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かつては塩の乾燥場であった塩埕(えんてい)、この街は日本統治時代に実施された都市計画のもと、高雄随一の「盛り場」へと躍り出た。そして第二次世界大戦後は、輸入品の取引やアメリカ文化に触れられる窓口として変貌を遂げたという歴史を持つ。塩埕の発展の背景にはさまざまな巡り合わせがあった。しかし、その一つひとつが、高雄港との関係と切り離さずには語れない。
「高雄の2つの主要地区である哈瑪星(はません)と塩埕区は日本政府が作ったもので、今日の高雄の基礎は日本統治時代に築かれました」。書籍『高雄・港湾都市第1話:哈瑪星)』と『高雄一の盛り場:塩埕風』の作者・李文環さんを訪ねるとすぐに本題が始まった。
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邱さんが故郷に戻った理由は、「子供の頃に好きだった塩埕がなくなってしまいそう」という純粋な懸念だった。
日本人により作られた街並み
高雄港は古くは「打狗港」と呼ばれ、天津条約によって開港し、国際舞台に躍り出た。日清戦争後、台湾は日本の植民地となり、樟脳、砂糖、米など重要資源の日本への運送手段が検討され、まずは鉄道と商港が第一の選択肢となった。台湾北部から打狗港駅(現在の「旧打狗駅故事館」)まで縦貫鉄道が敷かれ、さらに港は土砂を取り除く浚渫作業がおこなわれ、その土砂で埋め立てられて現在の哈瑪星が誕生した。「打狗港駅は1900年に開通しました。第1期の埋め立てが1905年に終わると、港の貿易は安定的に成長し、1907年には打狗港の貿易額が安平港を上回りました」と李さんは高雄の発展の軌跡を振り返る。
商港がもたらした利益のおかげで、総督府は第2期の港湾建設プロジェクト(1908~1945年)を迅速に開始できた。哈瑪星の開発が徐々に飽和状態に近づいていたため、隣接する塩埕が第一候補となり、埠頭、倉庫、新市街地といった土地需要で塩埕は新たなタイプの街へと変貌した。
李さんの話を聞き、私たちは当時に思いを馳せた。その頃の船はいずれも砂糖や籾米を輸出するばら積み貨物船で、物資は麻袋詰めにされていた。港湾労働者が何回かに分けて積み降ろす必要があり、大量の労働力が必要だったため、仕事の機会がもたらされ、多くの人がやってきた。こうした労働者の多くは近隣の澎湖出身だったという。澎湖の漁民は、東北季節風のせいで秋から冬にかけて地元では漁に出られなくなるため、近くの打狗での出稼ぎを選んだのだ。時が経つにつれ、出稼ぎ労働者が定住者となり、高雄の移住者には澎湖出身者が最多となったというわけだ。
次は船の乗組員について、李さんがデータを引き合いに出し教えてくれた。第1期高雄港建設の完了当時(1912年)、少なくとも年間150隻の船が港に出入りし、1隻の船には約40人から50人の乗組員がいたという。1920年以降は、少なくとも年間600隻の船が港に出入りし、その結果、1万人規模の乗組員が入港したそうだ。港発展の主な人手として、乗組員や荷役作業員の消費力は過小評価できないという李さんの補足説明もあった。高給取りだった彼らは、仕事の重圧と海上生活の寂しさ解消のために、上陸後は、酒場や劇場などのある歓楽街で思い思いに娯楽に興じたという。それが塩埕の産業発展初期における主な力となり、また特殊市場の需要を発展させた。
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消費者市場として成り立った塩埕、庶民の軽食は市場に欠かせない光景だ。写真は大溝頂市場のサバヒー(虱目魚)ビーフンスープ。サバヒーの皮を魚のすり身で包んだもので、地元での遅めの朝食にぴったりだ。
「盛り場時代」の幕開け
これまでの歴史学者は、地方史を「生産」の観点から論じることがほとんどだった。だが李さんは、塩埕の場合は「消費」の観点から観察する方がより適していると考えている。
そして「盛り場」について、水稼業の店が賑わうにつれ、その周りに飲食店や小商いの出店などが並び始め形成されたという、日本の学者・沖浦和光氏の話を引き合いに出した。商港の存在は塩埕に労働力と商機をもたらした。日常消費にくわえ、歓楽街が発展し、大衆娯楽向け劇場も林立、続いて料理屋、百貨店などが集中した。
李さんは史料をひも解き、現代化した飲食、多様化したレジャー、華やかな商品といった観点から、塩埕の「盛り場」の姿を論じている。港の発展で街の人口が増加し、新たな公設市場ができた。フードストリートの出現は外食文化や楽しみとしての飲食の発展を示す。ライブスペースを備えた飲食店などの人気は、腹を満たすものだけであった食を文化レベルまで引き上げた。塩埕が時代の最先端であったことがうかがえる。
そしてコーヒーだ。1930年代の高雄のライフスタイルを反映して、多くのコーヒーショップが塩埕区に集まり、全盛期には21軒もあった。
