
日本統治時代に建てられた台中の旧駅舎は、この都市の現代化の歴史を見守ってきた。
台中の旧市街では、近年次々と古い家屋がリノベーションされ、中央書局が再開し、歴史的建築物が修復され、緑空鉄道が開通するなどの動きが見られる。まるで台中旧市街のルネッサンスの到来を告げているかのようであり、この古い街に新たな活力を注いでいる。
「鉄道は、この都市の近代化の物語に深く関わっています」と語るのは台中文史復興組合創設者の格魯克だ。1908年に縦貫線が開通すると、台中は台湾南北と南投を繋ぐ交通の要衝となり、物資が集まり、市場が成立して繫栄していった。1920年代、台湾文化協会は台中で活発に活動するようになり、書店の中央書局を創設、台中は文芸思想の中心地となった。格魯克によると、台中は比較的内陸に位置しており、鉄道がなければ、これほど急速に発展することはなかったと考えられる。こうして、台中旧市街の物語の旅は、鉄道から始まることとなった。

1899年創立の大同小学校。現在も日本統治時代の優美な校舎が残っている。
地名を守る
昔から台中に暮らす人々にとっては、通勤も塾通いもデートも、常に旧台中駅とともにあった。1917年に竣工したこの駅舎は、水平の帯状に白い装飾が入り、銅板の屋根の中央に塔が立っており、堂々としていて鮮明な印象を残す。
子供の頃から旧駅舎の近くに住んでいた格魯克にとって鉄道は日常の風景だった。「部屋の窓から、列車が鉄橋を通る様子が見えました」と言う。列車は家々の上を走り抜け、鉄橋を通って駅に入るのだった。その話によると、現地の人々はこの鉄橋を、親しみを込めて「火車路空」と呼ぶそうだ。地元の人に「台中肉圓」への行き方を尋ねると、台湾語でこう答えるだろう。「駅前から火車路空を通り、右折して復興路を行くとありますよ」と。地元の人にとって「火車路空」は単なる鉄橋であるだけでなく、ランドスケープであり、一つの地名でもあるのだ。
ところが、この暮らしに溶け込んだ風景が、鉄道高架化によって消えてしまう可能性が出てきた。だが、鉄道は繁栄した旧市街を通っているため、鉄道と周辺エリアの発展は密接につながっている。そうした中で鉄道が消えてしまったら、文化の記憶も失われてしまうのだろうか、と格魯克は心配した。2014年、台中の鉄道高架化まであと2年という時、格魯克は従来の鉄道に沿って空中ガーデンを作るという構想を描いた。
この構想を多くに人に伝えて話し合うため、格魯克は海外で鉄道の廃線を公園に改造した二つの実例を取り上げた。ニューヨークのハイラインとパリのプロムナード‧プランテだ。廃線を公園にすることで改めて都市を知るという方法を提唱したのである。こうして彼は台中文史復興組合を設立して他の市民団体とともに奔走し、「緑空鉄道軸線計画」を実現することに成功した。文化的意義を持ち、緑にあふれた「緑空鉄道」を設けることが決まったのである。

台中の旧市街は散策に適している。独立書店や中山緑橋の鋳鉄の飾り格子など、新旧が共存する時代の痕跡を見て回ることができる。
列車から都市を見る
全長1.6キロの「緑空鉄道」は、台中市西区の演武場(将来的には国家漫画博物館となる)と東区の帝国製糖廠を結ぶ。高架化した後の台中駅を出て旧駅舎に入ると、鉄道の廃線沿いに緑空鉄道に入ることができ、道路に出る必要はない。緑空鉄道は旧軌道沿いにあり、枕木や砂利、鉄道電気化の痕跡などを見ることができる。日本統治時代に、窪地というデメリットを克服して建てられた路線であるため、緑川を整備して軌道を高く設け、列車が人や車や家屋の上を通るようにしてある。そのため緑空鉄道では常に2階建て前後の高さを歩くこととなり、当時の車窓からの眺めを楽しむことができる。
緑空鉄道を散歩すると、沿線の植栽と、鉄道や台中文学をイメージしたアート作品を眺められ、時々頭上の高架線を列車が通り抜け、眼下には車の行き交う道路が見える。鉄道と緑川が交わる地点を通れば、かつて日本式の庭園のある木造家屋が並び、小京都と呼ばれた時代に思いを馳せることができる。
格魯克に導かれ、私たちは台中路上の第一火車站路空と呼ばれる鉄橋の上、区の境界線へとやってきた。格魯克は、旅行者を案内している時に、今はどの区を通っているかと尋ねることがよくあると言う。実は町並みから区が見分けられるのである。商店が立ち並ぶにぎやかな中区とは違い、西区は公的機関や学校などが多い文教地区と言える。一方、台中駅の裏側に位置する東区は、かつては製糖工場と造酒場があり、さまざまな工場が集中する労働集約型の産業エリアだった。

