中華民国建国100年を迎える直前、市と県の合併や新たな直轄市への昇格があり、高雄市も高雄県と合併して全国で面積最大、人口は二番目に多い直轄市となった。
昇格も合併もない台北市に比べ、直轄市として31年の歴史を持つ「旧高雄」にとって2001〜2010年は黄金の十年だった。この間、半世紀にわたって悪臭を放っていた愛河が浄化整備され、全国で2番目のMRTが開通し、高雄ワールドゲームズも開催したのである。
南国の港湾都市の変革は続いている。
「高雄」の語源は、平埔族であるシラヤの流れを汲むマカタオ族の居住地の地名Takauで、敵から土地を護る竹林地という意味がある。その発音から「打狗」「打鼓」という漢字が当てられ、今も鼓山区や打狗港といった地名に残っている。
漢民族が高雄に移住して最初に開墾したのは今の旗山で、旧地名を「旗後」という。

海洋都市として発展する高雄。
1895〜1945年、日本の植民地政府が高雄の近代化を進めた。1908年から三期にわたる港湾整備が行なわれ、市街地が少しずつ整備された。港湾建設は南への軍事拡張のためだったが、それが台湾一の港湾の基礎を築いた。
日本は航路を浚渫した土砂で海を埋め立て、1912年に埋立地の町――哈瑪星が生まれた。
1920年、Takauを日本語の発音でTakaoと読んだことから「高雄」の字が当てられるようになった。1924年、それまでの高雄州(最近合併した後の高雄市全体と屏東県)高雄郡高雄街を高雄市に昇格させ、州庁を哈瑪星(日本語は「浜線」。魚市場を通る海浜鉄道を指す)に置いた。高雄の歴史の中心は旗後から哈瑪星(今の南鼓山区)に移った。
1939年、行政の中心は再び移転する。都市計画範囲が拡大され、市役所は今の鼓山区代天宮の位置から塩埕;埔栄町(今の高雄市立歴史博物館)へ移り、人の流れや運輸などの活動も変った。
新たに市の中心となった塩埕;は流行の発信地になった。1941年に開店した「吉井百貨店」は5階建てで「流籠」と呼ばれたエレベーターがあった。戦後、吉井百貨は高雄百貨へと名を変えたが、後にオープンした大新百貨には勝てなかった。
高雄市東区と南区が発展し始めるまで、都市の政治と経済活動の中心は塩埕;だった。1957年の資料によると、塩埕;の営業税納税額は全市の半分を占めていたのである。
戦後の荒廃からの復旧の後、経済政策は輸出拡大へと転換した。1966年、高雄加工輸出区が前鎮区に設置され、2年後の就労人口は5万人を超えた。前鎮区の人口の3人に1人が加工輸出区で働いていた計算になる。
1970年代に入ると、政府は十大建設を開始し、工場の煙突が高雄のシンボルとなった。中油、中鋼、中船などの国営企業が雇用と富をもたらす一方、この地域の環境汚染が進んでいった。
「長年にわたり、高雄は台湾経済発展における『汚れ仕事』をさせられてきました」と高雄市都市発展局の盧維屏局長は過去半世紀を形容する。「空中には油の匂いが漂い、高雄はブルーカラーが懸命に働く町になったのです」と言う。

高雄加工輸出区の加工品はパイナップルの缶詰から精密機器へと変わった。これはかつての産業構造転換の縮図でもある。
それとは対照的に、台北は都会的なヤッピーの経済都市へと発展してきた。
1970年代末、情報産業が世界経済の牽引車となり、政府は新竹サイエンスパークを中心として、台湾北部にIT産業ベルト地帯を構築した。そうした中でも、高雄は常に「工業都市」と位置づけられてきたと盧維屏は言う。
高雄はこうした任務を黙々と受け入れてきたが、自力で変革を求めるようになった。その最初の仕事は悪臭を放つ愛河の整備だった。
日本時代は高雄川と呼ばれた愛河は、市の中心を高雄港へと流れる。その汚染の主な要因は、経済建設後の大量の工業廃水と家庭廃水が河川に流されていることだ。悪臭が酷いため、端午節のドラゴンボートレース会場も蓮池に移ったほどだ。
愛河の再整備案は1979年に始まり、以来12代(代理も含む)9人の市長が力を注ぎ、第2代の民選市長である謝長廷市長の在任中に大きな成果を収めた。家庭排水管の普及率は1995年の1.1%から2005年には40%に達し、今年7月には60%を超えたのである。
最近では、愛河でフェリーに乗り、川岸を散歩してコーヒーを飲むというのが高雄の観光ルートとなった。盧維屏は、愛河の浄化が河岸と埠頭周辺の経済活動を活性化し、住宅や公共文化建設などの投資が活発になったという。

