
今年11月15日、台湾の第一学府である台湾大学は創立75周年を迎える。オックスフォードは900年、ハーバードは350年の歴史を持つのに比べると、75歳の台湾大学はまだまだ若いと言えるだろう。
歴史は長くないが、台湾大学は、権威主義体制への対抗から国民大会の万年議員廃除、そして政権の平和的移譲へと、半世紀にわたる台湾の民主化において常に第一線に立って時代を引っ張ってきた。政界を見ると、国会議員だけで台湾大学出身者が40人以上を占めており、与野党両陣営で「台大グループ」が大きな力を持っていることがうかがえる。
産業面では、農業から工業までハイテクへ化が進む現在、ウエハー、IC、それに世界最大のノートパソコンメーカーの創設者などにも、台湾大学出身者が名を連ねている。
「各業種から消去法で台湾大学出身者を消していくと、エリートはほとんど残らない」とも言われる。台湾大学と縁のない人からすれば耳障りな言葉だが、同意せざるを得ない部分もある。これまで台湾大学は、民選の総統を二人、女性副総統を一人、そしてノーベル化学賞受賞者を一人生み出してきたが、それだけにとどまらない。台大人は、社会から賦与された重大な責任を、どのように果たしてきたのだろうか。
台湾大学のキャンパスの奥の方にある酔月湖の傍ら、林の中に二棟の古い建物が建っている。台湾大学数学館だ。このひっそりとした空間で、これまで幾人もの学者たちが、教育改革を論じてきた。
ここ十余年の教育政策は、批判から改革、そして各種の政策が打ち出されるまで、常に台湾大学数学科の教授たちが深く関ってきた。
自分の子供が学校教育の中で苦しんでいるのを見て「人本教育基金会」を設立した史英教授は、体罰に反対してヒューマニズムによる教育を主張し、小中学校の教員や校長と激しい議論を戦わせてきた。94年、「四一〇教育改革連盟」は「高校・大学の増設、小人数学級の実現、教育現代化の推進、教育基本法の制定」の四つを訴え、数万人を集めてデモ行進を行なった。連盟の発起人である黄武雄氏は今でも教育改革界の精神的指導者とされている。
「統一入試打倒」が社会的なコンセンサスになると、入学制度改革のために大学入試センターが設置され、台湾大学数学科の曹亮吉教授が副主任として招聘され、その後の入試の内容や形式に大きな影響をおよぼした。
最近では、台湾大学数学科をすでに退官した黄敏晃教授と朱建正教授が新しい数学教科書の編纂に参画し、そこに取り入れた構築式数学が議論の的となっている。

台湾大学の精神が受け継がれ、手を取りあって台湾の民主化を実現した。2000年の初めての政権交代では、治国の重責は台大人から台大人へと引き継がれた。(邱瑞金撮影)
受け継がれる自由主義
台湾大学数学科の教授たちは、なぜこれほど熱心に教育改革に取り組んできたのだろうか。
「数学の専門的な訓練を受けた者は権威を否定しやすいのです。これは数学者に一般的に見られる傾向です」と黄武雄教授は言う。9年前、肝臓ガンを患って活動から退いた黄武雄教授だが、9年一貫過課程や義務教育12年化などに関して議論が絶えないのを見て心配している。今でも進学競争は激しいが、社会全体の雰囲気は開放的になり、十年前のように張り詰めてはいないという。かつての「四一〇教育改革連盟」の要求のうち、「高校・大学の増設」については反対意見も多く、その後、大学生の質が低下したという批判につながった。
「問題は、政府が新設大学に多くの資源を投入しなかったことにあります。元教育部長(教育相)の呉京氏が打ち出した高等教育の第二のトラックというのは、既存の、質が高いとは言えない技術職業学校をそのまま大学に昇格させたに過ぎません」と黄教授は指摘する。台湾では予算の多くが国防や経済部門に注がれて教育には十分な資源が与えられない傾向がある。これらの資源を教育部門に注ぎさえすれば、高等教育の問題の多くは容易に解決でき、台湾大学、清華大学、交通大学といった一流大学が国際水準に達せられるだけでなく、他の大学の質も向上させられると黄教授は指摘する。
我が国トップの大学の学術レベルを支えながらも、黄武雄教授をはじめとする台湾大学の教育改革指導者たちは、知識は少数の者に独占されるべきではないと考え、5年前にコミュニティ・カレッジの設立を呼びかけた。知識を広く開放して市民社会の成立を促し、またパブリック・フォーラムの理念を実現するためである。現在、コミュニティ・カレッジはすでに台湾各地の町村71ヶ所に設けられて成果を上げており、生涯学習の場となっている。