1960年代にはモダンな遊び場だったダンスホール「南夜大舞庁」。一度は廃墟と化したが、現在は立面の修復が終わり、新たな命が吹
鉄道沿いを散歩する
格魯克は、「緑空鉄道」を推進するほか、多くの人に「鉄道沿いの散歩」を呼び掛けている。
後車站(駅の裏側)から出発し、かつての糖鉄中南線の跡地を訪ねる。日本統治時代に建てられた旧台中駅の裏側は、当初は糖鉄中南線だった。中南線というのは台中と南投をつなぐという意味である。糖鉄は製糖工場に入るだけでなく、バナナ市場にもつながっていた。当時はバナナが大量に輸出されており、個人経営の貿易会社が多数設立された。例えば復興路にある「文青果」と呼ばれる建物は、その華麗な建築様式から当時の繁栄ぶりがうかがえる。このほかに、水河歯科、台中産婆講習所跡地、博愛検験所など、台中の医療発展の歴史を垣間見ることもできる。
また、路地裏にある「富興工廠1962」は台湾で最も早くに設立された化粧品会社「盛香堂」の工場跡地だ。かつて台中駅の裏側には工場が建ち並んでおり、この古い工場では林森美髪霜や賓士髪蝋など、今も多くの人の記憶に残っている製品が生産されていた。この工場は生産ラインが移転したために放置されていたが、後にデザイングループがここを文化空間へと改造した。工場の建築構造を残した中に、さまざまなクリエイティブグループが入居している。フラワーアレンジメント、レストラン、古いレコードや古着のショップなどが集まっており、不定期にフェアを開いている。廃棄された工場を旧市街の新たな生活の美の集合体へと生まれ変わらせたここは、ドイツのレッド‧ドット‧デザイン賞や日本のグッドデザイン賞、台湾の金点設計賞にも輝いた。

台中州庁の一角。
旧市街の散策方法
台中の旧市街を訪れた人の大部分は「宮原眼科」に足を運ぶ。ここではアイスクリームを食べ、台湾土産を買うことができる。これは1927年に日本の眼科医で医学博士の宮原武熊が建てた建物で、後に倒壊の危険があるとして取り壊しが決まったが、それを日出グループが買い取って修復したものである。建物の歴史的な雰囲気を残し、内部には木製の書架を設置し、吹き抜けのガラスの天井から日が差し込むようにしている。そのレトロで優雅な雰囲気により、この建物は旧市街地のランドマークとなっている。
旧市街で注目されるのは宮原眼科だけではない。東海大学建築学科の助教‧蘇睿弼は、旧市街の表情は変化に富んでいて、さまざまなテーマを設定して歩けば、その都度、新たな楽しみ方ができると考えている。
2012年、蘇睿弼は研究のために旧市街に暮らし、長年放置されてきた銀行の2階の空間を「中区再生基地」にしてこの一帯の都市再生に取り組んだ。ワークショップの形で『大墩報』という刊行物を発行し、大勢の学生を率いて旧市街の物語を採集していった。このエリアは宝物にあふれていて、毎号、異なるテーマごとにさまざまな物語を発掘することができたという。若者の起業、職人、建築、路地裏の美食、書店‧カフェなどのテーマである。蘇睿弼によると、この街の魅力は、徒歩圏内に老舗や新しいショップが並び、生活感があることだと言う。
蘇睿弼は以前、日本で建築を研究していた時、特に空き家の問題に注目し、台中の旧市街地の空き家にはそれぞれのストーリーがあることに気付いたと言う。
例えば、現在は好伴社計が借りている建物は、1930年代には白福順弁護士事務所だった。地域の名士だった白福順は、後の二二八事件に巻き込まれて、台中を離れた。今日も、その建物の薄い褐色の十三溝レンガ(13本の溝が入った飾りレンガ)と当時の看板から、時代の痕跡を読み取ることができる。
民族路と継光街の交差点にある「ChangeX Beer南園酒家」にも味わい深い物語がある。ここは、最初は日本統治時代の1915年に創業した西洋料理店「精養軒」で、台中の名士がよく訪れるレストランだった。林献堂はその日記の中で、夫人の誕生日をここで祝ったなど、しばしば精養軒に言及している。1936年、精養軒の建物は半官半民の台湾拓殖株式会社台中出張所となった。戦後には公共食堂となり、1962年に「南園酒家」となった。南園酒家は60~70年代には台中の四大酒家の一つとして繁盛した店である。そして今日、クラフトビールメーカーがここを借り受け、3年をかけて建物を改装した。トタン屋根をはがし、昔のように回廊と天窓を設け、食事をしながら展覧会やパフォーマンスを楽しめる現代的な空間へと変え、百年の歴史を持つ建物の魅力を再現したのである。

