
美食家なら知っていることだが、最高の料理人は、レストランではなく政府高官や大金持ちの家の厨房にいるものだ。1949年に大陸から台湾へ移ってきた国民政府は、歴代の至宝を台北の故宮博物院に持ってきたのと同時に、大陸各地の名料理人も連れてきた。もとは中国大陸の各地に分散していた中華の八大料理が、これら名コックとともに台湾社会に入り込み、台湾で初めて東西南北の料理の大融合という食の革命が起きたのである。
「富貴の三代目になって、ようやく味を知る」と言われる。台湾経済が高度成長の時代を迎えると、大陸各地の中華料理が集まる台湾では、さらに島としての性質と国際性を融合させ、無限の創意の下で成熟した飲食文化を発展させてきた。
一方、近年急激な経済成長を見せる中国大陸では、すべての人が中産階級を目指しており、生活の質に関わる家具や服飾が注目されると同時に、質の高い飲食への要求も高まっている。こうしたブームの中、台湾の飲食業界も次々と上海をはじめとする大陸都市部へ進出しているが、彼らはどのような料理や味をもって台湾海峡両岸の13億2000万人の味覚と胃袋を満足させようとしているのだろうか。
「上海に行かなければ大陸に行ったとは言えない。新天地に行かなければ上海に行ったことにならない」と言われる新天地は、上海の21世紀の新たなランドマークである。
ネオンが灯り始める頃、上海では「弄堂」と呼ばれる小さな路地裏にぼんやりしたライトを浴びて古い建物が幻のように浮かび上がり、前世紀の華やかさを思わせる。だが、重い漆黒のドアを押すと、迎えてくれるのは張愛玲や徐志摩ではなく、モダンでエキセントリックなレストランなのである。世界中の飲食業者が進出するこの上海に、台湾の南橋グループが経営するドイツ風ビアハウスのパウラナー・ブロイハウスやマンゴー氷を売る「太鼓甜品」、それに禅の雰囲気を出した中国茶レストランの「一茶一座」などがすでに進出している。

台湾の南僑グループが投資するドイツ料理レストラン、正統のドイツ・バイエルン料理と特製ビールが楽しめるパウラナー・ブロイハウスは上海の外国人やサラリーマンに愛されている。
上海はロマンと美食に満ちた都市だと言われる。
アヘン戦争後の開港によって内外の商人が集まった移民都市上海は、あらゆる物や人を吸収し、上海料理の他に、安徽、北京、広東、四川、湖南、山東、河南など16ヶ所の料理が味わえるようになった。90年代の改革開放によって上海は大陸一の経済都市になり、その華やかさはさらに彩りを増している。そこへ台湾の飲食店が次々と進出し、「台幇菜」と呼ばれる台湾系料理が新たな勢力となっているのである。
上海の街を歩いてみると、多くの人が朝食に「永和豆漿」や「永和大王」といった店で台湾風の豆乳や牛肉麺を食べているのがわかる。南京路の歩行者天国では台湾風の腸詰やタピオカ入りミルクティー、焼き菓子などの店が目に入る。ショッピングの街として知られる淮海路や南京西路には上島珈琲、真鍋珈琲、仙踪林泡沫紅茶、一茶一座、季諾イタリア風レストランといった店があり、それぞれ学生やサラリーマンの溜まり場になっている。
大陸の経済が成長するに従って、台湾の有名レストランの看板も見られるようになった。ニューヨークタイムズの選ぶ世界十大レストランに挙げられた小龍包の鼎泰豊、台北華西街の台南担仔麺、それに台湾最大の西洋料理チェーンである王品台塑ステーキなどである。
上海で「台湾区」と呼ばれる古北新区を訪れると、繁体字の看板が連なり、まるで台北にいるような気がしてくる。小龍包や牛肉麺、切干大根入りの玉子焼きなどが食べたければ「蔡家食譜」があるし、豚肉の醤油煮がのった滷肉飯や焢肉飯、それに小豆氷が食べたければ「鹿港小鎮」に行けばいい。台北の「秀蘭小吃」の味が恋しくなったら、女将の任秀宝さんも上海にいるし、辛い料理が食べたければ「呉記麻辣火鍋」もある。
お腹がいっぱいになったら、円縁園茶房や老樹珈琲で台湾風のミルクティーや金柑入りの紅茶が味わえるし、スーパーマーケットでは台湾でおなじみの龍鳳の冷凍餃子や康師傅のインスタントラーメン、旺旺の煎餅なども手に入る。これらは上海の一般家庭にも浸透しており、大陸の人々の食の観念を変えてきた。

