ウィリー・ウォンカの作るチョコレートにも負けず、マルセル・プルーストの物語に出てくるマドレーヌにも劣らない。台湾の甘い味わいは台湾式の焼き菓子に込められている。ローカルの風土と食材を練り込むことで、伝統的な中華菓子に次々と新たな生命が吹き込まれ、台湾だけの記憶と味わいを醸し出している。
『我的幸福糕餅舗(私の幸せな菓子店)』を著した張尊楨は、台湾各地の菓子店を巡り、台湾の焼き菓子の特徴を六つにまとめた。――地域の味、年中行事の味、吉祥の味、人情の味、時代の味、敬虔の味というものだ。これらの中には味覚の体験があるあるだけでなく、じっくりと味わうべき物語もある。
台湾の焼き菓子の製造工程は繁雑だが、そこには独特の美学がある。
甘さ:昔の宗教とのつながり
台湾の食文化を研究する学者の曾品滄は、「砂糖と菓子の生産には密接な関係があり、宗教とも大きな関りがある」と述べている。サトウキビからの砂糖生産は古くはインドに記録があるが、インドは仏教発祥の地でもある。僧侶たちは砂糖で菓子を作り、多くの人を寺に集めた。後に仏教が中国に伝わると、寺院はやはり甘いものを利用して信者を集めた。寺院には精進料理(斎食)の食堂も設けられ、遠くからやってきた信者に甘いものを提供し、これが人気を博した。こうして仏教寺院から精進料理の厨房が独立して周辺に菓子店が並び始め、参拝に訪れた人々が土産に買っていくようになった。多くの菓子店の店名に「斎」の字が入っているのはこのためだ。
こうした習慣は、仏教だけでなく道教や民間信仰にも広がってゆき、さまざまな時節や行事に合わせた菓子が作られていった。このように、菓子には神仏へお供えするため、そして自分たちが食べるため、という二つの役割があり、供物でもあり贈答品でもあった。台湾でも年配の人なら経験があるように、昔、甘い菓子は祭りや行事の折にだけ食べられる幸せの味だったのである。
「緑豆椪」は片面だけを焼くため、上部がふっくらと膨らんでいることから「椪(ポン)」と名付けられた。
菓子がつなぐ人間関係
台湾においては、菓子には人間関係をつなぐという役割もある。「昔の台湾では武装闘争が頻繁にあり、出身地が異なる人々の間で衝突が絶えなかった。しかしそれと同時に、他者に好意を示し、エスニックの融合を図る方法も生まれたのである」と曾品滄は言う。こうして春節や中秋節に菓子を贈る習慣が生まれた。
また、娘を嫁に出す時には客を宴でもてなすが、これに対して招かれた客はご祝儀を持っていくことになる。これを申し訳ないと思う主人側は「婚約の菓子をお持ちしましょうか」と相手に尋ね、失礼にならないように互いの関係を確認する。今日のような連絡方法がなかった時代、台湾人は昔ながらの方法で交流し、互いを行き来して関係を維持していたのである。「これが私たちの礼儀作法の一部となり、人と人との関係を深め、確立する手段となったのである」と言う。
「緑豆椪」は油と生地を幾層にも重ねた皮で、緑豆ペーストや肉などの餡を包んだ台湾の焼き菓子だ。
日本統治時代以降のイノベーション
初期の頃、広東の潮州、汕頭、福建の漳州、泉州などから多くの人が台湾に移住し、それぞれの地域の菓子が持ち込まれ、さまざまな菓子文化が生まれた。1895年から日本による統治が始まると、それまでの台湾伝統菓子の職人も日本人の口に合う菓子を作り始め、日本に菓子作りを学びに行く職人もいた。台中の「顔新発」や「宝泉」などは日本から西洋菓子の思考を持ち帰り、焼き菓子に取り入れた。この段階について曾品滄は「最も重要なのは日本で数々のコンクールが開かれ、台湾らしい商品が求められたことだ。そこで台湾の職人は懸命に新しい菓子を開発して日本のコンクールに出品し、それらが台湾土産になった」と述べている。
台湾各地の菓子店を訪ね歩いてきた張尊楨は、台湾菓子への外国からの影響をこう語る。例えば澎湖の「黒糖糕」は日本の沖縄の「琉球粿」の技術を取り入れたものだし、「花蓮薯」は台湾のサツマイモと和菓子を絶妙に組み合わせたものである。また淡水の「三協成餅舗」は親戚がイギリス領事官で働いていたことから、西洋のパイを台湾の焼き菓子の生地に取り入れた。鹿港の「玉珍斎」はアズキが好きな日本人の味覚に合わせ、「紅豆粒」を打ち出した。「中国の伝統を持ち込んだだけでなく、そこに新たな創意を加えるとともに、地元の食材を用いてさまざまな焼き菓子を生み出し、台湾の特色として発展していった」と曾品滄は述べている。
