
日本に嫁いだタロコの婦人が、静養が必要になった夫を連れて花蓮に帰省し、定住した。その暮らしがまだ落ち着かないうちから、彼女はタロコの人々の土地をめぐるアジアセメント社との抗争にのめり込んでいった。
10年来、少しずつ資料を集め、前線に立ち、法廷に立ってきた。その願いは、祖先の土地に再び立つことだけである。
田春綢(イグン・シバン)さんの家に入ると、床には資料の箱が積み上げられ、壁一面の書架にはきちんと分類した同意書や権利放棄書、賃貸契約、地籍資料などが並ぶ。さらに、夫の丸山忠夫さんが作ったさまざまな表や記録、書き込みのある地図、アジアセメントの土地借用プロセスなどの資料も並んでいる。
田春綢さんの仲間である花蓮県環境保護連盟会長の鐘宝珠さんは「台湾の全てのセメント会社との抗争で、この事件は資料が最も完備しています。全て田さんご夫妻のおかげです」と言う。

補償金を受け取らず、古い家を30年以上も守り続けてきた胡文賢さんは、鉄条網で囲まれた荒地と、時々爆破音が聞こえてくる裏山を指差し、生きているうちに再び祖先の土地に立ちたいと語る。
思いがけない人生
1995年、故郷を後にして22年になる田春綢さんは、体調を悪くした日本人のご主人を連れて、静養のために二人で花蓮に戻ってきた。その荷物も解かないうちに、田春綢さんはアジアセメントの土地借用権満期の話し合いに出席し、はじめて父や友人たちの土地が他人の手に渡っていることを知ったのである。
この会議は、村役場と会社側とタロコの人々の三者の喧嘩になってお流れとなったが、思いがけないことに、そこには疑わしい同意書や権利放棄書などの重要書類が残されたていた。
これらの資料を手に、田春綢さんは夫とバイクで戸籍事務所や地政事務所を回り、一年をかけて資料を集め、弁護士に教えを請いながら原住民族100人に聞き取り調査をした。その結果、すべての地主が、土地権利放棄書に署名したことを否認したのである。
お年寄りに涙ながらに頼まれ、50歳過ぎの田春綢さんは、自分と夫の後半生を「土地を返せ」運動にささげることを決めた。

本棚いっぱいの土地や法律、原住民関係の資料から、田春綢さんの十年来の努力がうかがえる。
東京ラブストーリー
1943年に花蓮秀林郷に生まれた田春綢さん。父はキリストを信じるタロコ人、母は助産婦だった。彼女は幼い頃から祖母とともに山にサツマイモやトウモロコシを植え、伯父とともに山で狩猟をしていた。母が研修でいなかった小学6年の時には、母の代わりに助産婦を務めたこともある。
中学を出ると台中看護学校に入り、首席で卒業して助産婦になった。1977年、彼女は最初の結婚に終わりを告げ、友人とともに東京に渡って美容技術を学んだ。東京で道を尋ねた時に出会ったのが、今のご主人の丸山忠夫さんである。
3ヶ月の美容研修はすぐに終わり、田春綢さんは台湾に戻ったのだが、丸山忠夫さんは労をいとわず4回も花蓮まで訪ねてきて、ついに彼女の心をつかんだ。こうした経緯で日本に嫁いだ彼女は、異国での寂しさを紛わすために手芸を学んで人形作りの師範の資格を取った。台湾に帰ったらこれを教えて暮らそうと考えていたが、人形作りの4箱分の専門書はベランダに置いたままだ。
花蓮県秀林郷の「土地を返せ」運動について語るには、1968年に定められた「山地保留地(後の原住民保留地)弁法」までさかのぼる必要がある。当時、政府は全国に26万ヘクタールの山地保留地を定め、原住民が地上権や耕作権を持つとしたが、連続10年(現在は5年)耕作しなければ、所有権は得られないとした。
その条文には、山地保留地は漢民族には譲渡も貸与もしてはならないと定められている。だが、開発が尊ばれる時代にあって、方便の道を開く例外条項が加えられた。鉱業や砂利採掘、観光、工業資源のための開発なら、国土保全に支障のない限り、漢民族も保留地を借りて開発利用できるとされたのである。
そのため1968年から77年までの10年間、原住民がまだ耕作権しか持っていない時期、企業は原住民に地上権補償金を支払いさえすれば、保留地を借用できたのである。こうして耕作の機会を失った原住民の人々は土地の所有権を得る機会も失った。一方の企業は、後の問題を避けるために原住民に「土地権利放棄書」に署名させたのである。権利を放棄した土地は国有地となり、企業は政府と交渉するだけでよい。
1973年、アジアセメント社は秀林郷の豊富な鉱物資源に目をつけ、ここに工場を設置することを決めた。秀林郷富世村で土地借用の説明会を開き、村民から9年間土地を借りて地上物の補償金として3000元を支払うと説明した。だが、鉱業法の定めでは、土地権利者が同意しようとしまいと、アジアセメントにその意志さえあれば無期限にその土地を借用できることを住民は知らなかった。また住民たちは、同社がなぜ翌年に全地主の権利放棄書を取得できたのか知らなかった。
当時の張栄文郷長はすでに亡くなっているが、氏は当時「これは原住民が自分で応じたものだ」と語った。しかし「100名以上の地主の270筆もの土地が、なぜ同じ日に放棄されているのでしょう」と、花蓮・台東地区のセメント産業を研究している鐘宝珠さんは指摘する。この経緯にはさまざまな疑問があり、背後で役場が推進者の役割を果たしたことがうかがえるのである。
アジアセメントは、すべて法的手続に則って行なったことで、借用書や土地権利放棄書も揃っており、地主に補償金を支払う他に、長年にわたり役場に毎年1500万元の賃貸料を支払っているという。また同社はかつて「原住民を積極採用する優良企業」として表彰されたこともある。そして今、原住民から土地の返還を求められ、同社は政府に問題の解決を求めている。
この事例は氷山の一角に過ぎず、近年は原住民保留地をめぐる争議が一つ一つ浮上している。例えば1991年、西部の鉱物資源が枯渇したため、行政院は秀林郷から遠からぬ和平郷の原住民保留地をセメント専門地域に変更し、高額の補償金を支払う形で強制徴収した。こうした政策のため、結局「原住民保留地」は保留されず、たやすく人手に渡ってしまったのである。
全国の原住民族居住地域の中で秀林郷は土地の流失が最も深刻な地域だ。学者の研究によると、秀林郷では原住民のアルコール中毒や児童買春などの問題が特に深刻で、これらの問題は、タロコ族が土地を失い、社会構造が変わったことと関わっているという。