美しいガラスの急須に入った中国茶とさまざまな風味のアイスティー、台湾の飲食業者は伝統と現代を大胆に融合させ、若者をひきつけている。
こうした台湾の飲食文化や飲食業が大陸に進出していった過程を振り返ると、時期によってその規模や姿勢が変っていることがわかる。
「初期に大陸に進出した業者の多くは門外漢で、試行錯誤をしながら成功していったのです」と話すのは大陸市場を10年以上観察してきた台南担仔麺の周文保総経理だ。
1995年に初めて大陸に進出した業者の中で、中国式ファストフードの先導役となった「永和大王」は、偶然のきっかけから成功を収めることとなった。
95年に上海にビジネスチャンスを求めにいった李玉麟さんは、上海の豆乳や油条の味は台湾より劣ると感じた。また屋台でしか売られていないので衛生面も不安である。そこで彼女は、豆乳や油条の店を開けば、少なくとも上海に暮らす台湾人は食べに来るはずだと考え、アメリカに暮らす印刷業者の林猷澳さんに協力を求め、大陸の伝統的な朝食である「油条、豆乳、焼餅、粢飯(もち米の握り飯)」を綺麗な店舗で売ることにした。こうして生まれた「中国式ファストフード」という新しい形が大陸の人々に受け入れられ、3年のうちに18店舗まで拡張できたのである。

大陸でも愛されている台湾の牛肉麺。現地の食習慣に合わせて目玉焼きが入っている。
上海市場は確かに魅力的だが、ここで成功するのは簡単ではない。台南担仔麺の周文保さんがガス会社のデータから推計するところでは、上海では毎月新しい飲食店が500店近くオープンしているが、同時に300店が閉店している。成功して注目を浴びる業者より、失敗して撤退する業者の方が多いのである。
かつて台湾風の腸詰や持ち帰りドリンクの店が一世を風靡し、街にあふれた頃、地元業者も同じような店を次々と出し、過当競争に陥った。それまでは台湾資本の看板で高価格路線を行っていたタピオカ入りミルクティーも、1杯8人民元(約34台湾ドル)から7杯10元まで下がり、今では2杯1元という店まで出てきて完全に地元業者にお株を奪われてしまった。「苦労や値段を競うことになったら、台湾企業は大陸の人々にはかないません」と話すのは、大陸での業態転換に成功した仙踪林泡沫紅茶の呉伯超総裁だ。
「上海の競争形態は台湾人には想像もできないものです」と語るのは王品グループの陳正輝副董事長だ。台湾では値下げ競争になっても、原価を切らない程度で収まるが、大陸では原価を考慮しない「流血競争」に陥るという。1皿16元の点心が1皿1.2元まで下がり、完全に価格を破壊してライバルをつぶし、市場を独占してから利益の出る価格に戻すのである。
かつて「食べ放題」で上海に旋風を巻き起こした台湾の海覇王も、こうした競争の犠牲になった。
96年、海覇王は百種類の料理を安く提供する食べ放題の店を出して上海で一大ブームを巻き起こし、行列が100メートルに達する盛況ぶりを見せた。しかし、一年もたたないうちに地元業者に模倣されるようになり、上海人の購買力も急速に向上して質の高い飲食が求められるようになり、海覇王は撤退せざるを得なかったのである。