台湾大学の広大なキャンパスで青春のパワーを発散する。
黙して生きることなかれ
「台大人」である黄武雄教授が強力に教育改革を推し進めてきたのは、学者は象牙の塔から歩み出て、社会正義と国民の福祉を実現しなければならないと考えたからだ。ましてや、台湾大学は伝統的に時局への批判精神で知られてきた。この伝統は、50年代に自由主義理念を持ち込んだ哲学者、殷海光に始まる。
大陸の西南聯合大学哲学科、清華大学哲学研究所を卒業した殷海光は、1949年に台湾に移り、台湾大学哲学科で教鞭をとり始めた。同年に雷震が創刊した「自由中国」誌の主筆を務め、「むしろ鳴して死すとも黙して生きず」、黙ったまま生きているより主張して死んだ方がいい、という精神で勇敢に批判したため、長年にわたって国民党から監視されることとなった。
社会から孤立させられた殷海光は、文人として筆一本で時代の良心を呼び覚まそうとした。1958年、「自由中国」誌が発行禁止処分となり、国民党当局は彼を台湾大学から追放した。当時最も注目された学術迫害事件である。1967年、殷海光は胃ガンを患い、2年後に50歳で世を去った。
殷海光は「五四運動以降、胡適を除いて台湾で唯一影響力を持った知識人」と称えられた。長年にわたって「自由中国」に掲載されてきたその文章は明快かつ鋭利であり、70〜80年代の著名学者や政治評論家の多くは青年時代にその影響を深く受けてきた。殷海光に直接教えを受けた台湾大学卒業生には林キカ生、楊国枢、陳鼓応らがいる。

深遠なる学問を研究してきた古今の哲人の思想が台湾大学のすみずみに息づいている。
孤独な叫び
99年、殷海光の逝去から30年を迎えた時、台湾の学術界は記念シンポジウムを開いた。以前は台湾大学社会学科で教鞭を執り、今は中央研究院社会学研究所の研究員を務める瞿海原氏によると、殷海光が迫害を受けた事件は当時はあまり社会的に注目されなかったという。戒厳令による統治が最も有効に行なわれていた時期だからだ。「殷海光は、活動力のある社会運動のリーダーというわけではありませんでした。彼はアカデミックな知識人の小さな世界で影響力を持つ学者に過ぎなかったのです」と話す瞿氏によると、実際に殷海光と接触した人は多いとは言えないが、それでも後々まで影響力を発揮したと言う。当時の、未熟で完全ではない自由主義と実証主義の精神は大切に守られ、後の改革の力へと発展していったのである。
1970年代まで、台湾大学は台湾で最も名声の高い学術の中心であり、このような知識圏に、当局が心理的に大きな脅威を感じていたのは想像に難くない。傅斯年に続いて、19年にわたって学長を務めた銭思亮氏は、大学への政治的干渉をなくすために政府と頻繁に連絡を取ったが、文人の力は限られていた。殷海光事件の後、台湾大学では13人の教員が解雇されるという「哲学科事件」が発生したのである。
戒厳令が解除されるまでの30年間、台湾大学に対する政治的干渉の手は緩まなかったが、台大人の不屈の精神が消えることはなかった。台湾大学歴史学科を卒業した作家の李敖氏は、殷海光の「勇敢に目覚め、勇敢に戦う」という特質をさらに高めた。1960年代に「文星」誌に批判的な文章を書き始めてから、自費出版の著書が発行禁止となるまで、李敖氏は幾度も「言論が度を越えている」という理由で逮捕され、投獄されたが、監獄から解放されると筆鋒はますます鋭くなった。李敖氏は数十年にわたって、人々の虚偽を数々の証拠をあげて暴き、台湾大学の自由の精神を象徴する厳しい評論家となっている。