地図の中の緑色の部分が、秀林郷のタロコの人々がアジアセメントと権利を争っている土地だ。
土地を返せ
幸い、秀林郷の事例では、かつて役場が推進した権利放棄の書類に多くの瑕疵があるとして、花蓮地政事務所が却下したため、地元の人々は土地を取り戻せる可能性が出てきた。
10年にわたる長い抗争において、地元の原住民は、アジアセメントと協議して和解金を受け取るべきか、あくまでも土地を取り戻すべきかという選択の間で揺れてきた。年配者の多くは、土地を取り戻して正義を勝ち取りたいと考えているが、郷里を離れた若い世代の多くは、和解金を受け取って速く解決したいと考えている。
第一線に立った田春綢さんの場合、血のつながった弟がアジアセメントで働いているため、住民から敵の回し者ではないかと疑われたこともある。彼女が病気で一年間休んでいた時には、金を受け取って日本に帰ったのではないか、と噂する人もいた。金のことばかり考える同胞や兄弟に対して、田春綢さんは面と向かって厳しい言葉で非難する。だが、民族が直面している運命を考えると、あきらめることはできない。
大企業と戦う中で、はじめは条文の意味さえ分からなかったのに、今ではどの条文が何ページにあるのかも分かるようになった。付箋がいっぱい貼られた六法全書を見れば、この10年の田春綢さん夫妻の努力がうかがえる。午前3時に出発して、台北や台湾省政府のある南投まで抗議しに行ったこともある。
2001年、台湾省原住民族委員会が地主の土地権の取消を求めた訴えは裁判所で却下され、原住民の耕作権が認められた。田春綢さん夫妻は、地主たちとともに30年間閉鎖されていたアジアセメントの敷地内に入り、象徴としてタロイモを一つ植えた。
10年の戦いを経て、田春綢さんは顔がむくんでしまったと言う。長年の焦りと憤りで、2003年に脳溢血を起こし、危うく植物状態になるところだった。
入院している時、田春綢さんは、手術のしようもないし、根治できる薬もない、と医師が話しているのを聞いた。いつもは明るくて積極的な彼女も、うつ病になってしまい、夫が毎日リハビリや鍼灸に連れて行ってくれるのに、ロープを取り出して首をつろうとしたこともあった。怒った夫に頬を叩かれて彼女はようやく目を覚まし、何とか立ち直って、夫の無私の介護に応えなければと思ったのである。
2年余りリハビリを続けてきた田春綢さんに、今はまったく脳卒中の跡は見られない。アジアセメントとの訴訟では台北の博仲法律事務所の協力を得ることができ、行政訴願に進んでいる。花蓮県から合理的な回答が得られるまで訴訟を続けるつもりだ。
大病をしたばかりの田春綢さんだが、ゆっくりしている暇はない。日本でパン工場の工場長をしていた丸山忠夫さんは食品技術交流計画を立て、タロコの人々がこの土地で日本の醸造や漬物技術を学び、原住民の「名物」を作ってほしいと考えている。
10年がたち、田春綢さんとともに土地のために戦ってきた老人たちは、一人またひとりと世を去っていった。田春綢さんは、いつかタロコの土地を取り戻し、虹の向こう旅立った彼らに喜んでもらいたいと考えている。

六法全書を引く田春綢さんの夫の丸山忠夫さん。妻と一緒に「土地を返せ」運動に取り組む丸山さんは、花蓮を第二の故郷だと思っている。