小さな小龍包の一つひとつに必ず18本のひだがあり、必ず蒸したてを出す。台湾の鼎泰豊は世界に知られるブランドを武器に小龍包の生まれ故郷である上海に乗り込んだ。
中国大陸の人口は世界の20%強を占め、食費が生活費の半分近くを占める。中共国家統計局の資料によると、大陸における2002年の飲食業界の売上は5000億人民元を超えており、年間16%という成長を見せている。
特に上海市では2002年の年間平均所得が1万3250人民元に達し、全国の第四位になった。経済力があり、国際レベルの公共建設が整っているというので、ここが台湾の飲食業者の上陸拠点となった。旗艦店を設置し、世界的知名度を高めるには絶好の場所なのである。
かつてフカヒレやアワビの最大の集散地と言えば香港だったが、今では華人市場におけるフカヒレ・アワビの9割以上が中国大陸の内地に売られている。台南担仔麺で総務を務める黄春生さんは「大陸の人々は質の悪い品も買いあさり、品質に関らず大変な高値で売っています。1缶3個入りのオーストラリア産のアワビも、相場の3倍以上の値で売られています」とため息をつく。
北京や上海では、どのレストランやホテルもフカヒレとアワビの看板を出している。
上海のある美食家は言う。「中国は、山菜や野の草から、木の葉や花、それに雑穀まで、皮のまま呑み込むという苦しい時代を過ごしてきた。自然災害の3年間(1959〜61年)を経験した人は、他の世代より食欲があるものだ」と。
格調と高級感を求める風潮の中で10人掛けの円卓のコース料理は3000元から1万元まであり、台湾の高級レストランも次々と進出し始めている。
台北の華西街にあり、高級感で知られる台南担仔麺海鮮レストランも2003年3月に上海に進出した。台湾のスタイルをそのまま持ち込み、イタリア製のテーブルにスペインMarinerの椅子、ウェッジウッドのボーンチャイナ、フランスのクリストフルのナイフ・フォーク、ドイツNachtmannのグラスという具合に、すべてが高級感あふれるブランド品で揃えている。
貧富の格差が大きい中国大陸の、特に上海のように功利主義的な商業都市では、人々は飲食店のクラスに強い要求を持っている。「あるレストランに自分より階層の低い客が来ているのを見たら、その人はもう二度と来ません」と話す台南担仔麺の周文保総経理は、上海で成功するには、このような階級の差別化が非常に重要なのだと言う。

昔ながらの路地裏にモダンでエキセントリックなレストランが並ぶ。上海の新天地広場では台湾と世界の飲食業者がしのぎを削っている。
こうした差別化の他に、ブランドの確立も欠かせない。今日の大陸では何事も「跳躍型」に進歩しており「一年で様変わり、二年で大きく様変り、三年で全く変る」と言われる。周文保さんは、上海の飲食の流行は2年ごとに大きく変り、小さな流行はもっと速く、盛況は3ヶ月と続かないという。
すべてが跳躍型で進んでいくため、細く長くという過程がなく、大陸の消費者は新しいものを好む。流行が次から次へと変っていく都市だからこそ、上海人は歴史あるブランドには優れた点があると信じており、したがって上海は特にブランドが好まれる市場でもある。
小龍包の世界的ブランド「鼎泰豊」が上海進出の際に打ち出したのも、その黄金の看板である。
鼎泰豊の小龍包の皮は1個5グラム、どれも18個の折り目があり、必ず蒸し立てを出し、肉汁がたっぷり入っている。このように小龍包を精度の高い商品として扱う精神で、鼎泰豊は93年にニューヨークタイムズによって世界の特色あるレストランのトップ10に挙げられ、その地位を確立した。

