戒厳令解除でゲーム世代がパーティー
李民中のアートの道は、パーティーさながらの時代のムードの中で始まった。青少年時代はちょうど台湾の高度経済成長期、当時最も流行したゲームは5元で30分遊べるパックマンとギャラガで、李は一日中でも遊べた。店主に「もう止めとけ」と言われるほどだった。高校時代は、当時非常に高価だったApple IIを、ゲームをするために友達に借り、返したのは3年後だった。だがそれで彼は早くから作図プログラムに親しみ、電子的配色の経験を積んだ。
1981年、文化大学美術科に入学。台湾は戒厳令解除寸前で、百家争鳴といった様相を帯びていた。李の日々はパソコン、ペットの猫、ディスコで、それ以外は「台北画派」の集まりに出ていた。
「若い芸術家が台湾に帰国するたびにパーティーが開かれ、海外の芸術界の動向や彼らの見聞が披露されました。これは大学の講義よりずっと勉強になりました」李は「時代は変わる。戦後の台湾芸術界が蓄えてきたエネルギーが爆発するぞ」と感じていた。
同世代の画家が政治的な創作に力を注いでいたのに対し、李はまったく別の道を選んでいた。夢中で絵を描いた幼い頃の情熱を思い出し、ゲームやアニメ、ロックなど青春時代に魅了された物を作品に取り入れた。記号にあふれ、目のくらむような芸術の登場だった。
李の子供の頃の部屋にはでこぼこした壁があって、毎晩寝る前に眺めると凹凸がつながって何かの形に見えた。口に見える時もあれば顔に見える時もあり、絵を描き込んで図柄を固定しようと考えた。それは、異なる角度や状況では、同じ物が異なる様相を見せるということである。それで李は反対に、絵の中の具象物を壁の凹凸のように流動的で固定されないものにしようと考えた。
「何を描いても目と関係がありました。この世界には目があふれ、星にも木の葉の裏にも目が隠れていてこちらを見ており、逃げられない」と感じる李の絵は、目と視覚が根本となった。
彼の絵はタイトルにも固定されなかった。多くの芸術家がまず表現したい主題を持ち、それを表そうとするので、標題は主題を説明するものとなる。しかし李の標題は作品と平行の位置にあり、作品に属したり作品を説明したりせず、時には散文詩のように言葉が絵のような魅力を放つ。
肖像プロジェクトに参加した人々は、自分の肖像画を手に楽しそうに李民中と記念写真を撮る。