西洋への留学
政治的には暗い時代を経てきた台湾だが、経済は急速に発展した。むしろ、政治的には理想を実現しにくい環境だったからこそ経済や科学技術に力が注がれたのかも知れない。70年代から80年代にかけて、台湾大学のキャンパスには「台湾大学からアメリカへ行こう」という雰囲気が満ちていた。こうした雰囲気の中で大きな夢を胸に渡米した学生たちが、後に次々と帰国して台湾をハイテクアイランドへと躍進させる大きな力となったのである。
台湾大学電機学科を卒業したUMCの曹興誠・董事長は「台大校友季刊」に次のような文章を寄せている。氏が学生だった頃、当時の経済部長(経済相)の趙耀東氏が台湾大学を講演に訪れ、台大人は皆海外へ出て行ってしまい、国に貢献していないと怒ったことがある。経済相の言うとおりだと思った曹氏はこう書いている。「私はこのような人生を不自由に思っていた。海外へ出れば、それは行き止まりのように感じていたのだ。周囲の友人たちは海外留学を唯一の道と考えていたが、私は留学に興味はなかったのである。こうした雰囲気に私は一人で馴染めずにいた」と。
曹興誠氏は他の学生とは違う道を選んだ。交通大学管理科学研究所(大学院)を出ると工業研究院に入り、その後、当時まだ有望視されていなかったUMCの副総経理に就任し、さらに董事長の任を引き継いだのである。当初台湾では半導体産業はほとんど注目されていなかったが、10年後には台湾経済の牽引車になったのである。
「その頃、自分で統計を取ってみました。新竹サイエンスパークにある50〜60の企業のうち、半数以上の経営者は台湾大学出身者でした」と語る曹興誠氏は、台湾大学の自由な校風は心の広い人を育てると言う。自分と異なる意見を受け入れ、素質が高く、リーダーになれる人材だが、チームワークには向いていない。台大人は競争力があり、孤高なところがあるので人間関係がやや弱く、チームや集団としての力を発揮するという点では弱いのだという。
現在、台湾各地のハイテク企業経営者のうち、台湾大学出身者が占める割合を示す統計はない。しかし、華碩、広達、友達、聯発、威盛など国内の著名なエレクトロニクス企業を挙げていくと、経営者はいずれも台湾大学電機学科の出身だ。彼らは少なくとも年間数兆台湾ドルを生み出しており、母校に巨額の寄付をしている。これも台湾大学の高い名声が維持されている理由の一つだ。

知識の爆発と言われるハイテクの時代でも、親しみのある師弟関係は台湾大学の魅力のひとつである。
怒れる青年
台湾がハイテク・アイランドへと躍進してきた背景には台湾大学理工系の大きな貢献があるが、法政系も台湾社会を変える大事業を成し遂げてきた。
1990年、中華民国第8期総統の改選が行なわれた。当時の台湾は「ポスト蒋経国」の混乱期にあり、国民党指導者層では主流派と非主流派の争いが生じていた。同年3月、台北市の中正記念堂の広場で、台湾の歴史上最大規模の学生運動が行なわれた。
この「野百合学生運動」は台湾大学の学生が発起し、各大学と手を組んで行なわれた。学生たちはハンストと座り込みという手段で「国民大会の解散、臨時条項の廃除、国是会議の開催、政治経済改革スケジュールの策定」を求めた。1週間後、学生代表50名が李登輝総統と会見することとなり、総統の約束を取り付けた。そして彼らは「我々の声明―民主の追求を永遠に怠らない」を発表し、学生運動の歴史に輝かしい1ページを残したのである。
学生運動の中心的メンバーは、卒業すると次々と政治の世界に入っていった。最も有名なのは台湾大学政治学科出身の羅文嘉氏と馬永成氏だろう。二人は当時立法委員だった陳水扁氏の国会助手になって汚職や不正の追及に取り組み、陳水扁氏の政治生涯のために力を注いだ。この他に立法委員の王雪峰氏、李文忠氏、段宜康氏、行政院スポークスマンの林佳龍氏、それに台北市研究考核委員会主任委員の林正修氏らも「学生運動世代」と呼ばれる1960年代生まれだ。彼らは、政党、政界、学術界といった各領域ですでに中堅を成している。

陽光が降り注ぐキャンパス。古い学府に新しい空気が満ちている。
士は弘毅ならざるべからず
学生運動世代が政界で重要な地位に就き始めた頃、初めて政権の座に就いた民進党は多くの優秀な人材を必要としていた。そこで大学内に人材を求めざるを得ず、当然のことながら台湾大学が重要な選択肢となった。大学の知識分子は、学術の象牙の塔と社会的実践の間で選択を迫られ、その取捨に苦心している。
台湾大学社会学科の林万億教授によると、欧米と比較して、台湾では公的部門と学界との交流の歴史が浅く、法令が整備されたのは、ここ十年のことだ。台湾大学の教授が政府部門に招聘され始めた頃、彼らは大学学に対してどのような義務があるのか明確ではなかった。そこで台湾大学では校務会議を開いてルールを定めた。2000年から、出向や招聘の範囲を研究機関、民間企業、基金会などへと拡大して制度を整え、最高学府の「金の頭脳」を各界が活用できるようになったのである。
99年に台北県に招聘され、3年にわたって副県長(副知事)を務めた林万億教授は、学界と政界を比較して次のように指摘する。学者の生活範囲は非常にはっきりしている。講義を行ない、学生を指導し、研究し、論文を書くというのが主たる仕事で、極めて自主的だが、業績とは無関係に学界に身をおくことができる。一方の政治の世界ではチームワークが重んじられ、代議政治や直接民主主義などが関ってくる。市民による抗議や請願、世論の圧力もあり、専門能力があっても、上司や部下、議会、世論の支持を得られなければ、力を発揮するのは難しい。
副知事だった林万億教授は、知事の代理であり、県のスポークスマンでもあったため、雑務に追われ、夜中の1時にようやく床に就いたら電話で起こされるという毎日で、心静かに研究に取り組む学者の生活とは大きく異なっていた。
この生活を長くは続けまいと決意していた林万億教授は、その3年間の経験をこう語る。議会で罵声を浴びせられるのは辛かったが、巨額の予算を動かせるのは楽しかった。台北県の予算は600億で、それを公共建設や教育政策、文化建設などのために自分の手で動かすことができた。うまく用いれば喝采が得られるが、そのために自分を見失う可能性もあるという。

