トビ、俗称を老鷹とも言い、台湾人は来葉あるいは厲葉とも呼ぶ。
秋風が立つ9月になると、飛翔と餌探しを練習するトビが増えてくる。1400グラム、翼を広げると165センチになるトビは、わずかの風さえあれば空中に軽々と舞い、あたかも重力の影響を受けない一枚の葉が漂っているように見える。
鳥撮りたちが餌を撒いたため、2014年10月16日の基隆に46羽のトビが集まり、空前の大盛況となった。1年365日のうち300日は基隆港を見守る班長は、その活況に今も興奮するという。
トビは時に、水面に躍り出たイナ(ボラの子)を捉えることがある。
基隆市野鳥協会の何永寿も、基隆港でよくトビを観察しており、「世界中で最も近距離でトビが見られる港湾都市は基隆です」と言う。時には彼の頭の上をかすめていって、水の中の餌を捕り、空中でそれを飲み込むのだという。
では、トビの数は増えているのだろうか。
2014年の調査によると、台湾のトビは台湾北部と、嘉義と高雄屏東を主とした安定した三つの群れが354羽であった。2015年の現在、台湾猛禽研究会の「全台老鷹黄昏集結地域調査」のプロジェクト・リーダー林恵珊が426羽を記録している。中でも新北市翡翠ダム地域が最も多い97羽、屏東三地門地域は92羽だった。
トビとミナミメンフクロウは最も親しみのある猛禽類で、かつて台湾には万を数えるトビがいたと屏東科技大学野生保護学科の孫元勲教授は言う。かつて漁民が海辺で発破漁を行っていた時、魚が水面に浮きあがると、百羽を超えるトビが魚を横取りしようと海に飛び込んできたという。こんな光景も20年余りのうちに激変し、今では鼠を狙うミナミメンフクロウを目にする機会は、宝くじに当たるようなものである。
日本やインドのトビの数は安定的に推移し、台北とほぼ同じ面積の香港でも1000羽を数える。公園に巣を作り、日本のトビは手に持ったゴミ袋を攫っていくという。それが台湾においては農業委員会の保護リストで希少動物とされ、基隆港では時に間近に見られるが、ここはその生息地ではない。「ある鳥がここで見られるのは、他の場所の環境が破壊されたためかも知れず、数が増えたためとは限りません」と自然ドキュメンタリーの梁皆得監督は分析する。
1992年に「トビ先生」と呼ばれる沈振中は20年に渡る老鷹追跡計画を開始し、毎年トビの数を調査してきたが、生息地の破壊以外に、トビ減少の原因が見つからなかった。
そして21年後の2013年に、屏東県の18ヘクタールに及ぶ小豆畑に3000羽の死骸を発見した。沈振中の後継者である林恵珊はこれを追跡し、解剖して検査した結果、トビ消失の原因が解明された。農薬に汚染されたもみ殻を食べたスズメやベニバトが胃の中から発見され、間接的中毒と分かったのである。この発見により、沈振中の老鷹追跡は劇的な転換点を迎えた。
トビの数が南部より北部に多いのも、この理由のためであった。
426羽はこの23年で最も多く観察された数である。しかし、それは増えたのではなく、調査が及ばなかっただけと孫元勲は考える。
トビが台湾人の生活に戻ってきたわけではなく、台湾人もトビを本当に守り、人間との関係を真剣に考えてきたわけでもいない。去年、沈振中は基隆港の紹介パンフレットに一文を掲載したが、その標題は「本当にトビを見ていますか」であった。
11月に上映された梁皆得監督のドキュメンタリー映画「老鷹想飛(トビは飛びたい)」は、基隆港では見ることのできないトビの物語である。23年の長い年月をかけて撮りためた7万フィート、2100分に及ぶ16ミリのフィルムを75分に編集したものである。
これはまた、沈振中の人生のテーマでもある。
トビを見るための調査展開
この二人は一目でわかる個性的な風貌を有している。一人は静かな力を秘めた修行者のようで、もう一人は半白の髭を蓄え、いつも猛禽Tシャツを身に着け、笑顔が温かい男である。この二人の出会いは運命的だった。
1991年、沈振中は基隆徳育看護学校の37歳の生物教師で、基隆港に二羽のトビを見た。
トビを見たからと言って人生が変わるわけではないが、その人の中で変化の準備ができていれば話は別である。沈振中はトビと出会う2年前から、自転車の台湾一周、マラソンや登山を始めていて、様々な出会いが内在的本質を変化させていた。1990年以前の解剖と標本製作に明け暮れ、クーラーや冷蔵庫のある生活から次第に離れていき、より簡素な生活に入っていった。「自然環境は人類のためにあるのではない。私は生物とこの土地を分かち合うことを学ぶ」倫理観を育んできた。鳥は自然に戻るための入り口だった。