台湾の精進料理レストラン「棗子樹」は健康と美容をコンセプトに若者にも親しみやすい精進料理を提供し、仏教徒や仏教に興味のある人々の溜まり場になっている。写真はアロエを使った最新メニューだ。
数年前に比べると、最近進出したレストランは、いずれも周到な準備をしてから乗り込んでいる。競争の激しい大陸市場では「人の他に、十分な資金と専門性も必要です。そうしなければ成功できない時代です」と話すのは王品グループの陳正輝さんだ。「私たちは台湾の33店舗で最も優秀な幹部を全て派遣し、一軍のオールスターで取り組んでいます」と言う。陳さん自身、家族全員を連れて上海に赴任しており、もう一年余り台湾に帰っていないそうだ。
台湾での年間売上は10億台湾ドルを超え、アメリカにも支店を持つ王品グループとしては、大陸進出は遅かったとも言えるが、陳正輝さんはこう説明する。「私たちは以前、現地のサラリーマンにアンケート調査を行ないましたが、その結果、かつて英仏の租界があった上海でさえ、夕食に西洋料理を選ぶ人がいなかったのです」上海人には、雰囲気を楽しみながら食事をするという習慣がまだなかったのだ。
それから4〜5年の観察を経て、一昨年、陳正輝さんは台湾のパンやコーヒーやフラワーティーなども進出してきたのを見て、機が熟したと判断した。そこで中年の中産階級にターゲットを絞り、王品台塑ステーキを売り出すことにした。
台湾とアメリカですでに百戦錬磨の王品グループだが、レストランの開設は工場設置とは違う。「これは複製の過程ではなく、全く新しい取り組みです」と語る陳正輝副董事長によると、まず問題となったのは原材料の取得である。
牛肉はアメリカンビーフで同じだが、肉の漬け汁を作るのに3ヶ月の時間を要した。「ここのキッコーマン醤油の味は台湾のとは違うのです」と陳正輝さんは言う。
鼎泰豊では小龍包の付け合せに出す針ショウガにふさわしい素材を求めて広東まで行ったが、台湾の新ショウガほどさっぱりして歯ごたえの良いものはなかった。
このように食材は地域によって大きく異なるが、広大な大陸の物産は豊富だ。台湾のようなショウガは見つからなくても、上海には最高のカニがある。「大陸で出している蟹粉小龍包には、上海ガニを使っています。上海ガニが旬のこの季節は蟹粉小龍包を食べない手はありませんよ」と話すのは、加盟店方式で上海鼎泰豊を経営している広成餐飲公司の区錦祥総経理だ。
中国最大の水産物市場である上海の銅川市場に行くと、福建の巻貝、汕頭のカニ、煙台のナマコやウニ、大連のマテガイなど、最高のものが揃っている。台南担仔麺の陳国源経理は、毎日ここに食材を見に行き、さらに浦東国際空港で台湾から送られてくるカラスミや日本のヤマイモ、マレーシアのエビ、香港からの生牡蠣や高級魚などを受け取る。

上海新天地に旗艦店を開いた「一茶一座」は大型セントラルキッチンを設置し、上海を世界進出の足がかりにしようとしている。
差があるのは食材だけではない。台湾の飲食業者が直面するもう一つの課題は「人材」だ。厨房でもホールでもプロと呼べる人材が不足している。大陸にも飲食関係の学校はたくさんあるが、質やサービスといった概念はまだ遅れている。例えば、塩小さじ1杯20グラムと指定しても、大陸の調理士は適当にすくって入れてしまう。「調味料の量が少しずつ違えば、全体としては全く違う味になってしまいます」と陳正輝さんは言う。初めの頃は、大陸の調理士がタレに指を突っ込んで味見をしているのを見たこともあるそうだ。「台湾では手を洗う行為だけでも10のステップを踏まなければ合格しません」と言う。
こんなこともあった。調理士が生卵を手でかき混ぜていたので、李宇龍店長が泡だて器を使うように指示したところ「私は健康証明を持っています」と堂々と抗議されたというのである。同じ言葉を話すのに、なぜこうも違うのか、と李さんはため息を就く。
一方、接客員に対して台湾企業が最初に訓練するのは「笑顔」を作ることだ。笑顔で応対できるように、鼎泰豊では毎日「今日の笑顔賞」を出して奨励している。大陸の社員はサービスというものを知らず、両岸を比べると人の質の差が最も大きいと区錦祥さんは言う。
王品でも大陸の店員に積極性が足りないと感じている。例えば、子供が席を離れて遊び出すと、台湾の店員なら進んで世話をするし、お客が立ち上がれば、黙って洗面所の方向に案内する。
「台湾では80年代に高級ホテルが増え、早くからサービス業の優秀な人材が育っていました。大陸ではハードの設備は急激に進歩していますが、人の面ではまだ5〜10年はかかるでしょう」と話すのはパウラナー・ブロイハウスの鄭慧菁」ディレクターだ。