伝統的なパイナップルケーキには、パイナップルと冬瓜をうまく融合させた餡が使われている。
さまざまな台湾の菓子
では、台湾の菓子とはどのようなものなのだろう。張尊楨の答えは「台湾の菓子には二種類ある。一つは皆とシェアする菓子、もう一つは神のご加護を祈るための菓子である」というものだ。「台湾の菓子は一人で食べきるものではなく、切り分けて多くの人と分かち合うものなのである」とある。確かにその通りだ。昔の焼き菓子は重さを指定して注文するもので、決して一人で食べきれる大きさではなかった。
台中大甲の「奶油酥餅(バターパイ)」の元祖である「裕珍馨」の三代目、陳穎政によると、酥餅というのは台湾中部で昔から婚礼の際にホスト側が、来客や地域の人々に贈ってきた焼き菓子の「喜餅」を指す。ホスト側は祝宴に来てくれた人々にお返しとして焼き菓子を贈り、また地域の人々にも配って喜びを分かち合った。
「菓子の多くは祭祀と関わっている」と張尊楨は説明する。供物としての菓子は神々とつながる媒介であり、時節や祝い事によって供えられ、無病息災を祈る意味が込められていた。神仏に供えた後は家族や友人と分かち合い、神の祝福をともに感謝したのである。
「裕珍馨」の第5世代のバターパイ。パイ生地の部分がハチの巣状になっているため崩れにくい。
緑豆椪(緑豆パイ)
「緑豆椪(緑豆餡を包んだパイ)」は、丸く膨らんでいることから、「椪(ポンと読む)」と付けられたが、この菓子は思いがけないことから誕生した。
早朝に「老雪花斎」の工場を訪れると、すでに甘い香りが漂っていた。職人たちは生地をこね、手で餡を包み、オーブンへ入れていく。中では生地が膨らみ、外皮が少し裂けて薄い雪のように見える。ここから老雪花斎の創業者である呂水(阿水師)が「雪花餅」と名付けたのが、百年の歴史を持つ「緑豆椪」である。
初めて緑豆椪を販売したのが台中市豊原にあるこの「老雪花斎」だ。創業者の呂水は、広東省汕頭派の職人である陳踀に師事し、豊原の有力者だった陳徳全に認められて資金援助を受けて店を出した。その三代目となる呂弘仁が、緑豆椪誕生の由来を話してくれた。
緑豆椪は、油を練り込んで幾層にも重ねた生地で緑豆餡や肉を包んだ台湾菓子だ。「台湾菓子の特色は皮が薄く餡が多いことです。餡はそのままでも食べられるようあらかじめ火を通してあるので、生地が焼ければ完成します」と言う。昔は焼き窯の火のコントロールが難しかったため、職人は窯を見守っていなければならず、裏返しながら均等に火を通すのだが、時には何個か裏返すのを忘れてしまうこともあった。
裏返すのを忘れて片面だけを焼いた菓子の上半分は大きく膨らみ、下の面は白いままだった。呂水(阿水師)はこの見た目は面白いと思い、試作を繰り返した。それと同時にサイズを小さくし、緑豆のこし餡だけを包むようにした。その試作品をお客に出してみると、興味深そうに質問してきた。そして阿水師の妻が、膨らんだ形がピンポン玉に似ていることから「緑豆椪(ポン)」と呼んだところ、それが広く知られるようになったのである。そして1925年(大正14年)に台中で開かれた「台湾区糕餅展」に出品し、多くの和菓子と競い合った末、銅賞を獲得した。
緑豆椪の餡も変化してきた。かつては地元で採れるサツマイモの餡を入れていたが、後に緑豆のこし餡に変わり、そこに豚の脂身を一切れ入れるようになった。時代が進むにつれて、ひき肉を入れる店も出てきた。今日、台湾の菓子店において緑豆椪は欠かせない商品である。店によってそれぞれ餡や焼き方に工夫があり、まさに台湾式の月餅と言える。
従来の奶油酥餅(バターパイ)のサイズは直径15センチあり、人とシェアするのによい大きさだった。「裕珍馨」は航空会社と協力し、機内食用の直径6センチのものも打ち出した。
パイナップルケーキ
パイナップルケーキ(鳳梨酥)は、鳳梨(パイナップル)の台湾語が「旺来」というおめでたい言葉の発音に似ていることから有名な台湾土産になり、「外貨を稼ぐ小さな金塊」とも呼ばれるようになった。パイナップルケーキは台中で生まれ、それを改良し発展させたのが百年の歴史を持つ老舗「顔新発」である。
顔新発の四代目は顔栄慶。曽祖父の顔瓶の時代に焼き菓子店を始めた。祖父の顔樹木は日本で修業した経験を持ち、パイナップルケーキを改良した人物である。顔栄慶の話によると、それまでのパイナップルケーキは大きな円形だった。それを祖父が小さな四角い形に変え、さらに生地の部分をバターをメインとしたクッキー生地にしたのである。パイナップルと冬瓜で作った餡は昔から変わらない。「パイナップルは繊維が粗く、酸味と渋みがあります。祖父の時代の人々は柔らかいものを好んだので、冬瓜を加えて餡をしっとりさせたのです」と妹の顔欣平が説明する。こうしてできた小さく四角いパイナップルケーキが、誰もが知る台湾菓子になったのである。