「私は、この土地の国の国民であり、永遠にこの土地の他のものや土や水、各種の動植物を尊重します」と、彼は名刺に印刷している。
翌年、沈振中は澳底漁村で全面的なトビの観察記録を開始し、台湾で最初にトビの巣の位置を発見し、夜の過ごし方を知り、また鳴き声の意味を理解する人となった。出会ったそれぞれのトビに白斑、叉翅、浪先生など名前も付け、トビもまたピーヒョロロと彼を呼んでいるようである。
1990年、当時25歳の梁皆得は中央研究院動物研究所で劉小如の野外調査研究アシスタントとして4年間を過ごしていた。
彰化県の田舎に育った梁皆得は、小さい頃から鳥の観察が好きで、中学の時に台中野鳥会に加入して鳥の調査と生態記録の方法を学び、その後は鳥の撮影に熱中していた。野外での自主的な観察訓練により、人目につかない鳥の巣を発見する能力を培ってきた。
沈振中は望遠鏡を用いて、アナログながら鳥に干渉しない方法により、トビの毎日の行為を定点で観察し記録していた。黄昏の集会、枝を掴む遊戯、交尾と営巣、産卵、そして子育て。その後、惨劇が起きた。白斑と名付けたメスのトビが、猟師の罠に嘴を挟まれ、もがきながら死んでいったのである。浪先生と名付けた夫のトビは、妻の周りを鳴きながら22回も旋回していた。
沈振中はトビの負傷から死、ブルドーザーが生息地の外木山地区を蹂躙していくのを目にし「トビの絶滅を記録する運命なのか」と絶望しかかった。しかし絶望が行動に火をつけ、12年勤務した教職をなげうち、以来20年をかけてトビの保護を行うと誓った。
その同じ頃、梁皆得は劉小如のアシスタントとして、調査研究に誠実に努力していた。月もなく風のある夜に樹上でリュウキュウコノハズクを観察、捕捉して計測するという生態調査は、梁皆得の8年に渡る助手生活の中でも困難なものだったが、これと並行して大肚渓口の鳥類調査プロジェクトの実行者となり、足にリングを付けた鳥は千羽を越えた。
大きな鳥への情熱が彼を支えていた。
巣の位置を見て近辺に罠がないか、またもう一つの穴の開いた巣に卵があるかを確認するため、沈振中は中央研究院の劉小如に協力を求めた。そこで、梁皆得が沈振中のトビの物語に加わり、記録を始めたのが、1992年のことである。
沈振中の著書『自然筆記』がバードウォッチング界に衝撃をもたらした。自然作家の劉克襄は1993年に梁皆得と共に外木山に入ったが、バードウォッチャーとしては素人の沈振中がトビを1羽ごとに精確に見分け、営巣行動や互いの関係を鮮やかに描き出すのに驚いた。当初はフィクションかと疑っていたが、沈振中のトビに対する偏執ともいえる情熱を目の当りにし、それは単なる楽しみではなく生活態度の具体的選択だと感じた。こうして、劉克襄は沈振中に時報報道文学賞への応募を説得したのである。
トビは沈振中にしか書けないテーマで、予想通り審査員賞を受賞したが、賞金は野鳥学会に寄付してしまった。仕事もないのに生活はどうするのかと聞かれると「一人だから節約すれば何とかなるものです」と答える。
梁皆得の熱狂も沈振中に引けを取らない。観察から撮影と休みもトビに捧げ、時には沈振中と、時には一人で、朝早くから外木山で撮影を行い、それが終わると中央研究院に出勤する。
沈振中はトビ専門だが、梁皆得は仕事の関係でリュウキュウコノハズク、レンカク、クロツラヘラサギ、カンムリワシ、クマタカ、ハチクマなどを長期的に記録してきた。
3年をかけて16ミリで記録した「リュウキュウコノハズクの物語」を1995年に完成させ、2年後には陽明山国家公園のカンムリワシの生活を記録した「草山にワシが飛ぶ」が台北市立図書館で初上映された。1999年には、台南県官田郷の菱畑の鳥の世界をテーマとした「菱池倩影」で金馬賞の最優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、梁皆得は台湾の自然ドキュメンタリー監督第一人者としての道を歩みだした。
台湾の鳥類発見史において、オオチドリ、ナンヨウショウビン、シラガホオジロ、ズグロチャキンチョウ、ツメナガホオジロ、ニシアカアシチョウゲンボウは梁皆得が最初に記録したもので、野鳥学会猛禽情報センターの林文宏は、今後も新発見があると信じていた。
その期待は実現する。
トビから自然環境を見つめる