台中州庁の2階の廊下。日本統治時代にはここから玉山を望むことができたという。
建築物に見る時間の流れ
台中旧市街の魅力の発掘に力を注いでいるのは民間だけではない。長年にわたり、公的部門も歴史的建築物の修復や再利用などを通して、この都市の記憶を再現しようとしてきた。2023年9月に一般市民の見学予約受付が始まった旧台中州庁もその一つである。
旧台中州庁は1912年に着工し、翌年に第一期が完成、5段階の拡張を経て1934年に現在の規模になった。この壮大な建物の修復工事は2019年に始まり、2022年にようやくお披露目されることとなった。
私たちは、心地よい天気の日に台中州庁を訪れた。秋の穏やかな日差しが降り注ぐ中、赤煉瓦に白いラインの入った外壁とマンサード屋根が映え、青空の下、その堂々たる姿が浮かび上がる。ちょうど日本から訪れた団体客がガイドの説明を聞いていたので、私たちもその説明に耳を傾けてみた。中華圏の建築物は一般に南向きが多いが、台中州庁が東向きなのは陽光による殺菌を考えてのことだという。また、床が高く設けられているのは湿気を防ぐためである。
建物内の床はコンクリートなのだが、2階のとある部屋だけは木の床になっている。これは、当時の裕仁皇太子(後の昭和天皇)の休憩用に設けられた部屋なのである。当時は、天気の良い時には、2階の窓から、新高山と呼ばれた玉山が見えたと言う。これを聞いて、日本人観光客はかつて昭和天皇が見た景色を一目見ようと、思わず窓辺に駆け寄って遠くを眺めていた。
台中州庁の他に、かつての台中市役所や刑務所官舎なども次々と修復され、当初の面影を取り戻している。台中の旧市街地では、じっくりと観察すればいたるところに時代の痕跡を発見できる。格魯克が言う通り、中を覗いてみれば、そこに面白いものが見つかるのである。

民生路にある鉄橋は、地元の人々の暮らしに溶け込んだ風景となっている。

台中文史復興組合の格魯克が設立を推進した「緑空鉄道」。鉄道が都市を理解する媒介になることを願って設けられた。

緑空鉄道を歩くと、豊かな緑を感じつつ、かつての車窓の角度から街を見渡すことができる。

富興工廠は古い建築の構造を残して小さなショップを入居させ、旧市街の生活の美の集合体となっている。


宮原眼科は歴史を感じさせる建築と、木製の書架や吹き抜けの天井が生み出す雰囲気で多くの人をひきつけている。

蘇睿弼は旧市街地の生活にひかれてここに暮らし始め、建築の専門を生かして古い建物の再生を推進している。


長年をかけた修復の末、台中州庁はかつての姿を取り戻した。一般市民も見学を予約でき、この建物のスケールと美しさを感じることができる。