日本統治時代の初期に設立された橋頭製糖工場。百年後の現在は古跡となり、映画撮影所へと生まれ変わった。
文化創意産業が注目されるようになってからは、高雄は台北や台中の先を行こうと、海と港湾の魅力と古い埠頭の歴史をクリエーターの発想の場として提供しようと考えた。
塩埕;区「駁二アートセンター」にある500坪の倉庫には昨年、ソニー傘下のエンターテイメントソフトメーカーが入り、アジア最大のゲーム機開発・テストセンターを設立し、義守大学と共同育成したソフト開発人材の採用を計画している。
台湾のゲーム大手、智冠科技が20余年前に高雄に本拠を構えて以来、国際的な大手企業が高雄に進出したのはソニーが初めてだ。
「駁二」というのは高雄港の埠頭の名前から来た名称だ。埠頭には台湾糖業所有の800坪の倉庫が放置されており、2000年に市がそれに目をつけ、2年をかけて改造して経営委託した。
2006年に市の文化局が管理を引き継ぐと、ここは衰退した産業の遺跡として新興の文化創意産業のプラットホームとなった。高雄デザインフェスティバルや好漢玩字フェスティバルなどのアート展もここで開催され、若者に人気の場となった。
駁二アートセンター主任の簡美玲によると、ここはクリエイティブ世代の活力に満ちており、今では南部の大学・専科学校で学ぶ新鋭デザイナーが好んで訪れる聖地になっているという。見学者は2008年に16万人、2010年には90万人を超え、今年は1〜7月だけで80万人が訪れている。
文化局副局長の劉秀梅によると、港湾という立地より、若く大胆で無限の創意に満ちた文化的な雰囲気がソニーを惹きつけたという。
「埠頭付近の塩埕;地区には日本時代に残されたタイムカプセルがあり、倉庫での展示や公演にはシュールな創意があります」劉秀梅は、矛盾する二つのものがぶつかり合う刺激が、駁二アートセンターの優位性だと言う。
高雄市経済発展局によると、ソニーの子会社が進出したことで、駁二では10年以内に18億台湾ドルの生産高が見込め、5年以内に100近いゲームメーカーや映像制作会社の進出が期待できる。
ソニーの高雄港進出は、他の国際企業を刺激した。ハリウッドのCG大手のリズム&ヒューズ社やニュージーランド第二のアニメ会社Huhu Studiosなどが視察に訪れているそうだ。
「駁二は、文化創意発想のプラットホームと位置づけられます」と簡美玲は言う。

