『拾誌』を手に取ると、それは一枚の紙にすぎず、ちょっと見たところは普通の宣伝ビラのようである。だが、広げてみると、そこには南庄中港渓一帯の鉱山の歴史や、サイシャット族のパスタアイ集落の伝統の祭典など、やや硬く真面目な内容の文章が並ぶ。ここには故郷・南庄の将来を変えたいと考える若者たちの願いが込められているのである。
地域の物語を通して将来を変える
「私たちは、地域の産業を系統的に方向転換し、既存のイメージを変えたいのです。『拾誌』の発行はその手段の一つです」と話すのは、27歳、老寮ホステルを設立した邱星崴である。彼は『拾誌』の編集長も務める。
この素朴で静かな農村が、19世紀には樟脳や茶葉、レモングラスの産地で、輸出産業の要地であったことを知る人は少ない。それが1970年代、これらの産業が次々と衰退し、南庄はしだいに主体性を失っていった。
「それ以来、南庄の印象は、外部の人々によって決められてきたのです」と言う。まず最初に、苗栗県鹿場で自動車広告が撮影され、南庄は新興の野外レジャーの地とされるようになり、バカンス型の別荘が建てられるようになる。その後、コーヒーの産地でもない南庄はマスメディアによって「コーヒーの都」と呼ばれるようになった。また、北埔の名物として広く知られる擂茶(穀類や豆、ゴマなどを擂ってお茶を注いだ飲み物)も、実は苗栗の客家集落のものではなく、1949年に国民政府とともに渡って来た人々がもたらしたものだということが分かった。このように現実とは異なるイメージを変えて故郷の本当の姿を伝えたいと考え、『拾誌』を出すことにしたのである。
だが、郷里の真の姿を伝えるというプロセスは容易ではなかった。両親が公務員だったため、邱星崴は幼い頃に南庄を離れ、都市部の学校に通っていた。「最初から何かおかしいと感じていました。一般に持たれている南庄のイメージが、自分の幼い頃の記憶とは違うことに気付いたのです」と邱星崴は言う。
南庄を語る時、誰もが桂花巷(キンモクセイの小道)やアブラギリ・フェスティバルを取り上げる。また子供の頃に遊んだ河原には、かつてはなかった巨大な砂利採掘場が出現していた。山林や野原には次々と個人の別荘が立ち、近づくこともできない。
故郷が見知らぬ姿に変わってしまったことに、若い邱星崴は最初は単に不満を感じただけだったが、大学3年の時に「清代の台湾開発史」を履修して、ようやく改めて故郷を見直すこととなる。そして大学4年になると「農村再生条例」に注目し、彼は足しげく苗栗を訪れるようになった。マスコミや多くの人が注目する大埔の土地徴用問題や華隆の労働者運動などの場にも彼の姿が見られるようになった。
客家の山間農耕文化を取り戻す
「これらの社会運動に関わるようになり、自分の郷里に関心を注がないわけにはいかないと思うようになりました」と話す邱星崴は、2007年に苗栗県の三湾郷と南荘郷の境界、一般に大南埔と呼ばれる南富村に帰省して住むことにした。通学に便利なように、大学卒業後は家から近い清華大学人類学研究所に進学した。
2011年、邱星崴と仲間たちは大南埔農村オフィスを開設し、南庄地区の文化や歴史の記録と継承を開始する。かつて行われていた有機水稲の栽培を再開し、手工芸ワークショップを開き、コミュニティ通信を発行するなど、さまざまな方法で農村改造に取り組み始めた。だが、こうした「町づくり」の概念と手法は、70~80代のお年寄りには受け入れられず、地域住民から疑問の声が上がり始める。
それまで参加してきた社会運動は、真っ先に第一線に跳び出して権利を主張するというものだったが、地域を変えるには時間をかけなければならないことに気付いた。
だが、楽観的な邱星崴は幸運だった。現代人は地域の文化に触れる滞在型の旅を好むようになり、また文化クリエイティブ産業も奨励されるようになった。昨年、彼は仲間たちと、南庄の旧市街地から遠からぬ南江街に「老寮ホステル」を開設した。旅行者に農業体験の場を提供し、労働と交換で無料宿泊できる宿泊施設である。オープンと同時に、彼らは地域の歴史や文化を記録した『拾誌』を発行し始めた。