日本統治時代、塩埕には高雄劇場、金鵄館、塩埕座、昭和館の4つの劇場があり、視聴覚エンターテインメントが飲食や流行を牽引していた。かつて塩埕町は「高雄の銀座」と呼ばれた、まばゆいばかりのショッピングエリアだったのだ。1938年に開店した高雄初の百貨店・吉井百貨は、地元では「五階建て」という愛称で親しまれ、台北の菊元百貨店、台南の林百貨店と並ぶ日本統治時代の3大百貨店のひとつだった。この頃、塩埕の消費需要はピークを迎えた。
「叁捌地方生活」(3080s Local Style) の創始者である邱承漢さんは、この界隈が栄華を極めていた時代に思いを巡らせながら、「当時の塩埕は今で言う台北市信義区でした」と例える。
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李文環さんは、塩埕が塩田から高雄一の繁華街へと変貌を遂げた過程を経済的な観点から論じている。
レア物ぞくぞく 船舶骨董店
船舶解体産業は塩埕の歴史のひとコマだ。第二次世界大戦後、高雄港には沈没船が多く見られ、政府は民間による引き揚げ、解体、営利目的での転売を許可していた。船が解体された後の各種鉄材、機械部品、金属スクラップなどは、需要のある所に転売され、高雄の船舶解体産業のはしりとなったのだと、李さんが続けて教えてくれた。その後、業界は解体の利益を見込んで、海外から廃船を輸入するようになり、高雄の船舶解体産業は20年あまりにわたって繁栄した。だが安全性の問題や環境汚染が原因となり、政府が船舶解体埠頭を回収することになり、産業は1980年代に最盛期から衰退へと転じてしまう。
年輩の世代は、公園路の金物通りが船舶解体業の周辺産業で賑わっていた様子を覚えているだろう。そして現在、船舶解体が栄えていた時代を振り返ろうと、私たちは愛河のほとりで「航海骨董商行」を営むコレクターの黄道明さんを訪ねた。骨董品が山積みになっており、わずかに通路が残されているだけの店内で、「私はこの道50年以上です」と黄さん。コレクションの中で最も珍しいものは天文時計と六分儀だという。黄さんは1898年製の天文時計だという木箱を取り出し、中を見せてくれた。「昔はGPSがなかったので、船が出港すると天文時計と六分儀で針路のずれを修正しなければなりませんでした」
船舶解体業が盛んだったころは、同業社が200社以上あり、解体されたものはほとんどが輸出されていた。船内で使われる専門的なナビゲーション用具のほか、「こちらは日本の潜水用ヘルメット、羅針箱、様々な国の霧笛、サーチライト、エンジン・テレグラフです......」と黄さんの口をついて出てくる品は、どれもお宝だ。
旅客船には日用品もあり、100年前の鉛筆削りを見せてもらった。船内の鍋など厨房用品はとても売り物になるそうだ。非売品として示されたのは隅に置かれた自動演奏ピアノだ。レコードもあるのか聞くと、「ありますよ。お聞かせしましょうね」と、黄さんが蓄音機の取っ手を回す。「Silent night, holy night……」と流れ出す調べに、私たちはしばし、酒場が立ち並ぶ戦後の塩埕区を米兵らが遊び歩く光景を思い浮かべた。
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かつて船舶解体業によって旅客船から出た品々は、蓄音機やレコードに至るまで、日用品を網羅している。
港の歴史を伝える街並み
第二次世界大戦後、塩埕はまたもや時代の大きな流れを受け、異なる姿を見せるようになった。1950年代、アメリカの台湾への防衛支援により、米軍の艦船が補給や整備をするためにしばしば高雄港に停泊していた。塩埕は米兵らが休暇を過ごし、遊ぶ場所となった。港に直結する塩埕の七賢三路は、「バー街」と呼ばれ、周辺のレストラン、服飾、娯楽産業を牽引した。
当時、台湾は特殊な政治経済状況に直面していた。政府は外貨を管理し、輸入品に高い関税を課していたが、本気で流通を目論む人や品物を止めることはできなかった。塩埕は港に近いため、船の乗組員が外国製品を持ち込んで販売しており、「舶来品」が密かに出回っていた。一番の流行りものを見つけたければ、塩埕に来れば良かったことは言うまでもない。
2011年に故郷・塩埕に戻った前出の邱承漢さんは、近隣の住民らを訪ねてインタビューをし、現地調査をおこなった。調査では、街における地理的空間的に興味深い点も明らかになった。
例えば、新楽街は有名な貴金属街だが、港の近くに貴金属店が集まっている理由について、邱さんが得た答えは「この辺りは港に近く、情報が最も流通しているから」というものだ。情報が限られていた時代、港には台湾と香港を結ぶ船が毎日停泊し、最新の外国為替や金価格の情報を入手できた。作家の李さんによると、ここは転売目的の商品を持ち帰るために、乗組員が出航前に融資を受ける場所だったという。
