東京ラブストーリー
1943年に花蓮秀林郷に生まれた田春綢さん。父はキリストを信じるタロコ人、母は助産婦だった。彼女は幼い頃から祖母とともに山にサツマイモやトウモロコシを植え、伯父とともに山で狩猟をしていた。母が研修でいなかった小学6年の時には、母の代わりに助産婦を務めたこともある。
中学を出ると台中看護学校に入り、首席で卒業して助産婦になった。1977年、彼女は最初の結婚に終わりを告げ、友人とともに東京に渡って美容技術を学んだ。東京で道を尋ねた時に出会ったのが、今のご主人の丸山忠夫さんである。
3ヶ月の美容研修はすぐに終わり、田春綢さんは台湾に戻ったのだが、丸山忠夫さんは労をいとわず4回も花蓮まで訪ねてきて、ついに彼女の心をつかんだ。こうした経緯で日本に嫁いだ彼女は、異国での寂しさを紛わすために手芸を学んで人形作りの師範の資格を取った。台湾に帰ったらこれを教えて暮らそうと考えていたが、人形作りの4箱分の専門書はベランダに置いたままだ。
花蓮県秀林郷の「土地を返せ」運動について語るには、1968年に定められた「山地保留地(後の原住民保留地)弁法」までさかのぼる必要がある。当時、政府は全国に26万ヘクタールの山地保留地を定め、原住民が地上権や耕作権を持つとしたが、連続10年(現在は5年)耕作しなければ、所有権は得られないとした。
その条文には、山地保留地は漢民族には譲渡も貸与もしてはならないと定められている。だが、開発が尊ばれる時代にあって、方便の道を開く例外条項が加えられた。鉱業や砂利採掘、観光、工業資源のための開発なら、国土保全に支障のない限り、漢民族も保留地を借りて開発利用できるとされたのである。
そのため1968年から77年までの10年間、原住民がまだ耕作権しか持っていない時期、企業は原住民に地上権補償金を支払いさえすれば、保留地を借用できたのである。こうして耕作の機会を失った原住民の人々は土地の所有権を得る機会も失った。一方の企業は、後の問題を避けるために原住民に「土地権利放棄書」に署名させたのである。権利を放棄した土地は国有地となり、企業は政府と交渉するだけでよい。
1973年、アジアセメント社は秀林郷の豊富な鉱物資源に目をつけ、ここに工場を設置することを決めた。秀林郷富世村で土地借用の説明会を開き、村民から9年間土地を借りて地上物の補償金として3000元を支払うと説明した。だが、鉱業法の定めでは、土地権利者が同意しようとしまいと、アジアセメントにその意志さえあれば無期限にその土地を借用できることを住民は知らなかった。また住民たちは、同社がなぜ翌年に全地主の権利放棄書を取得できたのか知らなかった。
当時の張栄文郷長はすでに亡くなっているが、氏は当時「これは原住民が自分で応じたものだ」と語った。しかし「100名以上の地主の270筆もの土地が、なぜ同じ日に放棄されているのでしょう」と、花蓮・台東地区のセメント産業を研究している鐘宝珠さんは指摘する。この経緯にはさまざまな疑問があり、背後で役場が推進者の役割を果たしたことがうかがえるのである。
アジアセメントは、すべて法的手続に則って行なったことで、借用書や土地権利放棄書も揃っており、地主に補償金を支払う他に、長年にわたり役場に毎年1500万元の賃貸料を支払っているという。また同社はかつて「原住民を積極採用する優良企業」として表彰されたこともある。そして今、原住民から土地の返還を求められ、同社は政府に問題の解決を求めている。
この事例は氷山の一角に過ぎず、近年は原住民保留地をめぐる争議が一つ一つ浮上している。例えば1991年、西部の鉱物資源が枯渇したため、行政院は秀林郷から遠からぬ和平郷の原住民保留地をセメント専門地域に変更し、高額の補償金を支払う形で強制徴収した。こうした政策のため、結局「原住民保留地」は保留されず、たやすく人手に渡ってしまったのである。
全国の原住民族居住地域の中で秀林郷は土地の流失が最も深刻な地域だ。学者の研究によると、秀林郷では原住民のアルコール中毒や児童買春などの問題が特に深刻で、これらの問題は、タロコ族が土地を失い、社会構造が変わったことと関わっているという。
地図の中の緑色の部分が、秀林郷のタロコの人々がアジアセメントと権利を争っている土地だ。