
旧正月の元旦には何をしていただろうか。親戚や友人を訪ね、寺廟を参拝して福を祈願する人もいれば、寝正月で過ごす人も、昼夜マージャン卓を囲む人もいるだろう。
この日、実は台湾では数百人が、家族と大晦日の食卓を囲んでから、夜更けに元日マラソンに向った。
彼らは風雨に曝されながら、台南市公園から五股と将軍郷を過ぎ、北門郷南鯤鯓の代天府まで、通常のマラソンより長い48.6キロを走った。
マラソンは体格、年齢、性別を問わず、またそれほど技術も必要としない耐久スポーツであるが、数時間を走り続けるのでやる気がなければ続かない。台湾ではマラソンをする人が増え続けているが、なぜそんなに人気なのだろうか。
世界中の華人は様々な儀式やイベントで旧正月を祝うが、元日マラソンは台湾だけである。旧正月元旦の朝6時スタートの元日マラソンは、2008年に始まって今年で5年目である。
台湾人はマラソン好きである。2011年に台湾で実施されたマラソン大会は51回に上り、台湾マラソン史上最多となって、アメリカ、ドイツ、日本に次ぐ世界第4位である。
台湾のレースの多さから、ここ数年では中国大陸や香港・マカオのマラソンランナーの参加も目立つ。アモイのランナーが海を越えて金門マラソンに参加するし、今年2月中旬の新北市双渓桜花マラソンには、香港のマラソン協会が団体で参加したのである。

2012年、ウルトラマラソンが台北花博の会場で催された。48時間の耐久レースのために、主催者は補給エリアを設けた。
台湾のマラソンの歴史を振り返ると、2011年は確かに特筆に価する年であった。
この年に、台湾では珍しい夜間マラソンが開催された。台南星光マラソンは夜のスタートで、漁光島から安平運河、観夕平台などの景勝地を走るもので、発表されると評判となった。ネットの申込みは秒殺で、30分足らずで1500人の出場枠はすべて埋ってしまった。
中華民国の建国百年に、百キロのウルトラマラソンは欠かせない。高雄百キロマラソン、南部横断道路の関山百キロマラソンなど4つのウルトラマラソンが開催され、ランナー20名余りがこれらのレースに参加、人生で100回目のマラソンをした。
彼らは、中華民国建国百年の年に100キロを走り、さらに100回目の百マラソンと、一日に百が三つ重なると興奮する。
年末になると、12月には第3回を迎える台北国際マラソンが行われた。2011年は9キロ、ハーフとフルマラソンの3組に分れ、参加選手は計4万3000人を超える記録となった。台湾では最大規模のレースである。
当日は朝7時にスタートし、最後尾がスタートするときは30分経過している。この時、トップグループはすでに仁愛路、中山南北路の繁華街を過ぎ、緑豊かな川辺の自転車コースに差し掛かっていた。
涼しい気候に平坦なコースがあって、男女共にケニアの選手が優勝し、優勝賞金に加えてコース記録賞として200万台湾元を獲得した。この高額賞金は、ボストンなど世界の五大マラソンに引けを取らない。