1990年3月、5000名にのぼる若者たちが台北の中正記念堂に結集し、「国是会議の開催」を求めた。台湾大学の学生が発起したこの「野百合学生運動」は、台湾の民主改革に大きな影響を及ぼした。(張良綱撮影)
学と官の両立は難しい?
注目したいのは、最近は学者と官僚の世界を行き来する人が少なくないことだ。中国伝統の知識階層には「学びて優なれば則ち仕う(学問がよくできれば官途に就く)」という考えがあるが、学界にこれが影響しているのだろうか。
台湾大学心理学科教授で中央研究院のアカデミー会員でもある楊国枢氏は「台湾の知識分子の困窮と超越」という文章でこう指摘している。台湾政府は人材を必要としており、在野の学者が次々と政府に「籠絡」されて、中国数千年の読書人の「学びて優なれば則ち仕う」という道を歩んでいる。中には治国の理想もないまま官僚になることだけを志す者もいて、これが台湾の知識分子が直面している苦境だという。
「学びて優なれば則ち仕う、というのは封建思想で、多元的な現代社会では取るに足りないものです。学者が政治に携わるのがいけないというのではありませんが、政務官の名簿を見るとほとんどが学者で、政権や内閣が交代すると、また別の学者が政務官になるというのは間違っています」と話すのは台湾大学城郷研究所の夏鋳九教授だ。知識人は自分の理念にしたがって大いに意見を述べ、直言するべきだが、政務官は慎重かつ円満にものごとを進めなければならず、喜怒哀楽や個人の理念を挟み込んではならない。このように両者の使命は大きく異なるため、うまく適応しなければ問題を起こしかねないと言う。
現在、台湾では野党が与党より多数を占めている状況にあり、政府は進歩的なイメージの台湾大学の学者を次々と入閣させているが、これは政策の推進に実際に有利に働くのだろうか。また学者が官僚としての経験を積むことは、その後の学術研究にどう影響するのだろうか。
林万億教授は、学界と政界の人的交流は非常によいことだと考えている。第一学府の学者であれば、上司や議会からその専門性を尊重される。林教授が在任中に決めた弱者や中途退学者のサポート、校長の選考制度などの政策は、台北県で今も受け継がれているという。
「今は授業や研究においても理論に豊富な経験が加わるようになり、台湾の事例から西洋の理論を検証できるようになりました」と語る林万億教授は、官僚としての経験を学術研究に生かせるかどうかは、個人の力にかかっているが、あまり長期間学界から離れていると研究に戻れなくなると指摘する。
「政府による学者登用で利益を得ているのは台湾大学です」と林教授は言う。学校の名声が高まり、常に権力の核心にあるという栄誉が感じられるからだ。ただ台湾大学は昔から知識人の潔癖さ重視しており、学内の学者が政府に任用されても、これを特に栄誉と見なすことはない。

1990年3月、5000名にのぼる若者たちが台北の中正記念堂に結集し、「国是会議の開催」を求めた。台湾大学の学生が発起したこの「野百合学生運動」は、台湾の民主改革に大きな影響を及ぼした。(張良綱撮影)
英雄が時代を生む
台湾大学は半世紀にわたって大きな影響力を発揮してきたが、同大学考古人類学科を出て今は仏光人文社会学院芸術学研究所の所長を務める林谷芳氏は「台湾大学の重要性は入試ランキングでトップであるとか、国の権勢や財力を一身に集めているとかではなく、過去にさかのぼって理解するべきです」と言う。世間は表立って活躍している台大人ばかりに注目するが、そうではない台大人も大勢おり、台大人はその点の限界を考えるべきだと指摘する。
50年来、次々と新たな思潮が起こり、少なからぬタブーを打ち破ってきた台湾大学だが、それもしだいに忘れられつつある。苦しい種まきの戒厳令期、英雄を生んだ学生運動期を経て、台湾大学はたくましく枝葉を伸ばしてきたが、今後の方向についてはさまざまな意見がある。
創立75周年を迎える第一学府・台湾大学は各界から尊敬されているが、いかにして校風を守り、人材を育て、同時に国家の新しい局面を打開していくか、これこそが最も重要な課題なのではないだろうか。

学術の廊下を台湾大学の学生が一人歩いていく。彼らが深く遠く歩んでいけるかどうかは、台湾の将来に関ってくる。