梁皆得は、2000年に連江県の依頼を受けて馬祖の鳥類保護区のドキュメンタリーの撮影を始めた。「県政府には速戦速決は無理で、2年の期間をかけて状況を理解しなければ、良い映画はできないと言いました」と梁皆得が言う通り、2年の時間かけて、初年度はまず鳥類と種の調査に充て、2年目から撮影を開始した。その撮影において、撮影した2000羽のオオアジサシの中から絶滅危惧種のヒガシシナアジサシ8羽を発見したのである。このニュースは内外を驚かせた。梁皆得は幸運と謙遜するが、この幸運は努力と実力の結果もたらされた意外なご褒美だったのである。
その一方、沈振中はトビの観察を続けた。香港から中国大陸、日本、ネパール、インドとトビを求めて歩き、1993年から2004年にかけて『トビの物語』『失われたトビを求めて』『トビは帰る』のトビ三部作を完成させた。
梁皆得は沈振中が観察するトビの映像を記録し続けた。トビが遊ぶ画面を撮影するため、撮影機材を背負って谷を越え、今日がダメなら明日と3年をかけて撮影をつづけた。
その後、林恵珊が後に続く。
台北育ちの林恵珊は高2の時に『トビの物語』の白斑の悲劇に涙し、基隆市の海洋大学に進学してからは、しばしば基隆港にトビを見に行くようになった。猛禽を研究したいという思いが強まり、2005年に屏東科技大学野生動物保護研究所(大学院)に進学し、猛禽学者・孫元勲の指導を受けることになった。博士課程に進学してからトビを研究する機会に恵まれ、ようやく達人沈振中にメールができた。
二人は2010年に初めて出会ったが、沈振中は知識のすべてを傾け、林恵珊を連れて生息地を1か所ずつ訪ね歩いた。翌年、20年前に誓ったトビを守る期間が満了し、初老を迎えつつあった彼は瞑想修行に入っていき、トビのことを聞かれると「跡継ぎに聞いてくれ」と答える。跡継ぎとは、トビ姫こと林恵珊である。
沈振中と同じく、中年を過ぎてドキュメンタリーの大家となった梁皆得だが、台湾ではドキュメンタリー創作者の生活は楽とは言えない。
「老鷹想飛」は初めて一般公開されたドキュメンタリー映画である。
通常であればまず企画があり、資金を調達してから撮影に入るのだが、この映画は逆に資金調達前から始まった撮影が23年も続き、投下した時間やフィルム、器材費は見積もることもできない。「求愛や、雛を育てるなど貴重なシーンを撮る前は、出資者を探せなかったのです」と梁皆得は言う。しかも、出資者を募ってからも10数回も拒絶され、中にはペテン師扱いする人もいた。沈振中が引退を考えていた時になり、若い時に沈振中を知ったという台湾の実業家が500万元を出資してくれて、ようやく編集作業が始まった。その後、台湾猛禽協会がクラウド・ファンディングを募り、目標とした150万元を調達できて、この映画の公開にこぎつけたのである。
梁皆得にとっては、これは単なるトビの物語ではなく、人間と台湾の環境の物語である。劉克襄の言葉によれば、一人の人間が肉眼をもってトビと深い対話を続けてきた努力の物語なのである。外木山での沈振中は、翼のないトビであり、トビの心理学者でもある。トビの物語には、沈振中は欠かせない。そこでカメラの前に立つことを嫌がっていた沈振中を梁皆得が説得して、ようやレンズに向かわせ、壁があるだけと言うその住まいに初めてカメラが入った。
今回のファンディングについて、屏東科技大学鳥類生態研究室は研究費のためではなく、多くの人にこの映画を見て、トビの生存を重視し、その問題を理解してほしいからだと言う。トビの問題から台湾が直面する食の安全問題も見えてくるし、台湾のトビが私たちと共に平和に生き続けるための希望が生まれてくるのである。
今度こそ、台湾人は本当にトビを見つめられるだろう。
トビを追う人々は、一目でその姿かたちを見分けることができ、大自然を愛してやまない。一番左は梁皆得、左から2人目は沈振中。
翼の折れたトビの名は「宝貝」。沈振中が一般の人々にトビの生態を教える生きた教材となっている。
1999年、梁皆得監督は16ミリのフィルムを使って金門で自然生態の記録を開始した。
「トビ先生」の後継者である林惠珊は、農薬こそトビ減少の原因であることをつきとめた。
背に斑点があり、腹には縦の縞模様があるのが、トビを見分けるための顕著な特徴だ。
トビの巣の中には人間の衣服や手袋、ビニール袋やスポンジなどがあり、考えさせられる
トビを観察することが、台湾という土地の持続可能性を考えるきっかけになる。