2012年、新北市の双泰産業道路で行なわれた桜花マラソン。ランナーは満開の桜の中を走る。
台湾のマラソンを顧みると、この10年でレースの数も参加者数も安定的に増加してきた。
「現在、台湾では一年に50以上のレースが開催され、一部は企業スポンサーの冠レースですが、大部分は一般のクラブが主催しています。ボランティアも熱心で、補給品も種類が豊富で世界でも際立っています」と、新竹市マラソン協会の黄政徳顧問は話す。
かつて1980年代には、台湾のマラソンランナーは走りたくてもレースがないのが悩みだったが、今では海外のレースに行かなくとも、数年で100レースを達成できる。
現在、参加回数が一番多い黄政徳と呉宏綱の二人を例に取ると、1984年と85年に最初のマラソンに参加した。当初は国内のレースが少ないので、1986年からは海外に参加し、2003年の台北国際マラソンでようやく100レースを達成したのである。これに対して、呉宏綱は台湾でのレースを主としていたので、達成が3年も遅れた。
最近のランナーは、100レース達成も容易になった。澄清湖百信建材チームの女性ランナー賁俊蓮は、台湾人女性として最多の220回の記録を持つ。2003年の太魯閣マラソンが最初だったが、5年後に100レースを達成し、黄政徳の19年に比べると、わずか4分の1である。
TSMCの謝志宏は、禁煙後に太り出したため走り出した。最初はジムで走っていたが、その後マラソンに参加するようになりわずか37ヶ月で100レースを達成し、台湾で最短期間の達成記録となった。
去年の台湾の最多ランナーを挙げるとしたら、台湾大脚丫長距離走クラブの林宝鳳である。60歳に手の届く彼女は、2008年にマラソンを始め、今年の南部横断関山100キロマラソンを100レース目として狙っている。マラソン歴は短いが、去年は台湾で41回も参加し、参加数はトップクラスである。レースを練習代わりに走っているという。

古都・台南の古い町並みを走る奇抜な衣装のランナーが、カーニバルのような雰囲気を盛り上げ、学生たちは孔子廟の前で記念写真を撮る。
レースが多くなると、毎週走ることも珍しくなく、土日に続けて走るランナーもいる。澄清湖百信建材チームの蔡坤坡は、驚くべき連続マラソン記録を持っている。2010年10月30日に花蓮で100キロを走り、翌日は基隆マラソンを完走し、11月14日に遠東マラソンに参加してから、翌日は離島の澎湖マラソンを完走した。2011年初めには、元日に虎尾マラソンが終ると、二日には海を渡ってアモイマラソンに参加した。
台北、新北市、高雄と台南の自治体は、地名を冠したレースを開催しており、また国は太魯閣などで国立公園マラソンや国道マラソンを実施しているが、台湾でのレースの急増には民間のクラブが大きな役割を果たしているという。
たとえば新竹市マラソン協会の桜花マラソン、台東県のスーパートライアスロン協会の関山マラソンなど、広くランナーに支持されるレースである。
今年2月中旬に開催された第4回桜花マラソンは、参加者が3700人に達し、クラブ開催としては最大規模のレースである。双渓の旧市街を通り、双泰産業道路を抜ける沿線は、緑豊かで桜が満開となり、花弁が舞い落ち、台湾では一番美しいが難度も高いレースで知られる。
新竹市マラソン協会は、マラソンクラブや双渓地区の自治体と協力して、ボランティア400人を動員してレースを主催している。温家成理事長は、2年続けてレース開催を指揮したために、その苦労で数キロも痩せたという。しかし、痩せれば速く走れるのだそうである。

2004年の「阿嬌、時間ある?」のコマーシャルからマラソンブームに火がついた。写真は2012年の台南市古都マラソン。
ニューヨークシティマラソンでは世界から4万5000人のランナーがフルマラソン参加し、200万を超える観客が応援する。このレースは、ニューヨークに2億5000万ドルの経済効果をもたらすと見られる。
そこで多くの自治体が、マラソンのもたらす経済効果に注目し、高雄市は日本の那覇マラソンに倣って、2010年から高雄国際マラソンを始めた。
高雄のワールドゲームスタジアムをスタートとゴールにして、選りすぐりの観光スポットを通るため、市民からも支持されたレースである。
大都会のみならず、小さな町もマラソンの魅力に目覚めた。
屏東県里港郷では、里港ジョギングクラブの協力を受けて2010年に阿里湊マラソンを開催した。高額の賞金を出し、現地産の果物セットをお土産に配って里港の宣伝に努め、人気を呼んだ。2012年10月開催の次回のスケジュールが決まってからは、問合せが絶えない。
南投県信義郷の役所でも2011年に葡萄マラソンを開催し、高く評価された。補給所の補給品に甘い葡萄や有機栽培の野菜が置かれ、沿線の久美、羅娜、新郷などの原住民集落では、住民が歌や踊りで応援した。レースが終ると、ランナーや応援の観客が信義郷農協の経営する梅子夢工場にやってきて、あれこれと農産物を買って帰った。
新竹市双渓区の陳世銘区長は「マラソンが地方にもたらす経済効果を目にして、市に陳情して桜花マラソンへの支援を要請しました」と話す。将来的には、最も環境に優しい低炭素のイベントして桜花マラソンを位置づけ、ロハスな観光客を惹きつけたいそうである。

