「文明国」に学ぶ
少年時代に郷塾に学んだ陳嘉庚の思想には伝統的な一面があり、晩年まで中国古代の数字を使って記帳していた。一方、積極果敢に挑戦もした。狭いシンガポールにいながら常に世界に目を向け、イギリス植民地社会の現実と、世界の趨勢を鋭く観察していた。
ゴム産業を指揮していた時には、数年をかけて手探りしつつ規格に合格するゴム靴や雨合羽や手袋を生産した。後にはアメリカが技術を秘密にしている中で、さらに5年をかけてタイヤの合格率を70%から98%まで高めた。そして広告を通して自社製品の販売ルートを開き、イギリス人による輸出独占という状況を打破した。
ビジネスの過程で、華僑企業を観察し、中国が熾烈な競争で敗れていく姿やその厳しい状況を見ると同時に、列強の文明事業の進歩を目の当たりにした。「文明国」は世界的視野を持ち、資源をうまく利用して製品の質を追求し、国際市場で優位に立つ。それが国の実力増強につながり、さらに教育発展と人材育成を促す。「強者はますます強くなる」という循環である。
陳嘉庚は心の中で、中国と先進国を比較した。識字率の違い、政府が教育を重視するレベルの違い、財産観の違い、国民の社会的責任感の違い、国民の素養や精神面の違いなどだ。シンガポールでは住民の死亡率が年々低下しているのに気付き、1945年に『住居と衛生』を出版して祖国に注意を促した。
興学による救国
また、アメリカの大学300校のうち280校は企業や個人の寄付で創設されたことを知った。中国の富裕層は、自分や子孫のためにしか金を使わず、公益事業には一銭も出さない。
こうして「教育は立国の本であり、興学は国民の天職である」という結論を出した。
陳嘉庚はグローバルな視野から観察し、これを実践した。生涯の富と心血を注いで国民の義務を果たしたのである。自らは質素な生活を送り、たまの贅沢で福建名物の牡蠣入り卵焼きを食べる程度だったが、その一方で大金を投じて故郷にアモイ大学を創設し、幼稚園、小学校、中学、女学校から、師範、水産、航海、商業、農林、国学までの専科を持つ「集美学村」を開いた。学村内には立派な建築物が並び、設備も整っている。軍閥が割拠する時代には、孫文がここを「中国永久和平学村」に認可し、福建と広東の省長に特別な保護を求めた。
陳嘉庚が関心を注いだのは、中国やシンガポールだけでなく、世界の全人類だった。『南僑回憶録』を読むと、陳嘉庚が常に気にかけていたのは郷里と国だけではない。戦渦に巻き込まれた世界各地で「戦勝国の指導者」が戦争の禍根を排除し、公平と道義をもって不平等と不公正を解決するよう求めている。また、各国に対して、華僑が世界にさらに貢献できるよう、華僑を規制する法令を廃止することを求めている。
陳嘉庚の生涯は、近代華僑百年史の縮図であり、シンガポールには、陳嘉庚の偉業と品格を成就させるだけの天の時と地の利、人の和があったと言えるだろう。この一代の完人の事跡を振り返る時、シンガポール人も誇らしく感じるに違いない。