深澳支線で今昔をたどる
深澳支線ひとつをとっても、その背後には多くの物語がある。霧雨の中、私たちは瑞芳区海浜里の里長‧鄧麗華とともに浜海公路の傍らにある海浜駅を訪れた。廃駅になって30年たつが、今も駅舎はあり、周囲には洞窟、坑口、宿舎など、かつての鉱山の名残も見られる。
2014年に運行を再開した深澳支線の全長はわずか4.7キロで、瑞芳、海科館、八斗子の3駅のみに停まる。だが、その歴史は日本統治時代までさかのぼり、敷設から廃線、そして運行再開まで、百年にわたる瑞芳の産業の盛衰と町の発展に寄り添ってきた。そのため、お年寄りの多くはこの鉄道に今も深い思いを寄せている。
早くも1935年、日本鉱業株式会社(戦後の台金公司)は、この一帯の鉱業発展のために、水湳洞(当時は「濂洞」)から基隆の八尺門まで軽便鉄道「金瓜石線」を引いた。採掘した鉱物を港まで輸送するためである。
第二次世界大戦が終了すると日本鉱業は台金公司の手に渡ったが、台金公司が経営不振に陥り、1962年に軽便鉄道は廃線となった。これを1967年、台湾鉄路が瑞芳まで伸ばし、また海浜と濂洞などの駅も設けて現在知られている「深澳支線」となった。
深澳支線は貨物輸送と旅客輸送を兼ね備えた鉄道となったが、北部の浜海公路(道路)が完成すると旅客はしだいに減り、海浜駅と濂洞駅は12年後に廃駅となった。そして2007年、深澳の発電所の操業が停止されて支線全体が廃線となった。しかし2014年に基隆海科館が大々的にオープンし、観光客のニーズに応えるために、台湾鉄路が5500万元を投じて深澳支線を再び運行することとなったのである。
南北をつなぐ交通の要衝
深澳支線の起点は瑞芳駅だ。昔から乗換駅として重要な役割を果たしてきた瑞芳だが、その地名から、町の背景がうかがえる。昔は「柑仔瀬」と呼ばれた瑞芳は現在の瑞芳柑坪里で、基隆河の河口と淡蘭古道の間に位置していた。陸上輸送が不便だった当時、台北と噶瑪蘭(カバラン/現在の宜蘭)を結ぶ道が必ず通る要衝だった。瑞芳というのは、基隆河の渡し船の乗り場にあった商店の名で、それがしだいに人々が口にする地名として定着していったと言われている。
日本統治時代に当局が鉄道を敷き、これを機に集落は柑仔瀬から現在の後站(駅の裏側)へと移った。瑞芳駅は現在は一年を通して絶えず多くの人が行き交うターミナルだ。平渓や九份、金瓜石、水湳洞などへと向かう観光客がここで乗り換えるため、毎年400万を超える内外の旅行者が訪れており、瑞芳駅構内には英語や日本語、韓国語などの案内もある。
だが残念なことに、駅前(前站)のにぎわいに対して、線路の反対側の後站の古い町並みは時間が止まったかのように静まり返っている。駅前が開発される以前、後站は東北角全体で最もにぎやかな地域であり、「一日に四市」が立つというにぎわいを見せていたことなど想像もできない。

旅客を乗せて往来する深澳支線は、台湾東北角の産業の盛衰を見守ってきた。