大陸経済の急激な成長にともない、高級路線の台南担仔麺や王品台塑ステーキも次々と上海に進出し、台湾の新鮮な魚料理(左)や独特の骨付きステーキ(右)を上海の美食家にも提供し始めた。
台湾区と呼ばれる上海の古北新区は、台湾企業駐在員が集まる街で、台湾の飲食業者も集中している。
大陸政府の統計によると、上海に長期駐在している台湾人は30万人を超える。この30万人は、台湾の消費ピラミッドの最先端に位置する層であり、これは台湾の高級飲食業界に大きな影響をおよぼしている。
「かつて月に2〜3回来店された企業経営者や管理職が大陸へ行ってしまい、3ヶ月に1度しか来なくなりました。日本人観光客も上海に行くようになったので、私たちの主要なお客様は皆、上海にいるのです」と話すのは台南担仔麺の周文保さんだ。台湾の王品台塑ステーキ本店の売上も、ここ2年で2割低下した。そのため「顧客のいるところへ」というのが、彼らの大陸進出の原因の一つとなっている。
上海の古北新区にあるレストランの多くは、本来は台湾企業や日本企業の駐在員をターゲットとしていたが、地元の高額所得者が増えるにしたがって現地の顧客も急速に成長している。
2003年7月の開店から10月までの3ヶ月で、上海王品台塑ステーキの地元客は2割から5割まで増えた。陳正輝さんは、年末には地元客の数が台湾人客を超え、全体の7割に達すると見ている。台湾人や外国人に連れられて来店した地元客が、台湾系レストランと大陸のサラリーマン層を結び付けているのだ。
一方、顧客の年齢層を見ると、本来は中年層をターゲットとしていた王品台塑ステーキだが、月収わずか数千人民元の若いサラリーマンが重要な顧客になっていることが分った。これら若い世代は「一人っ子政策」の下で生まれ育っており、そのバックの両親と祖父母が小遣いを出しているのである。この世代は、結婚や住宅購入の際にも親や祖父母から援助を受けるため、迷うことなくお金を使うことができる。台湾の若い消費者の購買力が低下しているのとは大きな違いだ。

大陸経済の急激な成長にともない、高級路線の台南担仔麺や王品台塑ステーキも次々と上海に進出し、台湾の新鮮な魚料理(左)や独特の骨付きステーキ(右)を上海の美食家にも提供し始めた。
大陸でも台湾でも20代の独身貴族は最も消費力がある層だ。特に月収5000人民元以上でファッション性を追求する層は「プチブル」と呼ばれ、「プチブル好み」のマーケットが形成されている。この市場が注目されるようになってから、さらに1ランク上の「中産階級」が経済力とボヘミアンな趣味を合わせた「ボボ」を自称するようになった。
「大陸でプチブルと呼べば、それは相手を馬鹿にしていることになります」と北京晩報の記者・孫小寧さんは言う。プチブルに続いて、すでに中産階級が人々の目標となっているのである。
ポストモダンであれネオクラシックであれ、重苦しくない繊細な雰囲気というのがプチブルや中産階級の好みとなっており、それは台湾が最も得意とする分野でもある。
台湾の桃園から始まって、今では上海に4つの直営店を持つ「一茶一座」は、こうした店の代表だ。上海の南京西路にある一茶一座には、モダンでくつろげるソファと明るく優雅な照明があり、隅には中国風の古びた窓枠があるという、おしゃれな空間だ。食器も小さな土鍋に淡いブルーの茶器やガラスを合わせるなど、すべてオリジナルのデザインである。大陸に500人の社員を持つ同店は、2001年に初めて上海に進出した時に280万米ドルという巨額を投じて大型セントラルキッチンを設けた。ここからも、同店の大きな決意がうかがえる。
「10年以内に大陸に260の直営店を開き、中国風レストランの世界一のブランドになることを目指しています」と話す一茶一座の陳定宗総経理によると、上海進出計画は台湾の立場から立てたのではなく、上海を世界進出の基地として考えたものだと言う。従って上海は中国市場進出の核心であるだけでなく、世界ブランド確立の基地でもある。