古都・台南の古い町並みを走る奇抜な衣装のランナーが、カーニバルのような雰囲気を盛り上げ、学生たちは孔子廟の前で記念写真を撮る。
国内でレースが増えてくるとランナーも増加するが、これには2004年から冠レースとして台北国際マラソンをスポンサーしてきたING安泰保険が大きな役割を果たしてきた。
この年、集中的に放送されたのが「阿嬌は忙しい」のコマーシャルで、知名度を上げた。これにレベル別のレース設定、百種を超える周辺商品を開発して無料で参加者に配るなどしたため、マラソンに興味のなかったランナーも惹きつけた。9キロから始めて、ハーフ、フルマラソンへと進んでいった。
去年の台北国際マラソンで、フルマラソンを完走した人数は4300人を超え、2003年の1000人から4倍に増えた。
近隣の沖縄県と比較すると、台北地区の人口は650万人と140万人の沖縄を引き離している。しかし沖縄と那覇マラソンの参加者はそれぞれ1万3000人と2万3000人で、しかも大多数が沖縄地元の人である。台湾のマラソンは、まだ発展空間が大きく残されていると言えるだろう。
10年前に、新竹市マラソン協会の永和クラブが開設したサイト「ランナー広場ネット」(www.taipeimarathon.org.tw)は、台湾のマラソン界で最も重要な情報交流の場で、マラソンの普及に力を尽くしてきた。
このサイトでは、台湾のマラソン参加の登録と調査制度を構築していて、2012年2月7日現在フルマラソン参加人数は4609人で、ランナーはフルマラソンを平均17.91回完走していて、100レース達成者は200人を超えている。

古都・台南の古い町並みを走る奇抜な衣装のランナーが、カーニバルのような雰囲気を盛り上げ、学生たちは孔子廟の前で記念写真を撮る。
余暇活動の中で孤独なスポーツといえば、マラソンとジョギングだろう。ランナーは自分の脈拍と呼吸を数えながら、しっかりした足取りで前に進む。
『走ることについて語るときに僕の語ること』は、60歳を超えた村上春樹の書だが、著者はここで走ることの意義と執筆の態度、人生哲学と年齢を重ねて考えることを語っている。
そこに語られていることは、誰もフルマラソンをすべて走り通せとは言わないが、それは原則の問題で、歩くような遅い速度でも、走り続けなければならないという。歩いてしまうと、それ以降は走れなくなるのである。もし墓碑銘があるのなら「少なくとも最後まで歩かなかった」と刻んでほしいと語っているのである。
1996年6月23日に、彼は北海道サロマ湖の100キロウルトラマラソンに参加し、完走できないのではないかという不安と、肉体的苦痛について語る。55キロまでは自信満々だったが、足の筋肉が強ばり始め、60キロを過ぎると苦痛が全身に広がった。前へ進もうと思うのだが体が言うことをきかず、意志の力だけで進んだ。世界が目の前3メートルの地面に凝縮したかのようだが、75キロを過ぎると何かを通り抜けたかのように、身体が別の側に抜けていった。
最後に、非常に安らかな幸福感に浸り、傍らの応援の声も透明な風が吹いていくかのように感じたと言う。
これほどに透徹した身体感覚は、実際に走った者でなければ分らないだろう。マラソンの世界には、「奇跡などなく、蓄積があるだけ」という名言が伝えられる。普段から訓練を続け、レースになれば一歩一歩積み重ねていく。マラソンの回数を重ねれば100レース達成も夢ではないが、それさえも最後の目標ではないのである。