戦後間もない頃、愛河は輸入木材の輸送に活用された。台湾経済がテイクオフしてからは、高雄港のコンテナ取扱量は世界3位まで登りつめた。
都市の空間は変化する。高雄県と市が合併した後の「軽経済」への次のステップは、旧高雄県域内の橋頭製糖工場を撮影所にすることだ。
魏徳聖監督が7億を投じて製作した『セデック・バレ』はベネチアでも高く評価され、公開4日で興行成績1億を突破したが、これによって国内に撮影所が不足している現状も注目された。
高雄市では2003年から、市内ロケの場面が作品の4分の1以上を占め、六大国際映画祭で受賞した作品に1000万の賞金を出すとし、2009年には国内初のロケ支援センターを設置した。かつて「文化の砂漠」と言われた高雄が、映像制作者にとって最も友好的な都市になったのである。
実はこれは極めて有効な都市マーケティングである。陳菊市長は、映画は一つの都市を知る最も直接的で速い方法であり、映像を借りて高雄のイメージを世界に打ち出していくと語る。
文化局長の史哲によると、2007〜2010年、台湾映画の3分の1が高雄で撮影された。戴立忍の『不能没有你;』、蔡岳勲の『痞;子英雄』などだ。「映像産業は文化政策だけでなく、産業政策の議題となるべきです」と話す史哲は、そのためにも専門的な撮影所を設けることが必要だと語る。
県と市が合併し、かつて県が楊凡監督の『涙王子』の撮影に提供した橋頭製糖工場が、映像産業発展の新たなポイントとなった。
1901年設立の製糖工場は1999年に閉鎖され、バロック建築や日本庭園があることから、観光やレジャーに供されてきた。文化局の劉秀梅局長は、前衛的でポストモダンを感じさせる駁二に比べると、広大な製糖工場は50年代の歴史を感じさせる空間だと言う。

高雄加工輸出区の加工品はパイナップルの缶詰から精密機器へと変わった。これはかつての産業構造転換の縮図でもある。
駁二と橋頭だけではない。鳳山の大東文化芸術センターと衛武営アートセンターが今年末と再来年にそれぞれ完成する。さらに、毎年屏東県の墾丁で開かれる春吶;ロックフェスティバルの座を奪おうと、14、15号埠頭には海洋文化および流行音楽センターを建設し、2014年にオープンする予定だ。
都市発展局の盧維屏局長によると、市はこうした施設を計画する前に、設備供給を上回るニーズがあることを調査確認している。利用者のいない、がらんどうの設備になることはない。
高雄は、工業からサービス業を中心とした「軽経済」への転換を目指しており、これは世界的な趨勢に応じたものでもある。「世界の工場」は中国大陸より人件費の安い東南アジアやアフリカへ移り、台湾には受託製造の優位性はない。高雄市内(合併前)の工場数が1991年の2347社から2000年には1461社に減ったことからも分かる。
陳菊市長は昨年、中央研究院に対して国立バイオテクパークを高雄に設けることを求めた。付加価値の高い知識産業を導入するためだ。
経済構造を瞬時に転換することは不可能であり、今も市内や郊外に煙突が並んでいるが、「高雄市民は、こうした『共存』に慣れています」と盧維屏は言う。
煙突は並んでいるものの、別の角度から見れば、澄んだ水の流れる愛河があり、一筋につなぐことのできる都市部の湿地もある。
二酸化炭素排出量が世界で最も多い高雄だが、無制限に工業汚染を受け入れるつもりはない。盧維屏によると、国が「温室効果ガス削減法」を制定するに当り、高雄市は最初に自主的な「事業気候変動調整費徴収条例」を提出(議会で審議中)した自治体なのである。
汚染の少ないヨット製造業は高雄の産業構造転換における一つの事例と言える。アジアでトップ、世界で5位の台湾ヨット製造業の競争力を高めるために、高雄市は小港区で行なっている工業廃棄物による埋め立て計画「南星計画」から105ヘクタールを専用エリアとして提供することを決めた。
「都市の競争力を見る時、かつては人口や財政、人材、規模などが注目されましたが、今は文化や環境、持続可能性、世界とのつながりなどが重視されます。これらの力がなければ、受託製造の町とされてしまうのです」と盧維屏は言う。
高雄は、もう後戻りすることはない。

高雄市はアートの発展に力を注いでおり、駁二アートセンターでは漢字をテーマにしたフェスティバルも開かれた。

日本時代の吉井百貨店は戦後は高雄百貨と名を変えて「五階建て」と呼ばれた。当時、最もにぎやかだった塩埕町にあった。

戦後間もない頃、愛河は輸入木材の輸送に活用された。台湾経済がテイクオフしてからは、高雄港のコンテナ取扱量は世界3位まで登りつめた。