常駐のメンバーの他に、『拾誌』では苗栗に暮らす十数人を招いて地元の視野での記事も掲載している。雑誌と言うと数十ページのものをイメージするが、『拾誌』はA4サイズの紙一枚で、毎号ひとつのテーマに絞っている。600~700字の記事に過ぎないが、一般には知られていない南庄の産業史を掘り下げている。
社会学と人類学の専門教育を受けた邱星崴の行動と理論の背景には、しっかりしたフィールドワークの基礎がある。昨年オープンした老寮ホステルの「老寮」という名称にも過去の産業の物語が隠されている。かつて客家の人々は山に入って田畑を開き、数カ月にわたって山で過ごしながら紙や樟脳を造った。山での短期生活のために、簡単な(樟)脳寮、紙寮、炭寮といった宿泊場を設けていたのである。「老寮」の名称もこうした歴史から取った。
『拾誌』という名称にも明確な背景がある。「拾(十の旧字)は10元を意味し、10元で中港渓の独立と進歩を支持するメディアという意味を込めました。また、何かを『拾う』には腰をかがめなければならず、それは謙虚に物を大切にする態度であり、真の客家の精神でもあります。さらに、砕けたものを『拾い集める』ことで、それが暮らしの中の微光となり、私たちと大地のつながりを照らしてくれます。こうしたさまざまな意味を込めて拾誌と名付けました」
邱星崴の話は時に抽象的で、社会学の弁証を思わせる。だが、一言でいえば「人と大地の依存関係を取り戻す」ということだ。南庄に帰るたびに、邱星崴は祖母が「客家人というのはね、山を耕して種をまき…」と語るのを耳にする。台湾北部の客家集落では、山林のすべてが暮らしの一部なのである。それは原住民族の狩猟文化や、平野から始まった閩南文化とは異なる。「私たちの行動の核心は、『ひとつの山を耕す』ことなのです」と言う。
若い世代の優位性を発揮
帰郷を決めて以来、邱星崴は「農村をどう改造すべきか」と考え、模索しながら歩んできた。そして見出した答えは産業である。多くの地方では町づくりによる改造運動が行なわれている。町づくり運動推進から20年になるが、地域住民の協力と公共の事柄への参画を奨励するという主旨から離れたものもあり、壁にぶつかっている。邱星崴は「農村単位での農業地方産業の推進にはまだ機会がある」と考えている。例えば、苗栗県苑裡のイグサ産業は成功事例の一つと言える。
苑裡では、地域の推進により伝統工芸のイグサ編みが美しい工芸品として生まれ変わり、世界的なデザイナーとの協力などを通して、有名女優の舒琪(スー・チー)が着るまでになった。南庄の周辺地域にも、大湖の手漉き紙や南庄大南埔の土壟(米をつく道具)など、優れた伝統工芸が残っている。
今後、邱星崴と仲間たちは、若者の得意分野を発揮し、農作物加工とサービスを発展させていくつもりだ。そして老寮ホステルの空間を通して滞在型の農業体験の旅を推進し、今年の秋には農業クリエイティブショップを開き、有機農作物の飲食サービスも開始する。
「『老寮』から『拾誌』まで、すべての文字の背後に、しっかりしたフィールドワークから得た現地の文化と物語が込められています。私たちの行動の一つひとつが、南庄の真の物語を語るという目的を持っています」と邱星崴は語る。
19世紀、苗栗県南庄は輸出産業の要地だったが、1970年代に時代は大きく変わり、鉱業などの産業が衰退した。(李湞吉撮影)
洗濯機が普及した今も、南庄では明け方に中港渓の河原で洗濯をする人々の姿が見られる。(李湞吉撮影)
南庄の真実の姿を伝えるために、老寮チームは滞在型の農業体験の旅を推進し、労働と交換で無料宿泊できるようにして、南荘の暮らしに触れてもらおうとしている。(南庄老寮提供)