邱さんの祖母は日本で美容とウェディングドレスのデザインを学び、台湾に戻って五福四路に「正美美容院」を開いた。当初は美容とヘアスタイリングを主に扱っていたそうだ。「誰がそんなことにお金をかけられたと思います? バー街で働く女性ですよ」と邱さん。当時の美容院経営はバーで働く女性の来店頼みだったが、後にウェディングドレスで売り上げを得られるようになった。「正美美容院」の向かいは堀江商場で、堀江商場といえば当時の南台湾の人気の指標となっており、香港の「奇華」の月餅もここで買うことができた。結婚式を挙げるカップルが、新楽街に金のアクセサリーや結納品を買いに来ると、「正美美容院」のウィンドウに飾られた精緻なウェディングドレスに目を奪われた。店の評判が知れ渡ると、高雄外からもウェディングドレスのレンタルにわざわざ来る客も多くなった。
「この辺りのお店は、人間関係で言うところの“6次の隔たり理論”のようなもの。どんなつながりも、港に行きつくんです」と邱さんは言う。
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邱承漢さんは祖母の店を「叁捌地方生活文化」のワークショップとしてリノベーションした。この場所の歴史と軌跡を守りながら、新たな時代となった今、古い空間に新たな機能と意味を与えた。
塩埕 海洋都市へ
邱さんはこうした商港の生活感に心惹かれている。故郷に戻った理由について、「最初は単に、子供の頃に好きだった塩埕がなくなってしまいそうだったからです」と語る。
祖母の店は、1990年代に輸出業に転換したため、使われないままになっていた。慣れ親しんだ空間は残したいと思いながらも、新しい時代となった今、空間に新たな機能を与えなければならないと邱さんは考えていた。改装工事では、空間の歴史と軌跡が保存されたとともに、祖母と自身が生まれた1930年代と1980年代にちなんで「叁捌旅居」と名付けられ(後にワークショップとなり、「叁捌地方生活文化」と名称変更)、世代から世代への継承が象徴されている。
故郷に戻ってからは、邱さんも塩埕の不均衡に気づいた。古いより新しい方が良いと誰もが考え、古いものは消えていくばかり。また、駁二芸術特区に大量の資源が投入され、かつて賑わいを見せた旧市街を訪れる人は逆に減ってしまっていた。
邱さんには「塩埕第一公共小売市場」をリノベ―トし、古い空間に新たな機能と意義を与えたいという思いがあった。そこでまずは市場でテナントブースを借りて、中古品交換場の「叁捌菜攤仔」をオープンした。市場の一員となってから、元々そこで商売をしていた人と話して理念を理解してもらったのだ。続けて邱さんのチームは他のテナントブースを借り、そこに出店してくれる若者を募集して市場に進出してもらった。その結果、この伝統市場では、豚肉屋の隣に創作料理屋が出店し、魚のすり身フライが売られ、座って一杯やりながら、ブリトーを頬張ることもできる。こうした「若者・シニア共同市場」は若い世代が市場へ足を運ぶことにもつながっている。
2020年には、邱さんは「高雄銀座」(現在の「国際商場」)で見つけた空間を、宿泊を主とした複合型スペース「銀座聚場」として、古い空間の可能性をさらに広げる試みもおこなった。「叁捌」チームの影響で、塩埕はもはや古い建物を取り壊すだけの街ではなくなった。古い空間を活用して新たな創造性を育もうとする人や、古い街の中で新旧が織り成す塩埕の雰囲気を知りたいという人が増えている。
塩埕の歩んだ道のりを知ると、行ってみたいという好奇心が湧いてきたのではないだろうか。邱さんのアドバイスを参考に、ライトレールに乗って高雄ポップミュージックセンターまで行き、駁二芸術特区から徒歩で旧市街を散策するも良し、フェリーに乗って海上から高雄港を眺めたり、港を散策するも良し。商港から生まれたこの街と港が、いかに密接に生活と結びついているかをより感じられるに違いない。
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塩埕の人たちの信仰の中心である「三山国王廟」では、太陽神を祀る伝統が今も守られており、信仰と伝統産業である塩乾燥業とのつながりが見て取れる。
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高雄市立歴史博物館は、高雄の発展の軌跡を集めている。塩埕区にあるここは、かつての高雄市役所と、高雄市政府の跡地だ。
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瀬南街にある葉さんの「洋服お直し屋」は、塩埕に唯一残る屋台店だ。屋台店はショッピングエリアの過度な混雑に対応して設けられ、アーケードや路地のわずかな隙間を利用して商売をする。かつての塩埕の人波みが容易に目に浮かぶ。
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邱さんは、塩埕で最初の公共小売市場を若者とシニアの共同市場としての空間にすることで、「市場に行く」という思い出やそこでの交流を残していきたいと考えている。
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潜水用ヘルメット、六分儀、星球儀など、黄道明さんの店はコレクションであふれ、まるでタイムトンネルに入ったように、高雄の船舶解体業の記憶の一部を残している。