台湾の精進料理レストラン「棗子樹」は健康と美容をコンセプトに若者にも親しみやすい精進料理を提供し、仏教徒や仏教に興味のある人々の溜まり場になっている。写真はアロエを使った最新メニューだ。
競争の激しい上海で台湾の「棗子樹」は、思いがけず大陸に精進料理ブームをもたらすこととなった。10年前に不動産の仕事で上海に派遣された宋淵博さんは、98年に母親がガンになってから肉食を断ったが、当時の大陸にはベジタリアンのレストランはほとんどなくて不便に思っていた。そこで母親が亡くなった後、大陸の人々にも少しでも早く精進料理を食べてもらおうと「棗子樹」を開いたのである。
上海にも功徳林や松月楼といった精進料理の老舗があるが、宗教的な理由がない大部分の人は、精進というのは貧乏臭いと感じていた。そこで宋淵博さんは全面ガラス張りの店舗に素朴だが質の高い木の家具を置き、精進料理を健康やファッションと結びつけた。そして200種類近いメニューを出し、それまで精進料理など食べたことのなかった大陸の若者をひきつけたのである。
「世界中で最良の精進の食材は台湾にあり、精進の付加価値を高めたのも台湾です」と宋淵博さんは言う。実際、大陸で流行し始めた精進料理レストランはほとんどの食材を台湾企業から仕入れている。
だが棗子樹が大陸で有名になったのは、その料理よりも、禁煙で酒も出さず、肉料理もないという精進料理のレストランに豊かな人情を持ち込んだところにありそうだ。店の収入の半分は慈善事業に投入され、毎月、特殊学級の先生や一人暮らしのお年寄りを無料で招待し、環境保護を推進するなど、精進料理の意義をより深いものにしているのである。

ブランコに座ってタピオカ入りミルクティーを飲む。仙踪林泡沫紅茶は大陸のプチブル層の心をつかんだ。
台湾の飲食業界が大陸に進出したことで、両岸の味が融合するとともに食文化が大いに刺激され、今後の発展が期待される。
かつて台湾で両岸の調理コンクールが開かれた時、スイスの審査員はこう指摘した。料理の重点は味にあるべきだが、中華の調理士は料理の外見を重視しすぎ、原価を考えずに装飾を施し、食材を浪費していて、特に大陸にこの傾向が強いと。
ここからもわかるように、上海の調理士の腕は確かで、特に細工の包丁使いに優れている。この点は台湾も強化する必要があるだろう。また西安の餃子宴、済南の金瓶宴や孔府家宴のように古典に基づいた料理も興味深い。
しかし、台湾の強みは世界との接触の多さや創意にある。「台湾の業界は、ごく普通の物をおもしろくイメージ付けることができます。マンゴー氷やタピオカミルクティもそうじゃないですか」とパウラナー・ブロイハウスを経営する上海宝来納餐飲公司の陳黎明総経理は言う。台湾では高級レストランも先住民料理や果物を使った料理を打ち出しており、こうした新しい味は大陸市場の刺激剤となっている。
近代の国学の大家、林語堂は「中国人の食は、食するだけでなく、味わうものであり、そこで楽しむのは一種の抽象的な感覚だ」と述べている。台湾の飲食業界が大陸にもたらしたのは、こうした抽象的な味わいなのではないだろうか。

大陸経済の急激な成長にともない、高級路線の台南担仔麺や王品台塑ステーキも次々と上海に進出し、台湾の新鮮な魚料理(左)や独特の骨付きステーキ(右)を上海の美食家にも提供し始めた。