歳の時に屋台のリヤカーの前で撮った写真が飾ってあり、家族の思いが伝わってくる。
その後、父と母は健康と体力を考えて、もっとシンプルな料理を出す店に切り替えた。こうして今の甘いスープと白玉の店が誕生したのである。1982年に店の看板を「阿猜嬤;」に変えてから20年余り、阿猜嬤;の甘いスープのおいしさは広く知られるようになった。
華西街の地域改造はまだ十分な成果をあげていないが、リニューアルした老舗の商売は軌道に乗りつつある。明るい街灯が観光客を引き寄せるからだ。40年の歳月にわたり、阿猜嬤;は華西街の浮き沈みを見守ってきた。今はその息子があとを継ぎ、甘く香り高い落花生スープの味とともに華西街独特の味わいを伝えている。
阿猜嬤の白玉入り汁粉や落花生スープ、肉餡入り白玉スープは身も心も暖めてくれる。
柯得隆さんは、若くして亡くなった弟と屋台のリヤカーの写真を引き伸ばして店に張り、大切な思い出にしている。(柯得隆提供)