2009年、「微熱山丘(サニーヒルズ)」が台湾原種のパイナップルを用い、自然のままの繊維と酸味、渋みを活かしたパイナップルケーキを発売したところ、それが大きな話題となり、ブームを巻き起こした。顔栄慶も一度はこの流れに乗って原種パイナップルを使ってみたがが、店の馴染み客からは、やはり昔ながらの「柔らかく、しっとりした甘い味」の方がいいと言われ、自信をもって従来の味に戻したという。
最近は、それぞれの店が独自の配合のパイナップルケーキを打ち出すようになった。塩卵の黄身を加えたものやパイナップル以外のフルーツの餡を包んだものなどがある。生地もバターの風味を好む人もいれば、卵の香りを好む人もいる。百年の歴史を誇る「老雪花斎」では、昔のまま生地にラードを練り込んでサクサクに仕上げている。
失敗作もたくさん食べてきた顔栄慶はこう話す。「焼きたての時は香りが強すぎるので、1~2日置いてから、お茶と一緒に召し上がってほしいです。天然のバターとミルクの香りを楽しみ、口に残る後味を味わってください」
奶油酥餅(バターパイ)
酥餅、麦芽餅、太陽餅の区別がつかない人もいるだろう。「奶油酥餅」を生み出した「裕珍馨」三代目の陳穎政によると、物故した文化歴史学者の林衡道はかつて「酥餅は太陽餅の祖父」と位置付けたそうだ。
林衡道の調査によると、先人たちが大陸から台湾海峡を渡ってきた際、一緒に故郷の媽祖像を持ち込み、故郷で媽祖様にお供えした閩式(福建南部式)の焼き菓子を持ってきた。こうして閩式の焼き菓子が台湾に伝わったのである。
こうして酥餅は台湾中部の沿海地域に広まり、それがしだいに内陸部にも伝わり、物産の豊富な豊原一帯で、麦芽糖を生地で包んだ「麦芽餅」へと変化した。
麦芽餅は「太陽餅」の前身で、文献によると、阿明師と呼ばれた魏清海が酥餅を改良して「太陽餅」を開発し、それが台中銘菓となった。今では自由路に太陽餅の店が軒を連ねている。
台中大甲の鎮瀾宮の隣りにある「裕珍馨」は1966年の創業だ。陳穎政によると、祖父の陳基振は当時、菓子作りの門外漢だったが、三世代にわたる努力と研究の末、今では奶油酥餅は大甲の三宝の一つに数えられるようになった。
「現在の酥餅は第5世代です」と陳穎政は言う。どのように進化してきたのだろう。初代は重さで注文する伝統的な形だった。第2世代は規格化され、第3世代は生地の油をラードからバターへと変え、この時から「奶油酥餅(バターパイ)」と呼ばれるようになった。
第4世代はそこからさらに進化していった。人々の健康志向が進んで甘いものをあまり好まなくなったため、中華穀類食品工業技術研究所とともに研究し、甘みのもとを一般の糖類からオリゴ糖に変更した。こうして風味は変わらず、身体への負担は少ないものとなった。第5世代では、生地の製造工程を変更した。それまではパイ生地の部分が何層にもなっていて、ぶつかるとすぐに崩れてしまったが、蜂の巣の六角形の原理からヒントを得て、それをパイ生地の製作に応用したところ、大きく崩れることはなくなり、ハチの巣状の生地が生まれたのである。
伝統の酥餅の材料はシンプルで、ラード、小麦粉、麦芽糖だけである。しかし、裕珍馨がその酥餅にこれほど真剣に向き合うのは、かつて「1回の御神籤と6回の聖筊」という媽祖様のお導きがあって「裕珍馨」を始めたからである。
オーブンから出したばかりのパイナップルケーキ。やや不規則な形に手作り感がある。
台湾式の焼き菓子は中華菓子の伝統を受け継ぎながら、ローカルな食材と創意を加えることで台湾らしい特色を打ち出してきた。
昔の焼き菓子はシンプルで、小麦粉と砂糖の味だけだった。写真は昔ながらのニンニクを使った焼き菓子。甘い中にニンニクの辛味が効いている。
「顔新発」四代目の顔栄慶は、年配者の好む昔ながらのパイナップルケーキ作りを守り続けている。
「老雪花斎」三代目の呂弘仁は、「緑豆椪」は焼く時に途中で裏返すのを忘れたために生まれたという話をしてくれた。
「老雪花斎」のパイナップルケーキは、従来通り生地にラードを練り込んでサクサクに仕上げている。
昔は宗教が甘いもので信者を集めたことから、今でも寺廟の周辺には菓子店が集まっている。