1949年に国民党政権が台湾へ移ってきてから、金門と馬祖が反共復国の最前線となった。そのため、アモイと一衣帯水の金門地区は、かつて激しい砲撃にさらされた。中でも1958年8月23日に始まった「八二三砲撃戦」では驟雨のように砲弾が降り注ぎ、それから44日の間に、金門には47万個の砲弾が打ち込まれた。さらに、その後1978年まで続いた「月・水・金の砲撃」では50万余りプロパガンダの砲弾が打ち込まれ、金門は至る所、傷だらけとなったのである。
人の命を奪う砲弾だが、金門の人々は、それを用いて包丁という生活用品を作ってきた。ここからも、金門の人々の適応力としなやかさがうかがえる。
金門の砲弾包丁は「金合利製刀工場」が生み出した。代表者の呉増棟さんによると、呉家では包丁を作るようになって彼が三代目になる。かつて金門住民の多くは農業に従事していて、鉄製品の原料も多くなかったため、工場では主に農具を製造していた。日本統治時代の末期、物資は非常に限られていたために、彼の父親の呉朝煕さんが、連合軍の空襲によって得られた砲弾の殻を使って包丁や農具を作るようになった。そして1958年の八二三砲撃戦が始まってからは、金門地区では砲弾の殻が容易に手に入るようになり、呉家はこれを使って大規模に包丁を作るようになった。
砲弾に使われている鋼は品質が良いため、これで作った包丁は切れ味が良く、鋭い中にもしなやかさがあるため硬いものを切っても変形することはない。かつて、金門で兵役に就いていた若者たちは、台湾へ帰るとなると、記念に必ずこの包丁を土産として持ち帰った。こうして金門の砲弾包丁の名は、全台湾で知られるようになり「金門」の文字が刻まれた包丁なら、品質は間違いないと言われるまでになったのである。
呉増棟さんによると、最初の頃は、八二三砲撃戦で打ち込まれた砲弾の殻を使っていた。この砲撃戦では破壊力の強い爆発型の弾頭が使われていたため、砲弾を切る必要はなく、破片をそのまま使って包丁を作ることができた。その後の「月・水・金のみの砲撃」の時期に打ち込まれた砲弾は、プロパガンダの砲弾だったため、炸裂することはなく、全体をそのまま使えるようになった。
「金合利」が包丁の原料として砲弾を買い入れるようになったため、金門の人々は砲弾を拾い集めて売れるようになった。「最初の砲弾の仕入値は20元でしたが、今は数が減って、家の建て替えなどの時にしか掘り出されないために貴重品となり、砲弾一つが高い時で1000元ぐらいになります」と呉増棟さんは言う。
一つの砲弾から40〜60本の包丁ができ、金門には100万余りの砲弾があるため、この産業は数十年続くと思われる。
これまでは、中華包丁が中心だったために一般家庭での消費しか見込めず、また1本の包丁は何十年も使えるため、市場のニーズも限られていた。そこで砲弾包丁の市場を開拓するために、呉さんは肉切り包丁、ナタ、コレクション用ナイフ、万能ナイフなどの新しい種類も生み出している。中でも銅でできた砲弾を柄にした「八二三勝利記念包丁」は特別だ。「一つの砲弾から柄は3本しか作れないため、これは貴重なものです」と呉さんは言う。
「今は台湾市場がメインですが、小三通が実現すれば、これを大陸へ輸出することもでき、大きな意義があります」と、呉さんは期待を寄せている。