まずは医療から
「初期に台湾にやってきた他の宣教師と同様、彼も住民の暮らしと密接に関わるものごとに取り組むことで、人々の警戒心を解く必要がありました。もっともよく行なわれたのは医療です」と鄭仰恩は言う。
マッケイは台湾に来る前に医療の基礎的な訓練を受けていた。その日記によると、3月に淡水に落ち着くと、6月にはキニーネを処方してマラリアの治療を開始した。また抜歯によって痛みを除去するなど、片手に聖書、片手に鉗子を持ったマッケイの姿が人々に深い印象を残した。マッケイ自らの記録によると、彼は一人で2万1000本以上の歯を抜いており、抜歯する姿を記録した写真も残っている。
当時、国際的な商業港だった淡水では、複数の外国商社が協同で医師を招いており、マッケイはこの医師と協力して治療を行なっていた。1880年、マッケイは「滬尾偕医館」を設立した。運営費は米デトロイトの同じくマッケイという姓の亡き船長への寄付金から得た。滬尾偕医館は北台湾初の西洋医学の病院として、清仏戦争でも多くの負傷者を助けた。
全人教育の精神
現在の淡水、真理大学内にある「理学堂大書院」は台湾初の新式学校だった。1882年にカナダに報告に赴いたマッケイが故郷で資金を募って建てたもので、故郷の「オックスフォード郡」という地名をとって、オックスフォード‧カレッジ(牛津学堂)と名付けた。
これより先、マッケイが授業をしていたのは「ガジュマルの木の下、青空を天井に草を蓆とする逍遥学院」だった。書物から知識を学ばせるだけでなく、彼は学生たちを率いて自然や生態にも触れさせた。神学や聖書のほかに、地理、天文、解剖、植物、動物、医学なども教えた。布教に出かける時は各地の植物や鉱物、それに原住民の文物なども収集した。
こうしたカリキュラムには、スコットランドの啓蒙運動の精神が反映していると鄭仰恩は言う。17~18世紀のヨーロッパ各国で、啓蒙運動の焦点は科学や医学、教育などの分野に焦点が当てられ、現代的なカリキュラムへと発展していった。「スコットランドの啓蒙運動は最終的に『教育』に集約されます。社会的良識を持つ知識人を育成することを目的としていました」
このような教育理念は今日の一般教養教育と相通じるものがあり、そのため牛津学堂は台湾の教養課程の先駆けとも言われる。
マッケイが逝去した後、一人息子の偕叡廉(ジョージ‧W‧マッケイ)は1914年に淡江中学の前身である「淡水中学校」を設立し、制度的に台湾の人材を育成していった。淡江中学校史館館長の王朝義によると、台湾初の女医‧蔡阿信、台湾の看護制度と教育を改革した鍾信心、台湾の民主化を進めた元総統の李登輝、台湾文学の母と呼ばれる鍾肇政らも同校の出身である。
MRT淡水駅構内で開かれた「マッケイ淡水上陸150周年」展覧会。